万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

民主主義こそ‘初めであり終わりである’

2020年06月22日 11時14分55秒 | 国際政治

 香港安全維持法の制定は、国際公約であった「一国二制度」を形骸化すると共に、香港の民主化運動を消し去ろうとしています。国際社会からの批判が高まりつつも、同法の制定は、‘民主主義体制の諸国を含め他の国々と変わりはない’とする擁護論もあるようです。しかしながら、一党独裁体制を堅持する中国と他の諸国との間には、決定的な違いがあります。因みに、中国側が取り締まりの対象とした行為類型とは、(1)国家の分裂(2)中央政府の転覆(3)テロ活動(4)外国勢力などと結託して国家の安全を脅かす、という4つです。

そもそも、自由で民主的な国家にあっては、国民に対して国家の分裂を主張する行為を法律を以って禁じてはいません。イギリスやスペイン等の諸国を見れば一目瞭然であり、スコットランドやバスク地方の独立運動に対して、それを主張する人々を‘政治犯’として取り締まるということはしてはおりません。日本国でも、喩え沖縄において独立が主張されたとしても、警察や公安当局の手によって逮捕されたり、投獄されることはないのです。むしろ、イギリスのようにスコットランドの自己決定権を認め、運命を決する判断を住民自身に委ねる住民投票を実施する国もあります。仮に取り締まりの対象となるとすれば、それは暴力行為、破壊工作、あるいは、外患誘致行為などの海外勢力からの介入等を伴うケースです。平和的なデモや言論による訴えである限り、自由で民主的な国では、分離独立といった、結果として国家の分裂を帰結する主張であっても言論の自由の下で許されているのです。

 また、同法が取り締まりの対象の一つに挙げた中央政府の転覆、すなわち、政権政党から他の政党への政権交代も、民主主義国家では、‘罪’とはなりません。この場合でも、‘罪’となるのは、国家分裂と同様に暴力等を用いたケースに限られます。民主主義国家では、しばしば普通選挙制度を介して政権交代が行われており、民意を受けた‘政府の転覆’はむしろ至極当然のことなのです。国家権力を排他的に独占している中国共産党にとりましては、同党以外の政党が国家権力を掌握することはあってはならいことなのでしょうが、多党制の下で実施されている民主的な選挙は、国民に政府を選ぶ自由を与えているのです。

 ‘他の諸国と変わりはない’とする擁護論は、残りの(3)テロ行為、並びに、(4)外国勢力などと結託して国家の安全を脅かす、というこの二つの行為類型については当てはまるかもしれません。しかしながら、(1)の国家の分裂と(2)の中央政府の転覆については、明らかに中国と他の民主主義国家とでは違っているのです。それでは、百歩譲って、民主主義国家にあって、その国民が、民主的な選挙制度を通して自発的に一党独裁を選択することはあり得るのでしょうか。つまり、体制選択の自由が国民にあるとしますと、論理的には、民主主義体制そのものを否定する事態の発生もあり得るからです。

 このリスク、全くあり得ないわけではありません。実際に、戦前にあってナチス政権は、民主的な選挙制度を踏み台にして独裁政権を樹立しています。しかしながら、選挙に際してナチスが予め総統に国家権力をゆだねる授権法や他の政党の非合法化などを公約として掲げていたとしたら、当時のドイツ国民は、ナチスに一票を投じたでしょうか(ナチスは、政権与党となった後に、国会に占める同党の議席数にものをいわせて、突如、これらの法案を国会に提出・成立させてナチス一党独裁体制を確立…)。あるいは、ヒトラー・ユーゲントや親衛隊といった別動隊とも言える組織をナチスが設立し、いわば‘政党の軍隊・警察化’を図らずして、ナチスは政権の座に就くことはできたのでしょうか(本来、非武装である組織が不要であるはずの暴力手段を備えた点において、宗教組織の軍隊化を行ったイエズス会や商業組織が軍隊を保有した東インド会社に類似…)。

こうした諸点を踏まえますと、第一次世界大戦後にあって天文学的な賠償金を課せられたドイツの国民が窮地に追い詰められていたとはいえ、ナチス・ドイツの事例を以って、国民による自発的な民主主義体制の放棄の前例とするのは適切ではないように思えます。ナチスは、巧妙にドイツ国民を騙し、かつ、暴力手段を用いたのであって、国民の自由意思による自発的な選択であるとは言えないからです。

 そして、その最大の理由は、民主主義こそ統治権力の存在意義そのものを支えているからです。統治権力とは、そもそも人々が集団で生活するに当たって安全や安定等をもたらすために必要とされたものです。ところが、集団、そして、集団の内部で暮らす個々の人々にとって統治の諸機能が不可欠であったからこそ、長きにわたる人類史にあって、古今東西を問わず、その権力が私物化されたり、本来の目的から逸脱して他者を支配する道具とされたり、あるいは、他者を搾取するための暴力的手段して濫用されてきたのです。いわば、人類は、統治権力の不当な行使に苦しめられてきたのであり、その状態から脱する道として模索されたのが、選挙制度をはじめ、国民が統治に参加し得る制度を設けることであったと言えましょう。

 その一方で、共産主義思想では、人類の苦難の道を克服するプロセスを、階級闘争におけるプロレタリアートの最終的な勝利とそれに伴う同階級による権力の独占として描いています。この理論に基づいて、共産党は自らの権力独占を正当化しようとしたのですが、これでは、過去の‘天下取り’と何らの変りもない単なる権力争いに過ぎません。永遠に人類が統治権力の不当な行使から解放されるとすれば、それは、統治の根本的、否、普遍的な存在意義に立ち返り、統治のシステムに国民を内在化してゆくしかないのではないでしょうか。民主主義こそ、‘初めであり、終わり’なのではないかと思うのです。

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする