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万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

アファーマティブ・アクションが偽善であるもう一つ理由

2023年07月03日 13時29分00秒 | 社会
 フランスの首都パリでは、先月末よりアルジェリア系移民2世の少年が警察官に射殺された出来事をきっかけとして、放火や略奪を伴う暴動が発生しています。この事件、2013年にアメリカのフロリダ州で起きたトレイボン・マーティン射殺事件に端を発したBLM運動とも状況が類似しており、リベラル系の過激な活動団体がサポートしているとする指摘もあります。その背後には、破壊と混乱を以て社会を変革しようとする‘危険思想’の影も伺えるのですが、事件の背景には、人種差別問題があることは否定のしようもありません。

 それでは、この人種差別問題、アファーマティブ・アクションをもって解決するのでしょうか。アメリカのアファーマティブ・アクションとは、1960年代に人種差別反対運動としてアメリカ社会を揺るがした公民権運動の成果の一つとして理解されがちです。公民権運動では、その名が示すように、アフリカにルーツを遡る黒人の人々が白人と同等の市民権を要求されました。道運が功を奏し、今日では、人種の違いに拘わらず、アメリカ市民は、参政権を含め、皆等しい内容の市民権を有しています。法の前の平等は実現したのですが、法的な平等では差別や格差は解消できないとして、結果の平等を求めたことから始まったのが、社会的に不利な立場にある人々に対して優先的に入学や就職の機会を与えるアファーマティブ・アクションです。

自由と平等との間の二律背反性と同様に、公民権運動とアファーマティブ・アクションとの間には本質的な相反性があります。とりわけ、数が限られており、参加者の間に競争・競合的な関係がある状況下では、後者が、優遇条件を持たない人々にとりまして不平等で不公平な制度となるのは既に前回の記事で述べたところです。法の前の平等に照らすならば、受験資格において全ての市民を平等に扱い、採点に際しても一切の偏向を排除すれば、その結果は、誰がみても人種差別なき‘公平な結果’なのです。つまり、選抜を要する競合・競争状態では、‘結果の平等’よりも‘結果の公平’が重要なのです。

かくして、アファーマティブ・アクションとは、全ての人々から支持されているわけでもなく、政策としての論理的正当性に疑いのある政策なのですが、もう一つ、問題点を挙げるとすれば、差別を受けてきたとされる特定の集団の中の一人あるいは少数を選んで優遇するというピックアップ式の政策手法です。この方法ですと、大学の合格者やポスト獲得者の数だけを見れば、確かに人種間に差別はないように見えます。しかしながら、その他の人々はどうなのでしょうか。

アファーマティブ・アクションが始まってからおよそ半世紀の月日が流れておりますが、上述したように、今日なおもアメリカではMLB運動が起きており、未だに人種差別問題が解消していないことを示しています。言い換えますと、この事実は、同政策には、当初に期待されたほどの効果がなかったことを示唆しているのです。むしろ、上述した理由により、優遇措置を受けることができない白人の人々の間には、下駄を履かせてもらえる黒人の人々に対する不満が鬱積してしまいます。一方の黒人の人々も、一部の人々にはチャンスが与えられますが、全体を見ますと貧困が解消されたり、生活や教育レベルが上るわけでもありません。居住地域や婚姻などについても白人の人々との融合が実現しているわけではないのです。逆説的に言えば、優遇措置を受けるためには、現状を維持した方が好都合と言うことにもなりかねないのです。

 実施後の政策評価の結果、効果が認められなければ中止した方が良いと言うことになるのですが、同制度は、結局は、リベラルな人々、否、世界権力による偽善的な人類コントロール装置の一つのようにも思えてきます。結果の平等を掲げて差別されてきたとされる人々の中から数人を選び出し、自らの配下に置いてしまう一方で(植民地支配の手法でもあった・・・)、同グループには一先ずは恩を売ります。その一方で、完全に差別が解消されてしまいますと、自らのコントロールの手段を失うことにもなりますので、双方の反目をもたらすような‘不公平性’を予め制度に組み込んでおくのです。そして、この仕組みは、黒人社会が抱えている貧困、犯罪、麻薬・・・といった問題を、黒人の人々が自らの手で自発的に解決する道をも塞いでしまいます。アファーマティブ・アクションとは、結局は、‘上から’与えられた解決策であり、権力に常に依存せざるを得ない状況にあるためにコミュニティーの内部にあって自力解決能力を育てる機会を失ってしまうのです。

 このように考えますと、フランスにあって、たとえアファーマティブ・アクション政策を導入したとしても、必ずしも解決に至るとは限らないように思えます。むしろ、世界権力の思惑通りに、社会的な分断が深まってしまうかもしれません。そして、マイノリティーとされるコミュニティーが自らが抱える問題に正面から向き合うためにも、一度、アファーマティブ・アクションを全廃してみるのも一つの試みなのではないかと思うのです。

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人種優遇政策の問題点とは-論理的誤り

2023年06月30日 10時51分35秒 | 社会
 今月6月29日、アメリカの連邦最高裁判所は、大学の入学選考に際して特定の人種を優遇するアファーマティブ・アクション政策を違憲とする判断を下しています。本日の記事では、何故、同政策が違憲とされたのか、あるいは、同政策は真に‘正しい’のか、という問題について、SDGsでも使用されている‘平等と公平の違いを説明する図’を用いて考えてみることとします。

 昨今、アファーマティブ・アクション政策は、平等(Equality)と公平(Equity)との違いを以て肯定される傾向にありました。そして、これを説明するために、ある絵が使われてきました。様々なバージョンがあるのですが、概ね、背丈の違う三人の子供達がスタジアムを囲う塀の外からスポーツを観戦しようとしている図として描かれています。同図が説明すると平等とは、3人が同じ高さの踏み台に乗るケースであり、各自の背丈の違いとは無関係に三者は平等に扱われます。ところが、同じ高さの台では、塀から頭を出してスポーツを観戦できるのは、一番背の高い子供と二番目の子供の二人だけです。背丈の足りない三番目の子供だけは、スポーツ観戦を楽しむことができないのです。

 ここで、平等ではなく、公平が登場してくることとなります。各自の乗る台の高さを背丈に合わせて調整すれば、全ての子供達がスポーツ観戦ができるようになるからです。つまり、同じ高さの台では塀に視界を塞がれてしまっている三番目の子供に対して、頭が塀の高さを越えるようにより高い台を提供してあげれば良いのです。

 同図が説明する公平性に基づけば、三人が揃ってスポーツ観戦ができる状態となったのですから、三人とも幸せです。三人の内の誰もが不利益を受けるわけではありませんので、多くの人々がこの図による説明に納得することでしょう。小さな子供に高い踏み台を用意するのは、おもいやりのある正しい行為であると・・・。即ち、アファーマティブ・アクションを含めて不利な立場にある人を優遇する政策は、皆が共に幸せを享受することができる正しい政策であるとする結論に達するのです。

 同図は、メディアなどを介して多くの人々が目にしているため、異議や異論を唱えようものなら、差別主義者のレッテルを貼られそうです。しかしながら、この図、一つの重大な見落としがあるように思えるのです。それは、現実にアファーマティブ・アクションが行なわれている場所は、絵の中にあるような皆が気楽に楽しんでスポーツ観戦ができるスタジアムではないという点です。

 平等と公平を区別するための作成された図では、子供達の関係は横並びであり、お互いの間に競争や競合関係はありません。塀の高さまで背丈が達していない小さな子供を特別により高い台に載せたとしても、他の二人には何らの影響もないのです。ところが、入学や就学等で導入されているアファーマティブ・アクションのケースにおいては、三者の関係は競争的なライバル関係です。一つ、あるいは、少数の合格者枠や数少ないポストを競っているからです。こうしたケースでは、特定の人を対象に特別措置を設けますと、競争条件が‘平等’ではなくなりますので、特別待遇を受けた特定の人のみが合格、あるいは、採用されるという‘不公平’が生じるのです。

 3人の間の競争関係を考慮すれば、同図においては、スタジアム内の観戦席に座れる人を一人選び出すシチュエーションとして描くべきこととなります。そして、アファーマティブ・アクションでは、不利な立場が考慮された三番目の子供のみが、唯一スタジアム内でゲームを観戦することができるのです。この結果、他の二人は、塀の外に置かれたままスタジアムに入ることはできません。この結末では、優遇条件を持たない故に排除された他の二人は、同制度を平等とも公平とも見なさないことでしょう。

 なお、定員数に制限のない各種の資格試験にアファーマティブ・アクションが採用される場合にも、他者に不利益を与える場合があります。塀の高さが専門職に必要とされる知識や能力を意味するならば、これらが不足しているにも拘わらず優遇措置を受けて専門職の資格を得た人の顧客や取引先等に実害が及ぶかもしれないからです。また、優遇条件を備えていない他の受験者にとりましては、優遇制度は平等でも公平でもないのは言うまでもありません。

 以上に述べてきましたように、当事者間の関係性や物事の性質の違いを無視した一面的で一方的な‘正しさの主張’には、論理的な誤りがあるように思えます。当事者の間の関係が非競争的であり、かつ、対象が誰にでも開放性のある状況下と、当事者間の関係が競争的であり、かつ、選抜や選考を要する閉鎖的な状況とでは、明らかな違いがあるからです。両者を同一視することはできないにも拘わらず、リベラリ派の人々は、両者を巧妙に混同することで、自らの都合のよい方向に平等原則を外す口実としているようにも見えるのです(偽善的な詭弁なのでは・・・)。仮に過去の奴隷制度や奴隷貿易に起因して不利益を被っている人々に対して何らかの政策的な措置を要するならば、誰もが不利益を受けない別の方法を考えるべきではないかと思うのです。

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世界経済フォーラムの世界戦略-ヤング・グローバル・リーダーズ

2023年03月31日 13時06分39秒 | 社会

 今日ほど、陰謀の存在を、愚か者の荒唐無稽な妄想として‘せせら笑う’ことでその存在を否定しようとする‘陰謀論’が批判に晒されている時代はないかもしれません。誰から見ても不自然な現象が続発する中、‘陰謀論’は世論操作のための心理操作の手段であるとする疑いが日に日に濃くなっています。とりわけ、地球温暖化問題のみならず、各国政府によるコロナ・ワクチン並びに昆虫食の推進が疑惑を深めるきっかけとなったのですが、陰謀を企む勢力―世界権力―のフロント組織として、常々、名を挙げられてきたのが世界経済フォーラム(ダボス会議)です。

 世界経済フォーラムは、1971年にドイツに生まれスイスで育った経済学者にしてエコノミストのクラウス・シュワブ氏によって設立されています(設立当初の名称はヨーロッパ・マネージメント・フォーラム(the European Management Forum))。同氏は、留学先の米ハーバード大学ケネディ・スクールにおいてかのヘンリー・キッシンジャー博士の教えを受けています。同留学は1960年後半のことですので、帰国から程ないダボス会議の設立に際しても、ユダヤ系にしてロックフェラー家とも知古のあるキッシンジャー博士の影響や指南を受けたことは容易に推測できます(キッシンジャー博士自身は1973年にニクソン政権において国務長官として政界入り・・・)。因みに、同氏の父親は、ナチスの原子爆弾開発に協力したとされるエッシャーウイス社に勤めていたそうです。

 かくして世界経済フォーラムには、その設立時からして、どこか不自然さがあります。何故ならば、世界規模の組織を一から創設するには、資金も人脈をも要しますので、当事無名であったクラウス・シュワブ氏一人の力では凡そ不可能であるからです。欧州委員会や欧州産業協会の後援があったとされるものの、ヨーロッパを越えてグローバル企業を束ねるには、金融・経済財閥勢力の後押しがあったとするのは合理的推測です(この点は、革命や戦争といった他の大規模な事件とも共通している・・・)。言い換えますと、同フォーラムの設立自体が、その背後にある‘本体’を隠しているという点において陰謀であったとも言えましょう。

 世界経済フォーラムは、しばらくの間に全世界のグローバル企業の親睦会といったイメージで捉えられてきました。実際に、今日に至るまで、同組織の運営を財政面から支えているのは、同フォーラムの選考委員会の審査を通過した1000社以上の会員企業からの寄付金です。ところが、同フォーラムの活動の範囲は経済に留まらず、やがて積極的に政治といった他の分野にも進出するようになります。その手段の一つが、同フォーラムの主催する年次総会に各国の政治家や国際機関のトップを招くというものでした。最盛期の年次総会は、各国の大統領や首相、中央銀行総裁、国連総長、NATOの事務総長などなど、これらの人物を全てコントロールすれば、全世界を支配できる思えるほどの顔ぶれとなったのです。

 そして、もう一つ、世界経済フォーラムは、全世界に自らの影響力を浸透させるための仕組みを設けています。それは、毎年一〇〇名ほどのヤング・グローバル・リーダーズを認定するというものです。これまでの認定者には、政治家ではウラジミール・プーチン大統領をはじめ、アンジェラ・メルケル元首相、カナダのトルドー首相、フィンランドのサナ・マリン首相などの名が見られます。

今年2023年には、高齢者集団自決発言で批判を浴びた成田悠輔氏も選ばれています。同氏の選定で日本国内でもヤング・グローバル・リーダーズの存在が注目されることとなったのですが、選ばれた人々を見ますと、同フォーラムの傾向が読み取れます。将来性を見込んだ政治家(同フォーラムにとっては利用価値・・・)のみならず、王族、投資家、ジャーナリスト、研究者、マスコミ人、アーティストなど、目標年となる2030年に向けて‘世界を変える’ための人材が選ばれています。中国人やアフリカ諸国の人々が多数含まれているのも、世界全体をコントロールするための戦略なのでしょう。

 なお、成田氏の選出は、炎上した発言が非人道的な内容であっただけに、日本国内では意外性をもって受け止められたのですが、「海上都市国家構想」の紹介にも見られた富裕層に忖度する同氏の日頃の主張からしますと、当然と言えば当然と言えるかもしれません。否、同氏こそ、マスコミにおける宣伝や番組への登用など、世界権力によって大事に育てられてきた世論誘導要員のインフルエンサーであったとも推測されます。

 以上から、世界経済フォーラムが、先ずもって自らの手足となって働きそうな政治家や有力者達を、比較的年齢が若い時から取り込んでいる様子が窺えます。新自由主義者かつ歴代政権のアドバイザーとして知られる竹中平蔵氏も同フォーラムの理事であり、日本国民よりも同フォーラムの目的達成を優先しているのでしょう。もっとも、世界経済フォーラムの手法は、自らの権威をもって有力者を年次総会に招待したり、青田刈りのように特別のポジションを与えて育てるといった権威主義的なものですので、人々の信頼を失った途端、その計画も狂わざるを得なくなるかもしれません。そして、同フォーラムによって選ばれた人々については、その発言の真の目的を見抜かなければならないように思うのです。

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コオロギ食は文化・文明の否定では?

2023年03月30日 10時19分26秒 | 社会
 昨今、地球温暖化やSDGsの流れもあって、コオロギ食をはじめとした昆虫食が全世界レベルで推進されるようになりました。日本国も例外ではなく、近未来の新食材として宣伝され、コオロギを原材料とした様々な商品も登場してきたのですが、昆虫食に対する国民の拒否反応は、推進側の予想を遥かに超えていたかもしれません。生理的な拒絶反応と言ってもよいくらいなのですが、安全性が保障されているわけでも、昆虫を食する習慣があるわけでもなかったからです。そして、もう一つ、国民の多くが昆虫食を不快に感じる理由として挙げられるのは、それが、食文化というものを完全に否定しているからではないかと思うのです。

 今日に至るまで、世界各地では、気候条件やその土地で採れる食材を生かした固有の食文化が発展してきていました。肥沃な農地に恵まれ農業大国であったフランスは美食の国として知られていますし、今日では、全世界の街角においてフランス料理店を見出すことができます。日本国でも、茶道から生まれた繊細な懐石料理から日常の素朴な家庭料理に至るまで、幅広い料理があります。各国・地域ともに、伝統に根ざした料理は人々の空腹を満たすのみならず、人生に楽しみをも与えてきたのです。しかも、しばしばお皿に端正に盛り付けられた料理は芸術の域にまで達しています。職人技がさえる食器、ダイニングの家具や調度品、マナーや作法、会話術なども合わせますと、食文化は、総合芸術と言っても過言ではないかもしれません。

 人類史を振り返れば、食文化は文明の証でもあります。農業の始まりは文明の始まりでもありました。各地の遺跡からは、必ずと言ってもよいほどに土器や陶器が発掘されています。特に古代文明の地では、食物を保存する壺や調理された食事を盛る器も、専門の職人の手によって大量に造られていた形跡が見られます。そして、それが生活必需品であった故に、農業と共に他の多種多様な産業も発展をみたのです。例えば、窯業が盛んになるにつれ、人々は、自らの好みに合った食器を選んで購入することができるようになったのです(室内の装飾品として購入することも・・・)。食に関連する産業の裾野は極めて広く、第一次産業である農業のみならず、第二次産業に属する窯業や金属加工業、その他食料品販売や飲食業等の各種サービス業も合わせますと、経済全体に占める食関連の産業の比率は決して小さくはありません。

 しかも、食とは、人類の物質的な豊かさのみならず、心の発展とも関連しています。キリスト教の教えでは、「人はパンのみに生きるにあらず」とされますが(この言葉は、他者に対する慈しみや道徳心を軽んじて、自己の物欲のみに従って生きる人を戒めるための垂訓であったのでは・・・)、最後の晩餐が示すように、人々が食事を共にすることには、精神的な意味が込められていることもありました。今日でも、記念行事や冠婚葬祭などに際して、お料理やお酒が振る舞われるのも、同じ空間と時間を食事をしながら共に過ごすことが、人々の間の絆や繋がりを深める媒介の役割を果たすからなのでしょう。豊かな生活とはその文化的な側面を含めた食の充実でもあり、食とは、生活水準や文化水準のバロメーターでもあるとも言えましょう。

 一方、目下、近未来の食材として注目されている昆虫食は、主として(1)二酸化炭素を排出する牛、豚、鶏といったタンパク質源に代わる新たな食材、並びに、(2)地球温暖化の影響により飢饉が発生した際のエネルギー源として期待されています。(1)のように昆虫が新たなタンパク質源となりますと、これまで親しんできたあらゆるお肉料理の品々が食卓から消えて、お皿の上には調理された昆虫が載せられることとなりましょう(コオロギのフライ、天ぷら、唐揚げ、煮物・・・の何れであっても、お箸が進むとは思えない・・・)。粉末状で供されるならば、スープ皿に盛られた流動食の状態かもしれません。それとも、スナックやパンをお皿からつまむ形となるのでしょうか。お料理の素材が昆虫のみとなりますと、殆どの飲食店はお店をたたまなければならなくなるかもしれません(もちろん、畜産業も壊滅してしまう・・・)。これまで各地で育まれてきた食文化は消え去り、食事の楽しみも失われてしまうのです。

 また、(2)の飢饉対策としての昆虫食の未来にも、悲惨な状況が予測されます。食事とは、まさしく生命を維持するためにのみ存在することとなるからです。今日、昆虫食は、家畜の飼料や養殖魚の餌としても利用されています。言い換えますと、人類は、‘食事’ではなく‘餌’を与えられる家畜のような存在に貶められてしまうのです。毎日毎食、昆虫を餌として食べさせられるのでは、誰もが木の実や果物に手を伸ばし、自然の恵みに預かることができた原始時代の方が、まだ‘まし’であるかもしれません。

 以上に述べてきましたように、昆虫食の普及には、多様で多彩な食文化の消滅のみならず、文明をも破壊しかねないリスクが潜んでいるように思えます。また、昆虫食は新たなビジネスを生み出すとして期待する向きもありますが、失われる産業やビジネスの方が遥かに多いのではないでしょうか(経済の急速な縮小・・・)。ダボス会議に象徴される世界権力の指令に従う義務はどこにもないのですから、日本国政府を含め、各国政府は、昆虫食を推進するよりも、より人類に相応しい豊かで安全な食を目指すべきではないかと思うのです。

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高齢者集団自決論は若者をも絶望させる

2023年03月06日 10時55分48秒 | 社会
 内外に波紋を広げることとなった成田悠輔氏の高齢者集団自決論は、表向きは、若者層の代表というポジションからの発言です。自らを若者層のオピニオンリーダーを任じているのでしょうが、同氏の真の姿は、頼りになる若者の味方なのでしょうか。本当のところは、真逆である可能性も否定はできないように思えます。

 成田氏の発言が若者層の一般的な意見を集約したものであるならば、先ずもって憤慨すべきや若者層です。何故ならば、若者層とは、高齢者に集団自決を勧めるほど非情で利己的な存在であることを意味してしまうからです。高齢者の‘集団自決’によって世代交代が進み、若者層が世の中を動かす時代が仮に到来したとすれば、それは、労働能力を失って‘不要となった人々’を抹殺する社会となります。薄ら寒い光景が思い浮かぶのですが、高齢者が存在する社会の方が、余程、人を大切にするやさしい社会であると言えましょう(因みに、SFなどで描かれている未来都市のイメージ図では、高齢者の姿が見えないような・・・)。

 それとも、高齢者集団自決論は、オピニオンリーダーとして若者を同方向に扇動するために提唱されたのでしょか。‘君たちは、高齢者の犠牲になっている。高齢者がいなくなれば、君たちは、自分の思うとおりに豊かに暮らすことができる’として。成田氏としては、多くの若者が自らの意見に賛意を示すものと期待していたかもしれません。しかしながら、この提案は、若者層から涙ながらの抵抗を受けるかもしれません。何故ならば、日本人の多くには、祖父母や父母にかわいがられた経験や大切な思い出があるからです。言い換えますと、同発言は、‘君たちの祖父母や父母には消えてもらう’と言っているに等しいのです。同氏は、複雑な家庭環境から親子愛を知らずして育ったともされ、自らよりも上の世代に対する愛情や敬意はほとんどないのでしょう(むしろ、‘敵意’を抱いているのかもしれない・・・)。しかしながら、他の若者も自らと同じ感覚であると考えていたとすれば、それは大いなる誤算のように思えます。

 あるいは、‘自分たちは、成田氏とは違う!’として反論する若者が現れていないところからしますと、若者層は、本音ではやはり高齢者集団自決論を支持しているのでしょうか。同氏への反論の多くは、集団自決を薦められた高齢者からです。もっとも、若年層不遇説に基づけば、若者層にあって批判論はサイレント・マジョリティーであり、声を上げることができないのかもしれません。高齢者集団自決という極論、かつ、暴論が若者層からの要望と見なされる不条理やマスコミによる世論操作を嘆いているのは、同氏以外の一般の若者たちかもしれないのです。

 そして、もう一つ指摘し得るとすれば、高齢者集団自決論は、若者層を絶望させてしまう可能性です。同氏は、高齢者の集団自決を少子高齢化対策としていうよりも、恒久的な社会システムとして構想しているようです。となりますと、若者達は、‘75歳’ともされる‘死亡年齢’までしか生きられず(健康年齢と一致?)、同年齢に達すれば、否が応でも安楽死のための施設に自ら赴くか、強制的に連れて行かれます。‘死亡年齢’が一律に設定されるのであれば、安楽死とは名ばかりで、国家による強制死ということになりましょう。死に臨む国民の精神的苦痛は計り知れません。

 昨今まで人生百年の時代と謳われてきましたが、労働人口の減少により、高齢者も労働力として期待されている時代ですので、75歳まで一生働き続けなければならない人も現れることでしょう(現在不遇な若者達の未来はもっと不遇)。若者は、集団自決論によって、見たくもないディストピアを見せられているのです。未来社会がディストピアであれば、子供を産み育てようとする若者も減少することでしょう。先が見えてしまうのですから。

 こうした問題の他にも、国民年金や厚生年金が不要になるといった制度上の疑問点もありますが、若者層こそ、マスメディアに流されることなく、高齢者集団自決論について冷静かつ客観的な議論を試みるべきように思えます(現在年金を払っている若者層は、将来、年金を受け取る前に、安楽死?)。同問題には、少子高齢化のみならず、グローバルな金融・経済勢力の視点、マスコミの報道姿勢、学歴の悪しき権威化、政策と倫理・道徳、そして、未来社会のヴィジョンなど、ありとあらゆる問題が潜んでいるからです。そして、若者層も高齢者も共に(中年層も含めた全ての層という意味・・)、国民の一人一人が安心して自らの一生を生き切ることができる仕組みについて議論し、アイディアを出し合うとき、他の層を犠牲にすることなく、人道に叶った善き未来が開かれるのではないかと思うのです。

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政府による‘タブー化’の問題

2023年02月28日 11時12分06秒 | 社会
 現代という時代は、情報化時代とも称されています。インターネットやIT等の普及により、人々の活動空間や生活空間はデジタル情報で溢れています。情報量が爆発的に増え、人々が様々な情報を入手しやすくなる一方で、昨今、新たな問題が持ち上がることともなりました。

 大手メディアの情報とネット情報が異なる場合でも、それが、両者とも民間の範囲に留まっているのであれば、たとえ内容が真逆であったとしても、それぞれ根拠や証拠を示して自らの正しさを主張することができます。大手側が有利ではあるのでしょうが、それでも、多くの人々が自発的に検証作業に参加したことで、虚実が判明することもあります。しかしながら、政府といった権力や権威が関わりますと、どうでしょうか。これらによる介入や圧力がありますと、公開性や客観的な検証性は著しく損なわれます。ここに、情報の問題は、情報統制という政治問題へと行き着くことになります。

 古今東西を問わず、為政者の多くは、情報統制や管理を支配の手段としてきました。権力や権威を保持するためには、国民に対して自らに関するマイナス情報を伏せておく必要があるからです。何れの国であれ、国民からの批判や民心の離反、そして忠誠心の消滅は、為政者の地位を危うくするのです。このため、情報統制が効果的な支配の手段となるには、国民の心理にまで及ぶ強い圧迫をかける必要がありました。つまり、為政者への批判を、社会全体を覆うタブーとしてしまえば、権力や権威は安泰であったのです。悪しき為政者であればあるほど、国民の間に自己規制の空気を醸し出すタブー化を渇望したことでしょう。

一方、今日の民主主義体制の国家では、言論や出版等を含む表現の自由が保障されていますので、原則としては、どのような情報であっても一先ずは公開することができます。しかしながら、多かれ少なかれ、タブーなるものが存在する国は少なくありません。タブーの問題は、アメリカでは、ポリティカル・コレクトネスとして表出していますし、日本国でも、タブーとして幾つかの‘カーテン’、例えば、‘菊のカーテン’、‘鶴のカーテン’、‘桜のカーテン’等があるとされています。いずれのカーテンもが、政治性を帯びたタブーです。

こうした定番の‘タブー’のみならず、昨今の状況を見ておりますと、政府によるタブー化のケースが相次いでおり、国民を誤った判断に導いている事例が後を絶たないように思われます。特に、ワクチン問題はその最たる事例であり、極めて強い政治的圧力が社会全体にかかったことは、多くの人々が感じたことではなかったかと思います。政府のみならず、国民全体に同調圧力が働くように、マスメディアのみならず新興宗教団体を含むあらゆる下部組織が総動員された観もありました。ワクチンリスクについては、政府からの嫌がらせや周囲からのハラスメントにより、初期段階で認識していた専門家でさえ口に出すことが難しく、たとえ指摘したとしても信じるに足りない陰謀論として片付けられてしまう状況が続いてきたのです。政府は、リスク情報を隠蔽するのみならず、リスクの指摘をタブー化することにより、国民全体に思考停止の魔術をかけようとしたのでしょう。恐怖心を利用するのですから、タブー化とは、恐怖政治の手段の一つとも言えます。

現代のタブーなるものも‘政府主導’あるいは‘官製’であるならば、そのタブーは、今も昔と同じく、権力や権威のマイナス情報、即ち、悪しき面を隠すために造られたのでしょう(悪事の隠れ蓑・・・)。マイナス情報が存在しなければ、そもそもタブーを設ける必要などないのですから。このような政治的なタブーは、定番のものであれ、政策的な意図によるものであれ、ないほうが善いに決まっております。否、ワクチン問題のように、政府によるタブー化こそ、無辜の国民の多くに被害が及ぶ事態を招いていた元凶とも言えましょう。

情報は、人々が判断や評価を行なうに際しての基礎的な材料であり、かつ、民主主義国家では議論の共通の土台ともなります。情報の重要性に鑑みればこそ、できる限り事実に即した正確なものであるべきですし、とりわけ公的な情報は原則として全て隠さずに公開されるべきです。国民をリスクに晒すタブー化が二度と起きないようにするためには、法律によって政府に対する情報公開の義務づけを強化すると共に、現状にあっても、政府によるリスク情報の隠蔽は、政府の怠慢行為に対する行政訴訟として裁判所に提訴するという方法もあるように思うのです。

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善い利他主義と悪い利他主義-ジャック・アタリ氏の利他主義論への懐疑

2023年02月27日 11時37分22秒 | 社会
フランスの著名知識人であるジャック・アタリ氏は、かねてより未来の人類社会に向けた目標として利他主義を提唱しております。利己主義から利他主義への転換こそ、来るべき未来のあるべき人類社会の姿であると訴えているのです。しかしながら、利他主義の薦めには、細心の注意を払うべきかもしれません。

 利他主義という言葉を耳にして、不快に感じる人は殆どいないことでしょう。この言葉は、自己の利益のためには他者の利益を犠牲にしても厭わない利己主義の反対語として常々用いられており、利己主義=悪、利他主義=善という認識が凡そ固定概念として定着しています。このため、アタリ氏が利他主義を唱える時、それは、善意からの発言と凡そ受けとめられることでしょう。

 利他主義の提唱は、ここ数年来の同氏の持論であったようなのですが、昨今の同氏の発言を聞いておりますと、利他主義も、その使いようによりましては、他害的な結果をもたらすように思えてきました。否、政治的に見ますと、全体主義に利用されてしまうリスクも見えてくるのです。何故、このように考えるに至ったかと申しますと、2月14日付けでAERAdot.で掲載された「“世界屈指の知識人”ジャック・アタリが指摘するパンデミックの原因と、未来のキーワード「利他主義」と「命の経済」」と題する記事を目にしたからです。

 同記事において、アタリ氏、地球温暖化問題やコロナワクチン接種を引き合いに出しながら、利他主義に言及しています。新型コロナウイルスによるパンデミックが発生した時点で「今は利己主義と利他主義の戦いだ」という記事を執筆したとする同氏は、他者のためにワクチンを接種する行為を利他主義が広く理解されてきた証しとしています。「ワクチンを接種することで他人を保護することに、私たちが関心を持っていること、つまり利他主義の重要性を理解していることが示されました。」として。

 一読する限りでは問題はないように思えるのですが、よく読みますと、この発言には、利他主義のレトリックが巧妙に隠されているように思えます。何故ならば、他者のためにワクチンを接種することが利他主義のあるべき姿であるならば、全員がワクチンを接種すべきであり、接種しない人は、利己的な人、即ち、悪人と言うことになるからです。この論法は、同調圧力の最強の根拠となり得ます。そして、ここに重大な問題が持ち上がるように思えます。

 ワクチン接種が誰に対しても無害であり、利益となるならば、何らの問題もないのでしょう。例えば、‘殺人をしてはいけない’、‘窃盗をしてはいけない’、‘他害的な嘘をついてはいけない’といった行動規範であれば、全員がこの規範を誠実かつ厳格に遵守すれば社会の安全性は格段に高まり、皆が安心して生きる社会が実現します。ところが、全てが有害行為の禁止のように全員に利益が及ぶケースばかりではありません。利他的な行為として推奨された行為において、自害性や他害性が含まれる場合には、利他的行為は、いとも簡単に自害行為や他害行為へと反転してしまうのです。現実に、人口削減計画説が信憑性を帯びるほど、コロナワクチンによる健康被害は、日本国内を含めて先進国を中心に世界レベルで広がっています。利他的精神からワクチンを接種に協力した人々がワクチンの犠牲となりながらも、‘全体を救うためには致し方ない犠牲’と嘯く冷たい声も聞かれるのです。

 また、アタリ氏は、「利己的な利他主義」とも述べており、他者の利益に資する行為は自らを護るための行為でもあるとする見解も示しています。「情けは人のためならず」という諺もあるように、善行を説く古今東西の格言や道徳律にも通じるこの見解は、確かに利他主義の利己な一面を説明しています。しかしながら、この見解も、無害な行為のみに当てはまります。自害性や他害性が含まれるケースでは、‘自分のため’にも‘人のため’にもならないかもしれないのです(ワクチン接種により、他者に対するシェディングも起きるとする指摘も・・・)。

 利他主義の名の下で善意でワクチンを接種した人々は、たとえ被害を被ったとしても自己責任となりますし、同調圧力をかけた周囲の人々も、リスクについて知らない状態であれば、利己的行為を戒めるために接種を薦めたことになります。何れもが、自覚のないままに、被害者あるいは加害者となってしまうのです。

被害者も加害者も善意であり、責任の所在は曖昧になりがちなのですが、実のところ、責任の所在を明らかにすることは、それ程、難しいことではありません。こうしたケースでは、全責任は、政府や世界権力をはじめ、コロナワクチンの接種を利他的行為=絶対善として国民に対して宣伝した人々にあると言わざるを得ないからです(二重思考の手法としての価値の先取りであれば、ワクチン接種=利他的行為=善という構図を最初に作ってしまう・・・)。

 そして、仮に、利他主義をもってワクチン接種を薦めた人々が、同ワクチンのリスクを予め知っていたとすれば、利他主義とは、接種を薦めた側の究極の利己主義と言うことになりましょう。自らの目的を達成するためには、‘他者’であれば全員が被害を被っても構わないと考えたことになるのですから(高齢者集団自決発言にも同様の思考が・・・)。利他的行為を自分自身ではなく他者に薦める人は、恐るべき自己中心主義者かもしれません。

この利他主義の狡猾な悪用の側面は、ワクチン接種のみならず、地球温暖化問題などにも共通しているのかもしれません。そして、全体主義体制とは、まさしく利他主義の美名の元で国民を最低のレベルまで引き下げ、自己を捨てさせた上で画一化する体制とする見方も成り立つように思えます。利他主義には、それが利己主義者に悪用されますと合法的な国民抹殺や弾圧の口実となりかねないリスクがあるのですから、善い利己主義と悪い利己主義を賢く見定める必要があるように思うのです。

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成田悠輔氏こそ‘精神の老害’では?-全体主義の発想

2023年02月23日 10時25分15秒 | 社会
 イエール大学アシスタント・プロフェッサーの肩書きを持つ成田悠輔氏が言い放った高齢者集団自決発言は、内外から厳しい批判を受けることとなりました。集団自決とは、老若を問わず追い詰められた人々が死を共にする行為を意味しますので、この言葉そのものに自決に至った人々の悲しみや苦しみが込められています(幼い我が子に手をかけた親もいたはず・・・)。言葉に敏感であれば、軽率に口にすることはできないはずなのですが、同氏は、少子高齢化問題の解決策として、平然と集団自決論を語っているのです。しかも、昨今の報道によりますと、ある年齢に達した時点で、自動的に安楽死させるシステムまで提案していたというのですから驚かされます。

 成田氏の背景については、自己の利益に不要と見なした一切を切り捨てようとする経営者視点を指摘しましたが、こうした経営者視点は、全体主義とも共通しています。全体主義も、国民を含めた国家全体を一つの‘事業体’と見なすからです。企業では、人事権を握る経営幹部は、社員や従業員を採用したり、配置転換したり、さらには解雇することができます(特に非正規社員であれば解雇は容易・・・)。言い換えますと、自らが決定した事業方針に照らして、上部の位置から自らの組織に所属する人々を自由に動かすことができるのです。

例えば、企業幹部の会合では、「○○年に入社した○○期の社員達は、技術が旧式化したので今やお荷物となっている。しかも、給与は高額だ」、「コスト削減のために、全員、一斉に解雇した方がよいね。」、「いや、労働法による規制あって、解雇は難しい」、「それでは、自主退職させるように職場で嫌がらせをしてはどうか」・・・といった会話がなされているかもしれません。そして、この経営者達の解決策は、成田氏の提起した‘最終的解決案’にも当てはまるのです(なお、ホロコーストでユダヤ人は虐殺されたとされますが、このことは、グローバリストの中枢にいる多くのユダヤ系の人々が、多民族の存在に対して‘優しい’ことを意味しない・・・)。

しかしながら、たとえわずかなりとも共通する部分があったとしても、国家と企業とは基本的には別ものです。国家の政府は、国民に対して、生まれてからこの世を去るまでの生涯という長いスパンで配慮するのみならず、後の世まで国民生活の安定を実現する責務を負っているからです。言い換えますと、国家の政府は、現実はともあれ、良い意味において利他的なのです。しかも、個人の基本的な自由や権利を擁護することも政府の役割の一つですので、間違っても国民の命を軽視するような政策は採れない‘はず’なのです。

ところが、歴史を振り返りますと、古今東西を問わず、国民の生殺与奪の権を握り、恣意的に国民の命を奪ったり、財産を没収したりする為政者が散見されます。所謂‘悪政’というものなのですが、こうした‘悪政’は、現代史にあっても全体主義国家において見られます。ファシズム然り、ナチズム然り、そして、共産主義然りです。近代以降の人類の歩みは、政府が本来の役割を取り戻し、国民のために働く国家へと向かう、あるいは、人類史において人々が国家をつくったことの意義に立ち返る過程であったのかもしれません。今日、普遍的な価値とされる自由も、民主主義も、法の支配も、私物化されがちな国家を国民に資する存在へと変えてゆくために必要とされた原則とも言えましょう。こうした歴史の流れからしますと、経営者の視点は、過去の専制国家や全体主義国家並びに時代錯誤とされる共産党一党独裁国家とむしろ共通しており、現代人の視点からすれば、過去のものとなるべきもの、即ち、‘古い’と言えましょう。

今日、翳りを見せてはいるもののグローバリズムが時代の先端とされ、マネー・パワーを背景にマスメディアもIT企業のCEOやIT関連の起業家達をヒーローと見なし、しきりに持て囃しています。金融・経済財閥を中心とした世界権力が人類に対して支配力を及ぼしていますが、その精神性においては、必ずしも若々しいとは限らないように思えます。成田氏は、高齢者を‘老害’として批判しましたが、精神面においては、成田氏こそ‘老害’であるかもしれません。経済的な格差の要因が、ジョブ型雇用を含む雇用の不安定化や広範囲でのITやAIの導入等、そして移民推進政策等による社会の不安定化にあるならば、経営者視点での政策の推進は、若者層にとりましても明るい未来どころか、デジタル全体主義という名のディストピアに連れて行かれかねないのです。

そして、国民の基本権の尊重という大原則に立ち返れば、そもそも、成田氏には、他人である国民に対して集団死を促す発言をし得る立場にはないことに気がつかされましょう。生命に関する権利(生存権)はその人自身に専属していますので、他者が勝手に奪うことはできず(殺人などの犯罪により死刑判決を受けた場合などを除いて・・・)、なおも他者の死を以て解決策とすることは、それが自死であっても間接殺人の教唆を意味するからです(生存権を侵害するので憲法違反にもなる・・・)。経済学者であるならば、高齢者が最後まで自らの人生を豊かに生き、かつ、若者も様々なチャンスに恵まれ、かつ、一人一人が十分な経済力を持ち得るような政策こそ提案すべきなのではないでしょうか。

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創価学会も二重思考?―平和は戦争なり

2022年11月15日 15時03分23秒 | 社会
 ジョージ・オーウェルの作品、『1984年』を以て世に知られるようになった二重思考の起源は、おそらく前近代にまで遡るのでしょう。もしかしますと、人類が、コミュニケーションの手段として言葉を使うようになったその時から、他者を欺く偽りの言葉のみならず、他者に対する言葉による思考の強制は始まっていたのかもしれません。そして、こうした利己的、あるいは、傲慢な行為が多くの人々に不利益や損害をもたらしたり、精神的な苦痛を与えたからこそ、他者を騙す嘘や思考の強要は、道徳律や法律によって禁止されるに至ったのでしょう。『1984年』がディストピアと評されるのも、人類にとりまして、その世界が実現して欲しくないものであったからに他なりません。

そして、半世紀以上も前に執筆されながら、オーウェルの作品が今日まで読み継がれてきた理由は、あるいは、『1984年』に余すところなく描かれた社会の恐怖が人々にとりまして必ずしも小説の中でのお話ではないからなのでしょう。近年、『マトリックス』という映画も注目を集めておりますが、同作品のテーマも、造られた偽りの世界を‘事実’として信じ込ませる思想統制という意味において、『1984年』の現代版バージョン、リメークとも言えます。そして今日、ネットの普及によるフェークニュースの氾濫や仮想現実を造り出せる映像技術の急速な進歩により、小説や映画の世界と現実との境界線は、いよいよ曖昧となっているのです。政治家や政府が嘘をつく時代にあって、『1984年』は絵空事ではないのです。

前置きが長くなってしまったのですが、今日、忌まわしき二重思考は、創価学会といった新興宗教団体にも顕著に観察されるように思えます。全国にネットワーク上に配置されている創価学会の会館の名称には’平和’と付くものも多く、同教団が、如何に平和をアピールしているかが窺えます。信者の多くも、自らが信じる教団は世界平和に貢献していると信じ切っているかもしれません。しかしながら、その一方で、同教団は、総体革命の存在で知られるように、国家権力を手中にしようとする‘戦闘集団’でもあります。闘う宗教組織という側面はイエズス会とも共通するのですが、平和を志向する一方で、学会の非メンバーである他者に対して戦いを挑むことを肯定しているのです。

平和志向と戦闘性との間の矛盾については、後者については物理的な力、即ち、戦争といった武力行使とは次元が違うという反論もあることでしょう。しかしながら、戦いとは、必ずしも武力を用いたものに限られるわけではありません。民主的な選挙でありましても、それを‘戦場’と見なしますと、ライバルを倒して自らが勝利すべき戦いです。しかも、創価学会の戦場は、政治的な選挙のみではありません。同教団は、皇室、官界、財界、教育界、マスメディア、スポーツ界、芸能界など様々な分野にあって、信者を要となる重要ポストに就けるべく、日々、組織的に闘っているのです。

また、防衛や安全保障分野に注目しますと、同教団の二重思考的本質がさらにはっきりとします。創価学会と中国との間の‘友情の絆’は国民の多くが知るところですが、当の中国が、今日、日本国のみならず国際の平和を脅かす脅威であることは疑いようもありません。否、中国は、二重思考の親玉のような存在ですので、両者は、価値観において固く結びついているのかもしれません。創価とは、新しい価値を創造するという意味らしいのですが、その‘新しい価値’とは、これまでの価値(倫理・道徳を含む一般常識)を否定して、巧妙に他者を騙す二重思考に‘価値’を付与することなのかもしれないのです。

『1984年』に登場する党のスローガンの一つは、「戦争は平和なり」なのですが、創価学会の場合は、「平和は戦争なり」となるかもしれません。前者は、‘党’が戦時体制を平和と見なすように国民に強要するスローガンですが、後者は、平時にあって、平和を唱えつつその実態は戦いの肯定であり、他国の好戦的な政策に協力しているのですから。

二重思考の罠にかかってしまった信者の人々は、平和の実現のために活動しているつもりが、いつの間にか、国内にあっては不公平で不条理な社会をもたらし(学会員でなければポストを得られない?)、対外的には、自国の安全を脅かしています。そして、活動に熱心になればなるほど、一般の国民から警戒されると共に(誰がメンバーであるのか外部の人々には分からないという意味において一種の秘密結社であり、正真正銘の陰謀組織でもある・・・)、溝が深まってゆくことでしょう。この側面は、世界平和統一家庭連合(元統一教会)にも言えるのですが、信者の方々は、この自己矛盾、即ち、教団によって誘導されている二重思考にそろそろ気付くべきではないでしょうか。

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新興宗教団体の教祖は現代の‘戦争恍師’?

2022年11月14日 13時24分01秒 | 社会
古代にあって、‘戦争恍惚師’なる職業があったことを知る人は殆どいないかもしれません。戦争恍惚師(Kriegsekstatiker, warrior ecstatics)とは、マックス・ウェーバーの『古代ユダヤ教』において記述が見られ、戦場にあって兵士達を恍惚状態に導く役割を担っています。今や死語となり、既にこの世から消えた職業と見なされがちですが、もしかしますと、現代にあっても、姿は変えてもこの種の役割を担う人々が存在しているのかもしれません。

ウェーバーに依れば、同職業は、古代ユダヤ人に限ったものではなかったそうです。古代ギリシャ神話のテューデウスやアルスター物語群の英雄クー・フリーンなどにも、戦争恍惚師、つまり、カリスマ的軍事指導者として描かれています。古代イスラエルでは、職業集団としての凡そ「ネビイーム(職業的予言者ナービー団)」がこれに当たるそうですが、古代エジプトやメソポタミアにも類似した集団があり、古今東西において、普遍的な存在であったようなのです。

それでは、何故、戦争には恍惚師を要したのでしょうか。この問いの答えは、すこぶる単純であるかもしれません。それは、自他の命、並びに、身体に関する感覚の忘却あるいは麻痺です。

 まずもって‘正気の状態では他者の命を奪うことは難しい’とは言うまでもありません。理性や慈悲の心があれば、たとえ憎き敵であっても、人を殺める行為には躊躇するものです。1%から3%とされるサイコパスの人口比を考慮しますと、大多数の人々は、できる限り戦場での命での奪い合いを避けたいはずです。殺人を忌避する心が人の本性として備わっているとすれば、戦場にあっては、この禁忌を解除、あるいは、意識させない必要があるのです。

 また、兵士には、敵兵ではなく自らが戦死したり、負傷するリスクもあります。生きて帰ることができないかもしれないのですから、その恐怖は計り知れません。戦場を前にして足がすくむ兵士も少なくないはずであり、たとえ平常心を保つためのセルフコントロールの訓練を受けたとしても、命の危険に晒されるのですから、恐怖心に打ち勝つことは容易ではありません(第一次・第二次世界大戦の際にも、精神を病んだ兵士が多数あった・・・)。

このため兵士達に恐怖心を捨てさせ、我を忘れて戦いに没頭させることも、戦場では必要とされたと考えられるのです。今日に至るまで、内戦を含め、人類は戦争を繰り返してきましたので、戦場での兵士達の心理状態を戦いに適したものに変える必要があったことは想像に難くありません。戦争恍惚師のお仕事とは、まさに、この兵士達を恍惚状態へと導くメンタル操作であったのでしょう。ウェーバーは、スカンジナヴィアの‘猪武者’について、「このエクスタシスによってかれらは、狂犬病的血の渇望に酔いつつ、敵の真只中に躍り込み、なかば意識を失った状態で、手当たり次第のものを虐殺する」と描写しています。すなわち、敵兵の殺戮も自らの死をも恐れず、無我夢中で闘う心理状態こそ、戦争に勝利をおさめるためには必要とされたのです。戦場では、一瞬の良心の揺らぎも許されなかったのでしょう。ジハードをもって破竹の勢いで周辺諸国を侵略し、イスラム帝国を構築したイスラム教が、飲酒を禁じる一方で麻薬を容認するのも、麻薬には人々の精神を麻痺させると共に、痛みを感じなくする作用があるからなのかもしれません(負傷しても無感覚・・・)。

古代に散見される戦争恍惚師という心理操作を担当する特別な職務、あるいは、「ネビイーム」のような職業集団は、現代という時代において一先ずは姿を消しています。戦争法や人道法の整備が進んだことに加え、正確さを要するハイテク兵器類を扱う兵士達には、むしろ冷静さや平常心の維持が求められています。しかしながら、今日の内外の様子を観察しますと、形を変えた戦争恍惚師の姿が見え隠れしているように思えます。

もちろん、第二次世界大戦期にあって国民を巧みな演説を以て狂気の世界に陥れたアドルフ・ヒトラーは、現代の戦争恍惚師の一人であったかもしれません。しかしながら、戦闘的メンタリティーへの鼓舞という戦争恍惚師の原型ではなくとも、人々の理性や良心を狂わせ、道徳や倫理を解除してしまう人や集団が存在しています。例えば、カリスマを装う政治家のみならず、新興宗教団体の教祖などは、その変形型であるのかもしれません。

世界平和統一家庭連合(元統一教会)や創価学会といった新興宗教団体は、その動員力が問題視されているように、信者のメンタリティーを巧みに操作することで、反社会的な行為に対する倫理観や道徳心を失わせています。教祖や教団のためならば、自らの命、あるいは、財産を捨てても惜しくはないという信者も少なくないのでしょう。これらの教団には常々集団ストーカーの噂も絶えませんが、‘恍惚状態’にある信者の多くが堂々と犯罪まがいの行為を集団で行ないかねない危うさがあるのです(所謂“さくら”としての動員への参加自体が他の国民を騙す行為に・・・)。

今日の宗教に対する一般的な理解は、神は絶対善であるとするものです。しかしながら、宗教によっては、とりわけ戦争において、‘神’とは勝利を祈願する対象であり、軍神である場合も少なくありません(キリスト教徒でさえ神のご加護や自軍の勝利を祈る・・・)。また、非道徳的な行為に誘う邪教や悪を崇める悪魔崇拝も実際に存在しています。しかも、今日では、戦場ではなく平時の一般の社会に、そして、敵ではないはずの一般国民を‘敵’と見なして、姿を変えた‘戦争恍惚師’達が、信者の心を惑わしているように見えるのです。このような現状に鑑みますと、人類は、今日、改めて戦争恍惚師の問題と向き合うべきではないかと思うのです。

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二つの平等の区別を-対等化と画一化は違う

2022年08月01日 12時41分08秒 | 社会
 フランス革命のスローガンにも含まれる自由と平等という価値については、極少数の権力欲に駆られた人々を除いて、大多数の人々はその尊重を是とすることでしょう。あるいは、少なくとも、他者から自由を束縛されたり、不当に差別されたりはしたくないはずです。今日の国際社会では国際人道法も整備され、人類共通の普遍的な価値として当然視されているのですが、平等には、二つの側面が含まれているように思えます。

 古今東西に見られたように、不条理な身分制などが公的に存在している場合には、ピラミッド型のヒエラルヒーでは上位身分は少数者となりますので、大多数の国民は平等化を歓迎します。平等という価値が最も輝きを放つのは、身分、性別、宗教といった属性の違いによって人としての扱いが違ってしまう(多民族国家では人種や民族性・・・)、理不尽で無情な上下関係をなくしたことにありましょう。平等という価値は、個々人の間での対等性を確保し、それを法の前の平等の原則の下で保障してこそ、極めて重要な価値なのです。平等の第一の側面は、個々人間の対等化です。

 その一方で、第二の平等の側面とは、画一化です。画一化としての平等にあっては、人々は、他者と違った属性を有したり、発言や行動をとることが許されなくなります。平等という価値は、上記の人と人との関係性を対等にするのではなく、個々人の個性はローラーで引くように押しつぶされる方向に働くのです。完全なる人類の画一化を達成するためには。DNAレベルでの均一性まで要求されますので、もはや全人類を同一の遺伝子で造られたクローン人間化するしかなくなります。つまり、はっきり言って不可能なのです。

それでは、今日における平等とは、どちらの側面が強いのでしょうか。上述したように、完全なる画一化は夢物語なのですが、グローバル化を背景に、‘多様性の尊重’という美名の下で(対等化としての平等)、急速な画一化が全世界レベルで進行しているように思えます。各地の街角の風景から個性が失われ、人々が着ている服装も、都会であれ田舎であれ、変わり映えがしません。Tシャツとジンズ姿の若者達だけを見れば、ニューヨークも上海も、そして、東京もさして変わりはないのです。この傾向は、全国民が一律に人民服を着せられていたかつての中国のような全体主義が、全世界レベルで静かに浸透していることの現れなのかもしれません。

そして、何よりも警戒すべきは、人々の発言や行動についても、画一化としての平等の価値が押しつけられることです。例えば、国籍、民族、年齢、DNA、性別、出身地、家系、学歴、能力、性格、・・・などのあらゆる属性に関する差異についての発言は、平等に反するとして一切禁じられ、法的な処罰の対象となりかねません(現実には、人々の間には違いは完全に消去できないので、言論を封じることに・・・)。その先には、血脈や家族を表す氏姓さえ廃止させられ(国籍や戸籍も廃止?)、各自がナンバーや記号で呼ばれる未来が待っているかもしれないのです。

また、画一化としての平等化は、同調性の要求として個々人の行動にも及ぶことでしょう。例えば、今般、コロナワクチンの接種については、強い同調圧力がかかりましたが、マスメディアや新興宗教団体といった各種動員団体などが社会全体に対する圧力装置となり、人々を同一の行動へと駆り立てていくかもしれません。もはや、‘人と違った行動’は許されないのです。

かくして、全体主義的抑圧体制は、平等という‘善意’の顔をして構築されてゆくこととなります。つまり、平等、否、画一化が人々から自由を奪うのです。となりますと、ここで、自由と平等という二つの価値が真正面から衝突するのですが、自由というものが、独立した主体としての個人の生命、意識、身体を前提として存在する限り、過激な平等主義(画一化)のために自由が犠牲になることを望む人は殆どいないことでしょう。しかも、この過激な平等化政策とは、得てして、自己の自由のみを極限までに拡大しようとしている権力者による支配の手段に過ぎないのですから。数に勝るマジョリティーを対象とした画一化とは、強制装置を備えた強大な権力がなければなし得ないことでもあるのです(何人であっても、他者に対して自分と‘同一’となるように要求はできないはず・・・)。

政策決定権を握る人物が‘平等’の価値を掲げる時ほど、国民にとりまして危険な状況はないのかもしれません。国家が定めた‘規格’から外れた国民は、存在してはならない者、即ち、排除の対象となるからです。フランス革命が国民の大量虐殺を帰結し、平等化を誘因として成立した共産主義体制が国民弾圧・抑圧体制となったのも、過激な平等主義が自らの支配体制成立に役だったからに他なりません。

このように考えますと、過激な平等主義による全体主義化の魔の手から逃れるためには、まずもって、平等という価値にあって渾然一体となってきた対等化と画一化の二つの側面を明確に区別する必要がありましょう。そして、平等の価値とは、本来、個々人の間の対等性にこそあるのですから、この側面にこそ立ち返るべきかもしれません。平等の名の下で画一化を要求されたときには、疑ってかかるべきなのです。生き方を含め、たとえ人それぞれに様々な違いがあったとしても、国民が相互に対等な存在として認め合える国家の方が、より善き国であり、自由で豊かな社会なのではないかと思うのです。

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遺伝子ワクチンとオートファジーに関する素朴な疑問

2022年03月28日 13時29分13秒 | 社会

 ウイルスに起因する感染症に対する人体の防御反応といえば、誰もが、真っ先に免疫システムを思い浮かべるのではないかと思います。このため、事前のワクチン接種による予防という方法も開発されてきたのですが、最近に至り、オートファジーにも有害な細菌等を隔離除去する機能があることが分かってきたそうです。そこで、遺伝子ワクチンを接種しますと、体内の細胞にあってオートファジーがどのように働くのか?という素朴な疑問も湧いてきます。

 

 オートファジーと申しますと、2016年に大隅良典博士がノーベル賞を受賞したことで、細胞のリサイクルシステムとして広く知られるところとなりましたが、『生命を守るしくみ オートファジー』(吉森保、ブルーバックス、講談社、2022年)によりますと、オートファジーとは、「細胞が自己成分などを分解する機能」と凡そ説明されています。同書には目から鱗が落ちるようなお話も多く、その一つが、痛風が腎障害を発生させてしまう機序にオートファジーが関わっているというものです。

 

 同書で説明されている尿酸とオートファジーとの関係を要約しますと、血液中の尿酸濃度の上昇⇒尿酸の結晶化⇒腎臓の細胞における尿酸結晶の取り込み⇒リソソーム(加水分解酵素を備えたオルガネラ)の損傷⇒オートファジーによる損傷リソソームの除去…ということになります。最終的にオートファジーが正常に働いて損傷リソソームは排除されるものの、それでも、マウスに高尿酸血症を誘発する実験を行った結果、血中の尿酸値の濃度が高い場合には、軽度であれ腎機能の低下が見られたそうです。その一方で、遺伝子操作によってオートファジーの機能を完全に除去したマウスでは、著しく腎機能が低下し、オートファジーが腎障害と関連していることが確かめられています。

 

 それでは、体内に大量のスパイクたんぱく質を作り出す遺伝子ワクチンについても、体内の細胞にあってオートファジーが作用しているのでしょうか。尿酸結晶も’とげとげ’ですが、スパイクたんぱく質も’とげとげ’です。このため、細胞内においてリソソームを含む何らかのオルガネラに損傷を与えているのかもしれません。遺伝子ワクチンとオートファジーの関係については、以下のような可能性があるように思えます。

 

 第1の推測は、新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)は、スパイク部分のACE2との結合によって細胞内に入り込む性質を有するため、人工mRNA由来のスパイクたんぱく質も、ACE2が発現していない他の細胞内に侵入することはない、というものです。この場合、遺伝子ワクチンを接種しても、細胞内のオートファジーは殆ど作用しないということになりましょう。

 

 第2の推測は、スパイクたんぱく質は細胞内部にあってオートファジーを働かせるというものですが、この推測は、同たんぱく質の性質によって凡そ二つに分かれます。スパイクたんぱく質が無害であれば、身体へのマイナス影響はありませんし、スパイクたんぱく質が有害であれば、リソソームやミトンドリア等のオルガネラに損傷を与えることとなりましょう(接種後の倦怠感は、ミトコンドリアの損傷による?)。

 

 特に、仮に後者であれば、同たんぱく質は、mRNAによって細胞内で生成されますので、生成の場となった細胞の内部にあって各種オルガネラを、即、傷つけてしまうかもしれません。また、他の細胞内で生成されて外部に送り出されたスパイクたんぱく質が、一般的なエンドサイトーシスの経路によって体内の他の細胞一般に取り込まれる場合も考えられましょう。何れであれ、上述した実験の結果が示すように、たとえオートファジーが正常に働いたとしても、若干であれ臓器の機能低下が起きるかもしれません。そして、何らかの体質、疾病、並びに、加齢等によってオートファジーの機能低下が既に起きている場合には、臓器の著しい機能低下に見舞われるリスクもありましょう。

 

 そして、ワクチン・メーカーが想定しているように、遺伝子ワクチンによって大量に産生されたスパイクたんぱく質は、オートファジーが作用する以前の段階で免疫システムによって処理されてしまうというのが第3の推測です。同ケースでは、オートファジーによる遺伝子ワクチンの副作用や有害事象は起き得ないのですが、この場合でも、何らかの体質、疾病、並びに加齢等によって免疫力が低下し、免疫システムの対応力を越える接種者にとりましては、上述したような健康被害のリスクがありましょう。

 

 以上に、遺伝子ワクチンとオートファジーに関する主たる疑問を挙げてみましたが、私は専門家ではありませんので、上記の推測は何れも的外れであったかもしれません(お恥ずかしい限りです…)。専門家の一言でこれらの疑問が氷解する、あるいは、推測が瓦解するかもしれないのですが、ワクチン接種後の死亡例も多数報告されており、かつ、深刻なワクチン後遺症も懸念される中、遺伝子ワクチンにつきましては、より徹底した安全性の確認が必要なように思えます。生命は、まだまだ神秘に満ちているのですから。


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子供給付の最大の問題点は発想の貧困では?

2021年11月11日 12時02分30秒 | 社会

 18歳以下の子供たちに対して10万円の給付金を支給する案につきましては、対象を世帯主年収960万円未満とすることで自民党と公明党が合意したと報じられております(同制限は両親+子供二人のモデル世帯の場合…)。公明党の強い要望を受けての政策だけに世論も賛否両論に分かれており、国民にあっても歓迎一色というわけではないようです。

 

 反対論としては、(1)給付政策そのものに対するもの、(2)対象世帯に対するもの(子供のいない家庭は排除…)、(3)所得制限に対するもの、(4)給付の形態(現金+クーポン)に関するものなど、様々な側面からの批判の声が上がっています。(1)の政策自体への批判にあっても、将来の増税を恐れるもの、景気、あるいは、コロナ対策としての効果の薄さを懸念するものなど、さらに論点は細かく分かれているのです。また、選挙に際して給付政策の公約を掲げて闘うという手法が、’票を買う’悪しき前例ともなれば、日本の政治がさらに堕落しかねないリスクもありましょう。

 

 かくして子供給付策は嵐の中の船出ともなったのですが、もう一つ、同政策の問題点を挙げるとすれば、子供たちへの教育効果をも踏まえた上での熟慮に欠けている点ではないかと思うのです。同政策の発案者である公明党も、所得制限に関しては、子供たちの分断、即ち、子供たちの間で’もらえる子供’と’もらえない子供’に分かれることを危惧していると報じられています。確かに、どちらの側であれ、給付政策を機に’苛めに会う’可能性があります。9割のマジョリティーとなる’もらえる子供たち’が、裕福ではあるけれどもマイノリティーとなる1割の’もらえない子供たち’を仲間はずれにするケースもあり得ますし、逆に、給付金を’もらえない’のは富裕層の証として、その優越感から’もらえない子供’が’もらえる子供’を見下すケースも考えられましょう。

 

 しかしながら、家庭にあって、親たちは、自らの世帯への給付の有無を子供たちに伝えるのでしょうか。年収を子供に教える親も、親から聞いた年収を教室にあって他の同級生たちに話す子供もそれ程には多くないことでしょうから、給付の有無をめぐって全国津々浦々の教室内で深刻な分断が起きるとは思えません。また、教室では、しばしば’いじめっ子グループ’と’いじめられっ子グループ’、’アウトドア系’と’おたく系’、あるいは、’スクール・カースト’なるグルーピングが生じる傾向にありますが、仮に、今般の給付の有無が教室に分断を持ち込んだとしても、それは、既存の分断線とは必ずしも一致せず、より複雑な様相を呈することでしょう。

 

 そして、何よりも、分断=悪と見なすならば、そもそも給付政策を中止するという選択の方が余程筋が通っています。対象を特定のグループに限定した給付政策は、どのように線引きしても’分断’が生じるからです。しかも、’お金を配れば何でも解決する(’票’も’支持率’も買える?)’という拝金主義的な手法はいかにも短絡的であり、かつ、教育的にも褒められたものではないように思えます。本政策の根底にある少子高齢化は、教育費等の経済的な家計負担のみならず、子供たちが将来に対して希望を持てない状況も強く影響しています。ITが社会全体に浸透し、AIが職を奪いつつある今日、先行きが不透明な状況下にあって、子供たちが自らの道を見つけることは容易ではありません。全ての子供たちがITやAIに興味や適性があるわけではなく、また、同分野の専門職に就けるわけでもないからです。

 

世代を越えた所得格差の固定化も懸念されている中、再分配政策のみでは、構造的な問題を解決できないことは確かなことです。そうであるからこそ、大人たちが知恵を絞り、そして、子供たちにも一緒に考えてもらってこそ、様々なアイディアが生まれ、より善き未来を導くことができるのではないでしょうか。子供給付政策の最大の問題点はその発想の貧困にこそあり、それは、経済的な貧困よりも深刻なのではないかと思うのです。


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ワクチン接種をめぐる社会的分断の責任は誰に?

2021年09月02日 12時20分18秒 | 社会

 政府の旗振りの下で、ワクチン接種を完了した人の数は、日本国内でも半数に迫ろうとしています。現状にあって12歳以下は対象外とされていますので、65歳以下の年齢層にあっても相当数の人々が既に二度の摂取を終えたようです。その一方で、ワクチンに対する懐疑論は根強く、アメリカなどにあってもワクチン接種率は50%前後で推移しているようです。その理由は、反ワクチン派の主張には、否定し難い根拠があるからであると言えるでしょう。

 

 すなわち、自発的ワクチン未接種者には、ワクチン接種を思い留まるに十分な理由があります。ワクチン関連死を疑われているケースは、日本国内にあって既に1000件を超えており、異物混入が確認されたロットのモデルナ製ワクチンの接種者のうち、二人の男性がなくなっております。この数字こそ、ワクチンの安全性が疑われる最大の根拠です。仮に、政府が強調するように安全性が確立されているのであれば、ワクチン関連死の報告はゼロ、あるいは、せめて他の一般的なワクチンと同程度となるはずなのですから。しかも、これらの報告ケースの大半は、ナノ脂質粒子、人工mRNA、スパイク蛋白質、並びに抗体などに関連してこれまで医科学的見地から指摘されてきたリスク要因によって凡そ説明し得るのです。

 

 ワクチン接種による健康被害が現実的なリスクである以上、非接種者の選択は合理的な判断であり、かつ、リスク情報の発信や非接種の薦めも善意に基づくものとなるのですが、何としても接種率を上げたい人々からは、身勝手な‘悪人’、あるいは、たとえ善人扱いであったとしても、陰謀論を信じる‘変人’というレッテルが張られてしまっています。メディアでもネットでも、反ワクチン派を、社会を分断させる張本人とみなす記事に溢れているのです。反ワクチン派は、‘陰謀論に絡めとられた残念な人’として。

 

 しかしながら、この論調、分断というものの発生プロセスを考えますと、ワクチンを忌避する人々に対する責任転嫁と言えなくもありません。何故ならば、深刻な社会的な分断は、相互に相手の言い分や主張を認めない場合に生じるからです(相互拒絶…)。今般のケースに当て嵌めますと、ワクチン推進派もまた、自らが絶対に正しいと信じ込み、ワクチンを忌避する人々の根拠や理由を一切認めないとする頑なな態度において、社会を分断させています。この点においてワクチン推進派の人々も社会的分断の’張本人’ですので、一方的にワクチン忌避者を糾弾するのは、自らの責任に目を瞑っていると言わざるを得ないのです。

 

 もっとも、メディアやネットに散見されるこうした記事は、ワクチン推進派による世論工作の一環なのでしょう。’書かされている記事’であることは疑いようもないのですが、それでも、同調圧力というものは、何れの国にあっても相当の効果を発揮するようです。アメリカでの実験結果によれば、明らかなる間違いであっても、自分以外の人々がそれを正しいとした場合、驚くべきことに75%もの被験者が、後から自らの見解を変えてしまうそうです。こうした同調圧力の効果を期待しているとしますと、ワクチン推進派の人々は、多勢を装ってワクチン接種を正解と言い募ることで、ワクチン忌避派の人々を’転向’させたいのでしょう。反対派の言い分を素直に認めてしまっては、同調圧力が大幅に弱まってしまうからです。このように考えますと、ワクチンを忌避する人々を、社会を分断させている’残念な人’とみなす記事については用心が必要なように思えるのです。


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AIは人の権利を奪う?-決定権とは権利のこと

2021年08月24日 12時44分11秒 | 社会

 ディープラーニングの登場がブレークスルーとなって、今やAIは、次世代の主役とも目されています。シンギュラリティが実現する日も近いとされ、米中のみならず、各国ともAI技術の開発に鎬を削っています。しかしながら、その一方で、自立的決定が可能となったAIには、機械やロボットにはないリスクがあるように思えます。それは、知らず知らずのうちに人の権利を奪ってしまう、というものです。

 

 その理由は、決定権の保持こそ権利の本質であるからです。産業革命以来、工業をはじめとして様々な分野にあって機械化が進んだことで、人類の多くは、重労働から解放されるようになりました。人権意識が浸透した現代という時代にあっては、過重な労働自体が人々の生命や身体を脅かす人権侵害、あるいは、非人道的行為とも捉えられており、人々に苦痛を与える程の負荷となる労働からの解放こそ、人類の目指すべき道とも認識されているのです(もっとも、プロのスポーツのように必ずしも苦痛ではない場合もありますので、一概には言えませんが…)。必要性から半ば強いられてきた重労働を機械やロボットに代替させれば、人々には、自らの生き方を自らで決定し得る余地が生まれ、より身体に対して負荷の低い仕事を選べます。機械化やロボット化は人類の権利拡大の一環としても理解され、そしてそれは、’束縛からの自由’という意味において、人類に自由をももたらしてきたのです。

 

ラッダイト運動といった反対運動もありながら、機械化は、多くの諸国で受け入れられてきた理由も、基本的な権利や自由の擁護における人類に対する貢献があるからなのでしょう。一方、今日、長足の進歩を遂げているAIは、どうなのでしょうか。AIの最大の特徴は、データを入力さえすれば、それが人の脳の処理能力を遥かに超える程に膨大であったとしても、自ら解析して判断してしまうところにあります。このため、AIに判断を任せる範囲が拡大するにつれて、人が自ら決定し得る範囲が狭まってゆくこととなりましょう。つまり、AIの導入という形で決定権をAIに譲ることで、人々は、組織であれ、個人であれ、自らに直接に関わる事柄であっても、決定する権利を失ってゆく未来が予測されるのです。

 

奴隷とは、自らに対する決定権を失った状態にある人々を意味しています。そして、属国、あるいは、植民地もまた、自らの国に対する決定権を奪われた諸国を言います。決定権の保持こそが、独立性、あるいは、主体性と不可分に結び付いているとしますと、その喪失は、自らを従属的な立場に置くことに他ならないともいえましょう。このように考えますと、日頃より人権の尊重を訴えている人々が、AIについては沈黙しているのは不思議なことです。

 

大量のデータの解析や処理といった頭脳の’重労働’を軽減するために利用については人類に役立つのでしょうが、AIの導入に際しては、それが、人の決定権をうばうものであるのかどうか、慎重に見極める必要があるように思えます。近い将来、AI、あるいは、それを背後でコントロールする極少数のグループによって、人々から決定権が奪われ、隷従化されないためにも。

 

 


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