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万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

令和にも多様な評価を-時代の閉塞感をつくらないために

2019年04月03日 14時18分56秒 | 日本政治
政府説明、実態と乖離=「令和」の選定過程
4月1日に発表された新年号令和につきましては、マスメディアが街角で拾った国民の声はおおむね好意的なようです。改元を以って新たな時代の到来と捉え、天皇の代替わりを日本国を覆ってきた閉塞感を打破する好機として期待する声もあります。しかしながら、マスメディアによる新元号礼賛一色の報道ぶりこそ、実のところ、国民に閉塞感を与える元凶なのではないかと思うのです。

 閉塞感とは、外部からの自由の束縛によってもたらされる感情です。自らの考えるところ、並びに、感じるところを素直に、かつ、正直に行動や言葉で表現できない状況にある場合、人は、内面の心の動きを外部に表出できないもどかしさ、即ち、閉塞感というものを感じるのです。閉塞感に覆われた社会では、人々は、心身両面において伸びやかに自分自身というものを他の人々に伝えることができませんし、コミュニケーションもぎこちないものとなります。お互いに本心を語ることもできず、人々は、常に自らの心に嘘を吐くことともなるのです(二重思考…)。こうした状態は、精神的にはストレスとなりますので健康を害する要因になると共に、社会全体の空気も淀み、息(生き)苦しくなるのです。閉塞感とは、個人にとりましても、社会にとりましても、成長や発展をも妨げる阻害要因に他なりません。

 それでは、どのような要因が閉塞感をもたらすのでしょうか。閉塞感とは、内面の思考が言葉や行動として外部に表出される際の経路において、その円滑な移行が外部要因において遮断されることによって起こされますので、その要因は、外部の環境にあります。つまり、自らの心の内に生じた感情や思考が外的障壁によって閉じ込められてしまうのであり、その主要な要因として指摘されてきたのが公的な強制や同調圧力です。もちろん、内面において犯罪や反倫理的な行為を思考した場合には、法律や道徳律を以って外部表出が抑制されるのは当然ですが、しばしば政治の世界では、権力者が自らへの批判を封じ込めるためにも使われてきました。前者の代表的な事例としては言論統制があり、後者についてはマスコミによる世論誘導等があります。上部からの力が働いて、反対意見や批判的意見が表にできない時こそ、閉塞感が強まるのです。

 こうした閉塞性の弊害を考えますと、今般の改元に際してのマスメディアの歓迎一色の報道ぶりは世論誘導の感を否めません。令和の新元号に全ての国民が好印象を抱いたわけではありませんし、これらの文字には多義性がありますので批判的な意見があってもおかしくはありません。国民の中には、保守であれ左翼であれ現在の皇室に疑問を持つ人もいますし、中には元号制度を含めて皇室の廃止を望んでいる人さえ存在しているはずです。反対意見や批判的見解が存在しないはずはなく、マスメディアの世論誘導により、国民が自らの批判や否定的な見解を含めた多様な意見が自由に表出できない状況にあるとしますと、現在の日本社会は、やはり重苦しい閉塞した空気に覆われていると言えましょう。このような状態では、令和への改元を以って閉塞感を打ち破ることは、到底、無理なお話となるのです。

 令和については脱漢籍が強調されましたが、『万葉集』を典拠としつつも強引に令と和を引き出すぐらいならば、‘万葉’という元号の方がよほど日本らしさを醸し出したかもしれません。文中の離れた二文字を拾うよりも、二文字一体で意味を成す美しい日本語はたくさんあります。また、7世紀の‘朱鳥(あかみどり)’のように、漢読みではなく訓読みとする方法もあったはずです。様々な可能性があるのですから、元号の選定については、国民による自由闊達な議論があって然るべきです。政府解釈のように、令和に国民一人一人の個性や才能が花開く時代の到来を託するのであればこそ、国民から自由な空気を奪うような言論統制や世論誘導をゆめゆめなしてはならないと思うのです。

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コメント (4)
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