万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

怪しい米中対立-’隠れ親中派’の問題

2021年10月08日 15時09分35秒 | 国際政治

 先の大統領選挙戦にあって親中姿勢が重大な懸念材料とされてきたバイデン大統領。ハンター氏疑惑も完全に解明されたわけではなく、同大統領には、今日なおも’隠れ親中派’の疑いが燻っています。その一方で、大統領就任後のバイデン政権は、中国に対する姿勢を一変させ、トランプ政権の反中路線を継承しています。今では、対中包囲網形成に躍起となっているのですが、この姿勢、’本物’なのでしょうか。

 

バイデン政権における対中政策への転換は、アメリカ国内にあって根強い反中感情の世論に応えざるを得なかったとする見解もあります。トランプ政権下で実施されてきた対中制裁の効果もなかなか上がらず、積み上げてきた巨額の貿易赤字も一向に減少する兆しは見られません。コロナ禍をビジネス・チャンスとした一部のワクチン・メーカー等を除いてアメリカの製造業が力強く復活したわけでもなく、不動産バブル崩壊の危機に直面しつつも、人民元圏の形成を目論む中国は、世界第一位の経済大国としてのアメリカの地位を揺さぶり続けています。また、政治面を見れば、中国によるウイグル人弾圧や台湾に対する領土的野心は看過できる問題ではありません。バイデン政権の反中政策には、れっきとした理由や根拠があると言えましょう。

 

しかしながら、その一方で、最近に至り、米中関係には微妙な変化が生じてきています。どのような変化なのかと申しますと、それは、先鋭化する米中関係の緊張緩和を理由とした米中間の貿易交渉の再開です。政治面にあっては、中国は、習近平体制の下で軍拡を進めており、国民監視体制、並びに、情報統制体制の徹底により、既に戦争に備えた戦時体制を敷いているといっても過言ではありません。台湾危機も目前に迫っているとするレポートもあり、予断を許さない状況が続いています。高まり続ける緊張を和らげるバイデン政権による一手が、米中貿易交渉の再開、即ち、対中制裁の緩和であるというのです。

 

報道によりますと、制裁緩和の対象は、脱炭素といった米中両国が共通課題とする分野の製品に限定されるそうです。しかしながら、中国が太陽光パネルといった脱炭素関連製品の一大生産国である点を考慮しますと、制裁緩和は、全世界レベルの脱炭素政策と相まって莫大な貿易黒字を中国にもたらすことでしょう。しかも、排出規制のレベルが低い中国のことですから、脱炭素関連製品の製造に伴って中国における二酸化炭素排出量は増加の一途を辿るかもしれません。今般の電力不足によって頭打ちとなる可能性があるものの、バイデン政権の対中制裁緩和の先には、脱炭素政策が中国を利する一方で、二酸化炭素排出量は減少しないという本末転倒の将来が見えてくるのです。

 

このように考えますと、バイデン大統領は、表向きは対中強硬派を装った‘隠れ親中派’であるのかもしれません。そして、言葉では厳しく中国を糾弾する同大統領の対中姿勢はポーズに過ぎず、対中制裁の緩和に理由を付けるための演出ではないか、とする疑いも浮かんでくるのです。つまり、バイデン政権は、政治的対立を激化させる程、経済的な対中譲歩を平和の名の下でもっともらしく進めることができるのです(一人二役を演じているようなもの…)。そしてそれは、不動産バブル崩壊の危機に直面している習体制に対して、アメリカが助け舟を出している構図にも見えてきます(‘世界の工場’の地位を強化することによる実体経済、あるいは、共産党利権の維持…)。

 

なお、対中融和策は、中国のみならず、チャイナ・ビジネスに携わるアメリカ企業、否、グローバル企業のたっての要望でもあります。アメリカ国内では、制裁緩和の観測に対して歓迎の声が聞かれるそうですが、対中制裁緩和は、バイデン政権が説明する通りに平和をもたらすのでしょうか。

 

これまでの中国の行動パターンからしますと、アメリカによる対中譲歩は、ミュンヘンの宥和の再来を予感させます。世界恐慌から第二次世界大戦期において、両陣営の対立の背後で巨額の利益を得た経済勢力の存在が指摘されていますが、今日にあっても、結局は、米中対立は同勢力の利益のためのシナリオの一部でありますので、日本国政府は、複雑な世界情勢を立体的な三次元構造の視点を以って分析すべきではないかと思うのです。


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皇族・王族の婚姻問題-’高貴さ’の源泉とは?

2021年10月07日 12時54分05秒 | 国際政治

平等という価値が尊重されている現代という時代にあっては、皇族や王族と言う存在は、例外中の例外と言えましょう。国民のコンセンサスという条件付きとはいえ、国家が公然と一般の国民との公的な区別を設け、特別に高い地位を与えているからです。’陛下’や’殿下’といった公式に使用すべき敬称も定められており、政府主催のみならず、民間主催のイベント等でも貴賓席が設えられます。皇族も王族も、首相でさえ頭を下げなければならない’高貴’な存在なのです。それでは、この高貴さの源泉とは、一体、どこから来るのでしょうか。

 

 おそらく、’高貴’さの源泉とは、一つではないのでしょう。先ずもって、古今東西を問わず、’高貴’さの源泉とされてきましたのは、所謂「高貴な血統」というものです。日本国の皇族の場合には、天孫降臨神話に依拠しており、’万世一系’という言葉は古代から連綿と続いてきたと信じられてきた血の高貴さの表現でもあります。ヨーロッパにありましても、かつて国王達は、王権神授説を以って自らの地位を正当化しようとしました。血統による神聖性は、’高貴’さの源泉、即ち、国民が王族や皇族を自然な感情から神聖視する重要なファクターであったと言えましょう。

 

 もっとも、以前にも本ブログで述べておりますように、今日の遺伝学の発展は、血脈による高貴さを急速に希薄化しております(血統の継続性に対する疑義は別としても…)。初代から代を重ねるごとに減数分裂によって血の高貴さも半減してゆくからです。もちろん、限られた範囲で婚姻が行われる場合には、’高貴な血’の濃度はある程度保たれるのでしょうが、婚姻を自由意思に任せますと、否が応でも’高貴さ’は失われてゆきます。公式の地位としては、以前とは変わらずに’王族’や’皇族’であっても、流れている血はもはや高貴ではなくなり、一般の国民と同列となってゆくのです。

 

 加えて、王族や皇族の血統に対する国民の崇敬心は、近代以降の合理主義的な物事の捉え方によっても弱まっています。何故ならば、特定の遺伝子の継承者のみが、他の人々よりも特別に高貴であることを科学的に証明することはできないからです。

 

 ’高貴’さをもたらす二つ目の要因は、義務と権利との特別な関係において見出すことができます。その典型例は、封建制度下におけるヨーロッパの帯剣貴族とその保護下にある領民との間に見られます。貴族達は、外部の敵から攻撃を受けた際には、前者が自らの命を賭して領民を護る代わりに、平時にあっては領民から敬われ、贅沢な生活も許されていたのです。この関係性は、所謂、’ノーブレス・オブリージュ’と呼ばれるものであり、高い地位にはより重い義務が伴うというものです。そして、この構図では、義務の遂行、あるいは、人々への貢献こそが重要であり、血統の神聖性は殆ど関係ありません。このため、日本国を含めた世界各地にあって、人々のために自らの命を捧げた人は、どのような血筋であれしばしば偉人として後世の人々の記憶にも刻まれているのです(キリストの磔刑も、人類のために自らの命を捧げたという構図において同類型に含まれるのでは…)。

 

 一般の人々よりも特別に重い義務を果たすということは、それは、しばしば自己犠牲をも意味します。高貴な者はそれに相応しい義務を遂行すべしとする観念は、貴人と一般の人々との間の暗黙の了解でしたので、先陣を切った勇敢な騎士が戦死するケースも見られたのです。しかしながら、ノーブレス・オブリージュという言葉も、今や死語になりつつあります(なお、ヨーロッパの騎士道精神は、第一次世界大戦にあって貴族階級の若者の多くが自らの義務を果たすべく戦場にあって奮戦し、命を落としたために絶えてしまったとも…)。現代という時代では、王族であれ、皇族であれ、誰であれ、個人の自由や人権の尊重こそ最優先されるべき価値と見なされているからです。現代国家の大原則としての基本的な自由や権利の平等は、ノーブレス・オブリージュに基づく非対称な権利・義務関係を否定してしまうのです。

 

 しかも、現代という時代にありましては、王族や皇族の役割も大きく変化しています。今日、これらの人々が、国民の盾となり、国民のために自らの命を犠牲とするようなリスクの高い義務を負っているわけではありません(むしろ、逆かもしれない…)。日本国にありましても、その憲法において天皇を国家並びに国民の統合の象徴と定めるのみです。国事行為などの天皇の権能に関する条文も設けられてはいますが、皇族の役割については空文なのです。ここに、特権を維持しつつ重い義務を負わない、あるいは、国民に対する責任意識の低い皇族とは、果たして、高貴な存在なのだろうか、とする素朴な疑問が、国民の側にも生じてきていると言えましょう。

 

 そして、第3に、‘高貴’の源泉があるとしますと、それは、法律による強制です。罰則を設けて高い地位にある人を崇敬するよう国民に強制するのですから、‘見せかけの高貴’ということになるでしょう(中国の習近平体制や北朝鮮の金王朝のよう…)。不敬罪を設けるのでしょうから、同形態ですと、国民の内面にまで踏み込みかねず、人々の内面の自由を侵害してしまいます。また、その馬鹿馬鹿しさに耐えられない国民からの抵抗も予測されるでしょう。

 

 イギリスでも王族の婚姻を機に混乱が生じていますが、日本国にありましても、今後の天皇、あるいは、皇族の在り方を考えるに際しては、’高貴’さの源泉にまで遡って考察する必要があるように思えます。そして、今日、あらゆる側面から見ても’高貴ではない’と国民の多くが判断した場合には、もはや、国家の制度としての王族や皇族は維持し得ないのではないかと思うのです。


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言論の多様性こそ重要-自由なき’多様性の尊重’の欺瞞

2021年10月06日 12時41分56秒 | 国際政治

 近年、各国とも、マスメディアのみならず政府によって国民は’多様性の尊重’というフレーズのシャワー’を浴びせられ続けています。段々と同一のフレーズを日夜聞かせる’ブレイン・ウォッシュ(洗脳)’の手法にも近づいてきているようにも感じられるのですが、マスメディアが先導している’多様性の尊重’とは、実際にはその真逆の画一化に他ならないようにも思えます(ダブル・シンキング、あるいは、メビウスの輪作戦…)。そこで、本記事では、多様性の本質的な価値とはどこにあるのか、という問題を考えてみることといたします。

 

 今日、政府やマスメディアが喧伝している’多様性’とは、差別反対運動の文脈において理解されるものです。人種、民族、宗教、性別、LGBT等々、基本的には生来の属性の違いを認め、差別なき社会を築くという目的において’多様性’の尊重が叫ばれているのです。確かに、不当な差別はあるまじきことですので、とりわけリベラル派の人々は同運動に熱心に取り組んでいます。しかしながら、より深く人類の来し方を見つめますと、人類とは、アフリカ起源説であれ、旧人との混血説であれ、地球上における分散定住等により、遺伝子レベルにおいて多様性が生じてしまっています。言い換えますと、多様性は既に存在しているのであり、多様性の存在という現実に対して、それが差別の要因となることへの批判として、’多様性の尊重’の主張があるのです。

 

 この観点からしますと、多様性の尊重とは、人種や民族といった固有性を尊重し、それを保存するよう求めているのではなく、アメリカのような多人種・多民族国家、あるいは、融合社会における差別反対のための標語であると言えましょう。一民族一国家を原則とする今日の国民国家体系と’多様性の尊重’が常々衝突を起こすのも、たとえ歴史的にその国で暮らしてきたマジョリティーであったとしても、それが数ある多様な固有性の一つに格下げされ、国民性とも表現できるような伝統や慣習の継承さえ差別行為と見なされかねないからなのでしょう。

 

逆からの見方をすれば、多人種・多民族国家ではない特定の民族を凡その枠組みとする一般の諸国にあっては、’多様性の尊重’が強調される必要は、それ程にはないはずです。人種や民族的な多様性そのものが元より希薄なのですから。むしろ、今日にあって同フレーズが連呼されるのは、日本国を含め、あらゆる国において移民政策が推進されている証とも言えましょう。そして、人類全体からすれば、移民の増加は人種・民族的な枠組みを融解させますので、逆方向に人類の画一化が促進されてしまうのです。真に人類の多様性を尊重するならば、移民政策反対を訴えるのが筋と言えましょう。

 

 以上に述べたように、リベラル派が主張する’多様性の尊重’は、その実、多様性の消滅をもたらすのですが、多様性の価値は、属性の違いのみではありません。否、人類の歴史からしますと、多様性が最も尊重されるべきは、人々の言論であるともいえましょう。近代に至り、言論の自由が手厚く保障されるに至ったのも、古今東西を問わず、人々の言論というものは抑圧される傾向にあったからです。国民による政府や政権批判は許されず、自由な政策論争さえ封じられてきたのです。言論弾圧の忌まわしい歴史があってこそ、言論の自由は、’抑圧からの自由’という意味において近代国家の原則として確立されたと言えましょう。そして、言論の自由は、言論の多様性と凡そ同義と言っても過言ではありません。

 

 ところが、この重要な基本原則は、今日、危機に瀕しています。一党独裁国家である中国といった全体主義国のみならず、リベラル派が政権にある自由主義国においても言論の多様性は失われつつあるからです。ワクチン接種推進然り、脱炭素化然り、そして、デジタル化然りです。’多様性の尊重’というフレーズも、今では、異論を許さない’ドグマ’と化しています。何れも、科学的な根拠や議論を踏まえた自由な政策論争を要するにもかかわらず…。全世界が、政府並びにマスコミが連携して同一の目的に向かってひた走っており、SNS各社による’私的検閲’もあって、これらの方針に反する言論は迫害を受けているのです。

 

 ’多様性の尊重’が今日にあって真に必要とされているのは、人々から自由が奪われつつある言論空間であるのかもしれません。言論の多様性が封じられれば、全体主義体制という名の監獄に人類が閉じ込められ、’支配者’が定めた唯一絶対の’真理’を押し付けられることになるのですから。


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岸田首相が耳を傾ける’国民の声’とは

2021年10月05日 15時55分26秒 | 日本政治

 昨日、日本国では岸田文雄内閣が発足しました。マスメディアの報道によれば、岸田新首相の政治家としての長所は、他者の声に親身になって耳を傾ける態度にあるそうです。菅前首相がその就任直後から独断専行的な政権運営が目立っていただけに、’国民の声’に耳を傾けようとする岸田首相に対する国民の期待も自ずと高まります。その一方で、’国民の声’というものについては、全く懸念がないわけではありません。

 

 第1に心配されることは、’国民の声’とは、一体、誰の声であるのか曖昧なことです。首相が直接に国民一般と対話する機会は限られていますので、’国民の声’とは申しましても、岸田首相の周辺の声に限定されてしまう可能性もあります。その声とは、地元の後援団体や事業者の人々の声かもしれませんし、あるいは、首相の私的な交際サークルの人々の声かもしれません。

 

 また、第2の懸念は、’国民の声’とは、常々、マスメディアによって創作されてしまうケースがある点です。近年、世論調査の結果に対する信頼性が著しく低下するようになりましたが、その原因は、調査を実施するメディア側が、自らの方針に沿う結果が得られるように、調査対象差を限定したり、予め回答を誘導したり、あるいは、結果を改竄してしまうケースが後を絶たないからです。世論調査の結果として発表された数字と現実との乖離に、唖然とさせられた国民も少なくないはずです。仮に、岸田首相が、メディアの世論調査の結果を’国民の声’とみなすとしますと、結局は、真の国民の声は政治に反映されないこととなりましょう。

 

 第2の懸念に関連して第3に指摘し得るのは、’国民の声’とは、本来、賛否両論に分かれるような多様性があるということです。マスメディアは、日頃から多様性の尊重を連呼していますが、例えば今般のワクチン接種に関する報道を見る限り、’国民の声’は、ワクチン待望論一色の如きです。現実には、ワクチン・リスクへの不安等から接種を見送る人も決して少なくないにもかかわらず、こうした反対者の声はかき消されてしまっているのです。岸田首相は、政府の方針に反対する、あるいは、批判する’国民の声’にも耳を傾けてくださるのでしょうか。

 

 第4に懸念されるのは、必ずしも多数が正しいとは限らない点です。百歩譲ってマスメディアが報じる世論調査の結果が正しいとしても、歴史を振り返れば、多数意見が間違っているケースは多々あります。多数者の意見を以って’国民の声’とみなし、それを実現するこが民主主義国家のあるべき姿とされるものの、多数者の意見に従ったばかりに悲惨な状況に陥ることも少なくありません(多数者の横暴の問題でもある…)。例えば、先のワクチン接種をめぐる見解の相違についても、たとえ多数派がワクチン安全論支持者であったとしても、後々、ワクチン危険論の方が正しいことが医科学的に証明されないとも限らないのです(もっとも、多数者は、ワクチン危険論支持者である可能性もある)。

 

 マスメディアが最有力候補と見なしていた河野太郎氏の基本姿勢が’国民の声’に耳を塞ぐ、あるいは、国民からの批判や反対意見は完全に遮断する、というものでしたので、岸田首相の姿勢は、国民にとりましては安心材料となりましょう。その一方で、’国民の声’について深く考えてみますと、一抹の不安が脳裏をよぎるのです。


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止まらない公明党による国交相ポストの独占-同省の分離・分割が必要では?

2021年10月04日 13時19分25秒 | 日本政治

 本日、10月4日、衆参両院での指名等の手続きを経て、日本国では岸田文雄内閣が発足する予定です。岸田政権の成立に先立って既に内閣人事が固まっており、新聞各社も新内閣の顔ぶれを第一面で報じております。ネット上でもデジタル相兼規制改革・行政改革担当相、並びに、ワクチン担当相のポストに女性閣僚を起用した人事が目立っていますが、もう一つ、その動向が注目されるのが国土交通相のポストです。何故ならば、長期に亘り、公明党による独占状態が続いてきていたからです。

 

 公明党が最初に同省の大臣のポストを得たのは2004年9月に発足した第二次小泉内閣に遡ります。2012年に成立した第二次安倍内閣以降に至っては、公明党による独占状態が続いており、かれこれ20年近く、同ポストは公明党によって凡そ掌握されてきたのです。そして、今般の岸田内閣にあっても、国交省のポストは公明党の斎藤鉄夫氏が’継承’しています。言い換えますと、国交相ポストの公明党独占状態という異常事態が’正常化’されることはなかったのです。

 

 そもそも、公明党は、広く国民に開かれた国民政党とは言い難い政党です。誰もが知るように、創価学会という新興宗教団体を支持母体としており、日本国民の数%に過ぎない学会員によって支えられています。全国に設けられている創価学会の会館には、日本国民の誰もが立ち入ることができるわけではなく(神社や仏閣、並びに、教会は誰に対しても基本的にはオープン…)、閉鎖性の強さが際立っています。いわば、私的な信仰(拝金主義?)を絆とする’秘密結社’のような組織なのです(そのインターナショナル志向からしますと、おそらく、イエズス会や共産党をも束ねる超国家権力体の支部なのでしょう…)。

 

日本国憲法が定める政教分離の原則にも反しており、その存在自体が違憲の疑いが濃いのですが、これまで違憲訴訟が起こされていないため、既成事実の積み重ねによって政権与党の一角を占めてきました。中国とも強固な関係を築いているため、一般の日本国民にとりましては、全体主義志向、かつ、海外の組織とも繋がる得体の知れない警戒すべき存在なのですが、その政党が、国土交通省のポストを独占して日本国の現状は忌々しき事態です

 

そしてここで考えるべきは、国土交通省という巨大官庁の在り方です。国土交通省とは、2001年の中央省庁の再編に際して、運輸省、建設省、北海道開発庁、及び、国土庁の4つの省庁を統合して設置された新設の官庁です。しかも、海上保安庁や観光庁なども同省の外局ですので、その権限の範囲は広大です。国土交通相のポストは、凡そ20を数える閣僚ポストのうちの一つに過ぎず、ささやかな印象を受けますが、その実態をみますと、同省が内包するようになった6つ以上の‘隠れ閣僚ポスト’を全て公明党が‘指定席’として独占しているようなものなのです。しかも、親中派の公明党が海上保安庁のトップに座している状況は、尖閣諸島などの問題におきましても、政府による売国行為を懸念する材料の一つと言わざるを得ないのです。

 

 今になって考えてみますと、2001年の中央省庁再編にあって、国土交通相という、かくも巨大な権限を有するポストを何故つくりだしたのか、不思議でなりません(利権も集中することに…)。現在にありましても縦割り行政の打破が叫ばれ、行政改革の必要性が叫ばれていますが、上意下達の迅速化をよしとする根拠が通用するならば、全ての権力を一機関に集中させる独裁が、最も効率的な組織形態ということにもなりかねません。

 

一方、複雑化した現代という時代からすれば、むしろ、専門分野ごとに細かく機関を分け、仮に縦割り行政の弊害が表面化する場合には、各機関の意向や権限を円滑に調整し得るシステムを構築した方が余程現代という時代に相応しく思えます。巨大化した国土交通省の権限が公明党という’私的団体’に独占されている現状から脱却するためにも、急ぐべきは、同省の分離・分割(最低限、海上保安庁は分離を…)、並びに、中央省庁の’再再編’ではないかと思うのです。


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TPPへの中国加盟は拒否すべきでは

2021年10月01日 13時55分46秒 | 国際政治

 米国が主導する形で進められてきたTPPは、トランプ政権による離脱により、残る11カ国で発足することとなりました(2018年12月30日に協定発効…)。アメリカは抜けたものの、2021年に至るとイギリスがCPTTPへの加盟申請を公表し、その後も、中国、台湾が同国の後に続くことになりました。イギリスの動きは世界経済の’ラスボス’の意向を表しているのでしょうが、中国の動向にも注意を要しましょう。

 

 イギリス、あるいは、同国をも操る’巨大資本’の視点からしますと、中国のCPTPPへの取り込みは、同勢力のグローバル戦略に合致していると推測されます。ワクチンパスポートとも連動するデジタル化、並びに、脱炭素化を両輪として今後の世界経済を動かすとすれば、比較的環境規制が緩く(脱炭素の公約が’空手形’でも誰からもチェックされない…)、かつ、統制や国民監視体制の行き届いた中国を’世界の工場’、並びに、先端技術の開発拠点(非倫理的な研究も可能…)として温存させておくことは、大きなメリットとなるからです。

 

 日本国政府を含むCPTPP加盟国の政府も、自国民に対して古典的な自由貿易論を以って説明していますが、超国家的なグローバル戦略は、国家レベルの利益、あるいは、国民一般の利益とは必ずしも一致するわけではありません。否、規模に優るグローバル金融や企業に利益が集中し、得てして期待とは裏腹に、中小規模の企業や国民が不利な競争を強いられて苦境に陥る傾向にあります。親中派とされてきたバイデン政権でさえTPPへの復帰に二の足を踏む理由も、伝統的に労働者層を支持基盤としてきた米民主党政権としては、TPP加盟による更なる格差拡大や雇用不安による民心の離反を恐れているのでしょう。もっとも、超国家権力体の計画は、先に中国加盟を実現した後にアメリカをも参加させ、米中二大市場を包摂する’グローバル市場’を実現することかもしれませんし、あるいは、中国としては、先んじてCPTPPに加盟することで、米国加盟申請時に際して’拒否権’を確保しようとしているのかもしれません。

 

 そして、広域市場においては、規模こそが競争力の主要な決定要因となりますので(先端技術の開発も資金力がものを言う…)、中国の加盟は、羊の群れの中に巨大な恐竜が混じるようなものです。ドイツの一人勝ちが指摘されてはいるものの、欧州単一市場形成の動機として、巨大市場であるアメリカに対抗するために、中小規模の諸国が団結する必要があったとされています(政治的な理由から、ロシアも排除…)。この観点からしますと、中国加盟のCPTTP加盟の承認は、自らを恐竜の前に差し出すようなものです。中国加盟に賛意を示す理由として、しばしば14億の市場の無関税化が挙げられておりますが、同時に自らの市場をも中国企業に開放する義務が生じますので、規模において競争力に劣る自国企業が餌食となり、淘汰されてしまう方が余程あり得る未来なのです。

 

しかも、加盟諸国の中国市場への依存度が高まれば高まるほど、CPTTPは、人民元の貿易決済通貨化により’人民元圏’化し、さらには、加盟諸国の国内に対してデジタル人民元網が拡張さる可能性も否定はできなくなります。アメリカが参加していないのですから、敢えて米ドルを貿易決済通貨として使用する理由がないからです(国際送金やデジタル決済も人民元に…)。アメリカは軍事的な同盟国ですので、中国のCTTPP加盟に伴う日本国の中国傾斜については政治的なリスクも考慮されるべきと言えましょう。さらに、先に可能性の一つとして指摘しましたように、中国の加盟により同国がアメリカのTPP加盟の行方を左右する権利を握ることにでもなれば、日米関係にもマイナス影響が及ぶ事態も予測されます(日本国政府による中国加盟承認が背信的行為と見なされる…)。

 

 今般、日本国では、岸田文雄氏が新たな自民党総裁に選出され、程なく岸田政権が誕生する見通しですが、中国のCPTTP加盟申請につきましては、経済面においても、政治面においても、長期的な視点からすれば、日本国にとってのプラス要素は殆ど見当たりません。締約国の一国として、日本国も独自に中国加盟の是非を判断する権利を有しているのですから、先を見通し、安全策として中国加盟に対する承認は見送るべきなのではないでしょうか。そして、徒にTTPの拡大を目指すよりも、そのメリットや存在意義について今一度見直してみる作業も必要なように思えるのです。


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