万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

独裁者礼賛と心の自由は両立しない

2019年04月16日 18時26分28秒 | 国際政治
北朝鮮が海外向けに発信する映像には、高揚した表情で独裁者を礼賛し、賛辞を並べ立てる国民しか登場しません。金正恩委員長が民衆の前に登場しようものなら、全ての国民が手に持つ紅色の華を折れんばかりに振って喜びを表現しています。同体制を支持する人々は、北朝鮮の国民は幸せであると主張するのでしょうが、他の諸国の人々から見ますと、我を忘れて独裁者に全てを捧げようとする北朝鮮国民は哀れにも見えます。

 しばしば、独裁体制の国民は慈悲深い指導者の下で皆が団結しており、幸せであるとする説があります。しかしながら、それは、人という存在の真実なのでしょうか。そもそも、人には好き嫌いの感情がありますので、全ての人から好かれる人は存在していません。利己的他害性が強い反社会的な人物は当然としても、たとえ才能に恵まれた人や性格の良い善人であったとしても、嫉妬によって嫌われるケースもあります。然したる理由もなく、なんとなく嫌いと場合もあり得るのです。全体主義体制の下に置かれている国民の中にも、独裁者が心の中では嫌いであったり、尊敬できない人が存在することは当たり前です。

 ところが、独裁体制擁護論者の人々は、指導者がどのような人物であれ、国民に対して忠誠と尊敬の念を捧げるように強要しようとします。そして、それこそが、独裁者への心酔こそが国民の幸せであると決めつけているのです。心の自由は人の幸せの源泉の一つですので、国民の心を独裁者礼賛に強制的に向けさせる体制が幸せをもたらすはずもありません。言い換えますと、独裁体制と心の自由は両立せず、現代という時代にあって、独裁体制が人々から嫌悪される理由もここにあるのです。仮に北朝鮮の国民が幸福感に浸っているとしますと、それは国家的な洗脳の成果であり、一般の自由諸国では、個人崇拝はパーソナル・カルトと認定されています。

 日本国内でも、天皇の代替わりを機に、北朝鮮に近い体制の樹立を目指す勢力が蠢いているようにも思えます。日本国と国民の安寧のために天神地祇に祈りを捧げるという伝統的なお勤めに対しては、国民が皇室に尊敬を払うことはあったとしましても、昨今の観劇といった私的な活動まで詳細に報道し、暗に国民に礼賛を求める姿勢は、どこかパーソナル・カルトの風味が漂います。今日の天皇の“神格化”は、日本国の神話に由来するのではなく、個人礼賛に比重を移しており、それは、一般国民の常識や良識からしますとどこか不気味にも感じられるのです。

 一旦、独裁体制が成立しますとそれを国民の力で覆すのは困難となりますし、‘国民の幸せ’は、国家が上から独善的に決定してしまいます。自由も、民主主義も、法の支配も、そして、基本権の尊重や公平平等と言った価値も、全て消し去られてしまうのです。北朝鮮を反面教師とし、日本国にあっては、ゆめゆめ同国と同様の体制へと移行するような‘静かなる革命’を起こしてならないと思うのです。

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コメント (1)
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