万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

コロナワクチンと全体主義の陰

2023年10月05日 15時25分40秒 | 社会
 今年の生理学・医学ノーベル賞の受賞者は、新型コロナウイルス感染症に対するワクチンの開発に貢献したとして、二人のペンシルバニア大学の研究者が選ばれました。カタリン・カリコ特任教授とドリュー・ワイスマン教授のお二方なのですが、政府並びに主要メディアが人類を救った偉大なる功績として絶賛する一方で、ネットをはじめとした一般国民の反応は極めて微妙です。否、訝しがる人の方が多いくらいです。その理由は、言わずもがな、超過死亡者数によって示唆されるように、ワクチンが原因として強く疑われる健康被害が広がっているからに他なりません。

 世界初のmRNA型ワクチンは、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックを根拠として政府から緩急許可が下り、急遽実用化されることとなりました。安全性に関する十分な治験を経ずに人類に対して試されたとする批判は、同経緯によるものです。‘人体実験’と言った物騒な言葉も聞かれるのですが、仮に、ワクチンによる健康被害が事実、あるいは、その可能性が極めて高いならば、政府や主要メディアの持て囃す姿勢も疑問符が付きます(同タイプのワクチンについては科学的にも根拠がある・・・)。‘人体実験’の結果は‘有害’であり、一定のパーセンテージで死亡ケースも報告されている以上、実用化は難しいという結論になるはずなのですから。ワクチンと健康被害との因果関係が濃厚である現状にありながら、なおも政府が、mRNAワクチンの技術はあらゆる分野に応用できるとし、同テクノロジーの開発を積極的に後押しするとなりますと、多くの国民は、政府に対する不信感を募らせることとなりましょう。

 もっとも、コロナワクチンによる国民の健康被害については、同ワクチンによって多くの国民の命が感染症から救われたのであるから、致し方ない犠牲として甘受すべきとする意見もないわけではありません。全体を救うためには一部の犠牲は仕方がない、とする論理です。確かに、「トロッコ問題」のような、多数の命か少数の命かの二者択一の究極の選択を迫られる場合には、多数を選択することは倫理的に許容されましょうし、防衛戦争の場合にも、国民の誰もが少なくない自国将兵の犠牲を覚悟しなければならなくなります。極限状態にあっては、少数者の犠牲を受け入れざるを得ない場面もあるのですが、他に選択肢があったり、極限まで至っていない状況下等では、少数者の犠牲に関する倫理・道徳的許容レベルは格段に上がってきます。

 5人の命と1人の命の二者択一を迫られる「トロッコ問題」にしても、最善策はトロッコを止めることです。トロッコが暴走している線路に石、木材、ブロックなどの障害物を置いてトロッコを停止、または、脱線させれば、6人全員の命が失われずに済むのです。選択肢を二つに限定しなければ、犠牲は回避できるのです。

 このように、少数者の犠牲は、他に選択肢なき極限状態という極めて稀な状況にのみ許容されるのですが、今般のコロナ禍が、同状態に当て嵌まるのかと申しますと、この点は、大いに疑問なところです。とりわけ日本国では、‘ファクターX’として謎解きが流行るほど、他の諸国と比較して感染率が著しく低い状況にありました。パンデミックの初期段階にあり、かつ、ワクチンの有害性が不明な段階では‘緊急事態’の言い訳も通用するものの、少なくともワクチン被害が疑われるケースが報告された時点にあって、接種推進から慎重または中止に転換すべきであったと言えましょう。ところが、政府は、因果関係が不明である点を逆手にとって、接種推進策を変更しようとはしなかったのです(疑わしいから止めるではなく、疑いの段階であるうちに進める・・・)。

 コロナワクチンに見られた全体のための少数者の犠牲、あるいは、個人の犠牲の許容という言い分は、全体主義の価値観とも共通しています。状況や条件に関する厳密かつ慎重な検討もなく、際限なく全体優先の論理が浸透してゆきますと、自由主義諸国にあっても容易に全体主義体制の方向に誘導されることとなりましょう。少数者や個人の命の犠牲が当然のことのように主張される時、そこには全体主義の陰が既に忍び寄っているかもしれないと思うのです。

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移民の自由と責任の問題

2023年07月26日 09時51分04秒 | 社会
 広域的な欧州市場を形成したEUでは、国境を越えた域内の移動の自由は基本原則の一つともされています。EUのみならず、グローバル時代を迎えた今日の国際社会を見ますと、‘移民は正義’とばかりに、国境を越えた人の自由移動は奨励されてきました。近年、移民問題の深刻化を受けて歯止めがかかってきたものの、日本国政府を見る限り、海外からの高度人材の取り込みや人口減少や労働力不足を補うための外国人の受け入れ促進など、移民奨励政策を変更する兆しは見えません。グローバルな移民促進政策は、国連や世界経済フォーラムと言った世界権力の基本方針なのでしょうが、IMOの基本理念に忠実に従うかのように、各国政府とも、移民する側の自由並びに権利保護に政策の軸足を置いていることは疑いようもありません。

 戦争や内戦等によって故郷を追われ、住む家も失い着の身着のままで逃げ出さなければならない事態に直面した人々、つまり難民は、避難先となる受け入れ国にあっては一時的に保護されるべき人々なのでしょう。その一方で、今日にあって大多数の諸国が直面している移民問題は、主に経済的要因によって発生しています。とりわけ、グローバリズムの拡大は、安い労働力を手にしたい先進国のグローバル企業と貧困から抜け出したい途上国の移民希望者との利害を一致させることとなりました。世界権力が、受け入れ国側には‘寛容’あるいは‘忍耐’を強要する一方で、移民の側の保護に熱心であったのも、それが自らの経済的利益に解きがたく結びつていたからなのでしょう。難民と経済移民との区別は曖昧となり、外国人という同一のカテゴリーにおいて手厚い保護の対象となったのです。全世界の諸国において際限なく‘マイノリティー’を創ることができるのですから、移民推進は、世界権力にとりましては一石二鳥、否、それ以上の作戦なのでしょう。

 しかしながら、この構図、受け入れ国側の国民のみに理不尽な負担を強いることとなるのは言うまでもありません。外国人=弱者=保護の対象とする構図が成立している以上、外国人が受け入れ国側の国民の基本的な自由や権利を侵害したとしても、大目に見られてしまうのです。外国人容疑者が何故か不起訴処分となったり、果てには、外国人移民の犯罪組織が‘地下’に広く深く根を張ったり、その居住地域が警察さえ足を踏み入れることができない一種の‘治外法権’と化してしまうといったケースも現れるようになりました。移民の増加によって治安が悪化する原因の一つは、権利保護において国民と移民との間の格差に求められましょう。結果として、法の下の平等原則も損なわれると共に、政府や公的機関は移民の側の権利を厚く擁護しますので、国民は、権利保護という統治機能を十分に受けられなくなるのです。これでは、国家の存在意義さえ問われてしまいます。

 そして、ここで一つ問題として提起すべきは、移動の自由にも責任が伴うのではないか、という問いです。しばしば、‘自由には責任が伴う’とされます。凡そ如何なる自由にあっても無制限な自由はなく、必ずやその結果には責任を負わなければならないという意味です。移動の自由についても、当然に責任が伴うはずです。ところが、先述したIMOの理念(「正規のルートを通して、人としての権利と尊厳を保障する形で行われる人の移動は、移民と社会の双方に利益をもたらす」)には、移民の側の責任について言及する部分が欠けています。これでは、移動の自由を行使した結果、受け入れ国側が如何なる被害やマイナス影響を受けたとしても、責任を免除する‘免罪符’が移民側に与えられているかのようです。

 とりわけ経済的な要因による移民は、グローバル人材事業者が営む移民ビジネスにあって債務を負う身ではあっても、自発的に海外に職や居住地を求めた人々です(受け入れ国に対する責任は免除されても、債権者に対する借金の返済義務からは逃れられない?)。こうした人々に対しては、弱者として責任を免除するのではなく、一人の独立した人格を持つ人々として尊重し、責任を求めた方が余程人権尊重の精神に合致しているように思えるのです。

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国際移住機構の基本理念は正しい?

2023年07月25日 13時31分05秒 | 社会
 2018年末の安倍政権時代に入国管理法を改正し、日本国政府は外国人労働者の受け入れ拡大に向けて舵を切ることとなりました。外国人労働者の日本国内での定住を想定している点において、同法の改正は労働市場の開放のみならず、移民推進政策への転換として捉えられたのです(永住資格の取得に繋がる特定技能2号への移行規程の設置)。安倍首相暗殺事件を機に自民党の体質が露呈した今日にあって振り返ってみますと、自公政権による移民政策の推進は、保守政党の看板を掲げていた自民党の‘偽旗作戦’であった証ともなるのですが、移民政策をめぐる政府側の国民に対する一方的な‘耐忍要求’は、今に始まったわけではありません。

 国連をみますと、世界人権宣言や国政人権規約等の成立に寄与するなど、同機関は、グローバルな移民の保護・推進機関の役割を果たしてきています。例えば、2016年9月には、「難民および移住に関する国連サミット」が開催され、ニューヨーク宣言が採択されています。この際には、国連とは別機関として1951年に設立された国際移住機関(IMO)も、国連機関の一員に加わりました。そして、まさしく日本国の入管法改正と同時期となる12月10日には、ニューヨーク宣言に基づいて「安全で秩序ある正規移住のためのグローバル・コンパクト」並びに「難民に関するグローバル・コンパクト」が採択されているのです。なお、改正法の成立は、「世界政府」とも称されている世界経済フォーラムの年次総会を翌2019年1月22日から25日に控えていた時期でもありました。

 このように、日本国の移民受け入れ政策への転換は、グローバルな動きと連動しているのですが、移民の増加による治安の悪化や社会的な対立や分断の深刻化は、今や移民受け入れ国に共通する社会問題となっています。積極的な推進策をとる政治サイドでは、政府レベルであれ、政党レベルであれ、外国人差別反対や多文化共生主義などを掲げ、受け入れ国の国民に対して寛容を求めています。‘寛容’という言葉自体は柔らかなのですが、現実には、言論の自由を侵害しかねないヘイトスピーチ法やポリティカルコレクトネスなどによる社会的規制が敷かれ、殆ど‘強制された寛容’に近い状況を呈しているのです。

 結局、受け入れ国の国民の不満ばかりが高まる結果を招いたのですが、それでは、何故、このような事態に陥ってしまったのでしょうか。その理由は、上述したIMOの基本理念を読みますと、自ずと理解されてきます。IMOの基本理念とは、「正規のルートを通して、人としての権利と尊厳を保障する形で行われる人の移動は、移民と社会の双方に利益をもたらす」というものです。同理念で注目されるのは、移動する側の権利と尊厳が保障されれば、移民と社会の両者に利益をもたらすとしている点です。この基本理念を文字通りに解釈しますと、人権や尊厳の保障は、移民の側にしか及ばないこととなりましょう。

 理念とは、あくまでも言葉で表現された活動の方向性を示す精神的な原則に過ぎません。このため、理念と現実がかけ離れることは珍しいことではなく、むしろ、理念の先走りが現実にリスクや損害をもたらすことも少なくありません。IMOの理念も例外ではなく、現実には移民する側のみの権利や尊厳を保護さえすれば、必ずしも受け入れ側の社会に利益をもたらすわけではないのです。否、多くの国で移民問題が表面化しているように、忠実に同理念に従った結果、一般の国民は、犯罪リスクに直面するのみならず、様々なルートを有する移民の側からの文化的寛容の要求に苦慮していると言えましょう。

 昨今、イスラム教徒による土葬許可の要求が報じられていますが、IMOの基本に従って移民側の文化をも受容せざるを得なくなりますと、今後は、インドの風習が根付いて全国の河川敷にあって水葬を目にする日も訪れるかもしれません(チベット人が要求すれば風葬も・・・)。移民問題については、IMOのアンフェアで非現実的な基本理念、否、移民ビジネスから巨額の利益を得ている偽善的な世界権力の基本方針という問題にまで遡って考えるべきであり、受け入れ側の諸権利の保護を認めないことには、事態は悪化の一途を辿るばかりではないかと危惧するのです。

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AI失業を救う‘新しい職業’は幻?

2023年07月18日 12時40分17秒 | 社会
 今や、AI自身が人類に対して知的能力において勝利宣言する時代を迎えています。生成AIの登場は、人類のデバリュー、あるいは、格下げにさらに拍車をかけており、‘人間を必要とする時代はもう終わったのだ’と言わんばかりなのです。

 AIの普及が大量失業をもたらす怖れに対しては、AI for Good Global Summitが主催した記者会見の席で、ヒューマノイドロボットがきっぱりと否定しておりましたし、メディア等に登場する識者の見解の大半も、‘新しい仕事’が生まれ、失業が吸収されるとする楽観論です。‘産業革命時にあってもラッダイト(機械打ち壊し)運動が起きたけれども、ホワイトカラー職の需要増加によって失業問題は難なく解決した’として・・・。

 デジタル化を歓迎するAI普及推進派の人々は、過去の前例を引き合いに出して人々の不安を払拭しようと務めているのですが、ラッダイト運動の時代と今日とでは、状況は大きく違っているように思えます。前者にあって失業を吸収できたのは、おそらく、この時期、経済の拡大に伴う企業数の増加や企業の組織化、並びに活動内容の複雑・広範化が進んだからなのでしょう。企業活動にあって基礎的な部分となるのは製造ですが、近代以降、企業は、組織の管理・運営のみならず、財務、法務、人事・採用のみならず、マーケティング、営業、市場調査、研究開発、宣伝・広報・・・などにおいて人員・人材を要するようになったからです。また、サービス業の多様化や外注化も失業問題の緩和に大いに貢献したことでしょう。製造部門である工場において労働者の雇用数が減少しても、ホワイトカラー職の叢生がその受け皿となったのです(もっとも、世界恐慌に起因する大量失業問題は、戦争によって解決されたとも・・・)。

 ところが、現在の状況は、ラッダイト運動の時代とは大きく違っています。そもそも、何れの諸国にあっても、雇用数の拡大を伴う右肩上がりの経済成長期にあるわけではありません。しかも、AI失業の問題は、上述したようなデスクワークを主とするホワイトカラー職を直撃する性質のものです。AI失業に対して楽観的な予測を述べる人々は、‘新しい職業’の出現を期待して人々の不安を解消させようとするのですが、具体的な職業の名の一つさえ上がっていません。‘新しい職業’ではあまりにも抽象的であり、不安払拭には程遠いのです。

 ITのみならず、AIも人に代替する、即ち、合理化や省力化をもたらすテクノロジーですので、人員削減に効果を発揮しこそすれ、雇用創出効果については疑問を抱かざるを得ません(実際に、IT大手は人員削減に邁進中・・・)。また、デジタル化によって確かにプログラマーやシステム・エンジニアといった‘新しい職業’が出現しましたが、デジタル専門職の雇用数は全体からしますと極めて少数に過ぎません。その一方で、デジタル化にはデータ入力作業を要しますので、従来のブルーカラー職とは異なる単純作業に従事する人々が現れたたことも確かなことです。AIについては、プログラミングさえ誰でもできるようになるとされていますので、従来型の職業のみならず、知的能力を要する専門職さえもAIに奪われる一方で、AIへのデータ入力者の需要のみが増大してゆくのかもしれません。なお、生成AIを含めて、ネット・サービスの利用は、同時にユーザーの個人情報の自発的な入力作業としての側面があります。

 このように考えますと、AIによって人類が支配されるに至らないまでも、大多数の人類がデータ入力者としてAIに奉仕するという未来の到来も絵空事ではないように思えてきます。しかも、ディープラーニングや国民監視の技術がさらに発展すれば、自発的かつ自動的に個々人のデータを収集してしまうかもしれません(人間は不要に・・・)。仮にこうした未来が訪れるとしますと、人類は、‘どこかで道を誤った’、否、’誤った道に誘導されてしまった’ということになるのではないかと思うのです。

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量子コンピュータの限界とは?

2023年07月13日 12時22分09秒 | 社会
 デジタル時代の先には、量子の時代の到来が予測されています。その中核となる量子コンピュータの開発も進んでおり、その実用化の日も遠くはありません。本日も、イギリスの企業が量子コンピュータの常温稼働と量産を実現する技術開発に成功したとするニュースが報じられていました。古典的なコンピュータとは異なり、量子コンピュータは、膨大なデータが瞬時に並列処理されますので、複雑な問題をも解析する能力を備えています。このため、当初話題となった解読不能な暗号の開発のみならず、地球の気候変動の予測や地震等の自然災害の事前予測など、量子コンピュータに対する人々の期待は高まるばかりです。しかしながら、万能にも見える量子コンピュータにも幾つかの限界があるように思えます。

 量子コンピュータの出現によるシミュレーションや予測能力の飛躍的な向上が、人類に大きく貢献することは確かなことです。例えば、天気予報を含む気候変動をより正確、かつ、長期的に予測できるようになれば、先々の計画が格段にたてやすくなります。一ヶ月先、あるいは、一年先のお天気が分かっていれば、雨天を心配せずに運動会などの屋外で催されるイベントのスケジュールを決めることができますし、農家の人々も、日々の雨量や風向き、あるいは、豪雨や台風の到来時などを前もって知ることができます。また、古来、甚大な被害を与えてきた地震、津波、火山の噴火などの地球の活動に起因する自然災害につきましても、発生日時や規模等を正確にはじき出す技術は、被害を最小限に押さえ込むためには是非とも手にしたいテクノロジーです。建物等の物的な被害や損害は完全には避けられないとしても、人々は事前に余裕をもって安全な場所に避難ができますし、多くの命も救われることでしょう。

 超コンピュータともされる量子コンピュータを用いれば、不可能なことは何もないようにも思えるのですが、量子コンピュータの限界の一つとして挙げられるのは、必要となるデータの測定技術が追いつかないという問題です。上述した天候・気候や地震の予測についても、関連性を有する全ての数値を測定し、それをデータ化する必要があります。地球マントルや核の温度や対流、地域ごとに異なる太陽光の影響、全世界の海水温度、全ての大陸プレートの移動速度、地盤の地質構成と強度、大気の流れ・・・等など、数え挙げたら切がありません。しかも、リアルタイムで測定し、同時にデータ化しなければならないのです。

 それでは、常に変化し続けているこれらの数値を確実に測定する技術は存在しているのでしょうか。この点につきましては、は至って怪しくなります。例えば、地球とは地殻、上部マントル、下部マントル、外核、内核の5層から成るのですが、これら全ての温度変化をリアルタイムで測定する方法は、今のところは存在していません。

 もちろん、今後、非接触型の体温計のように電磁波を利用して測定するという方法もあるのでしょうが、たとえ測定方法が開発されたとしても、地球全体の‘体温変化’を満遍なく計ろうとすれば膨大なエネルギーやコストを要するかもしれません。最悪の場合には、大規模な地球レベルでの測定事業を優先させた結果、人類の生活水準が下がってしまう可能性も否定はできなくなるのです。

 地球温暖化論者が予測するようには、両極の氷塊による海面上昇によって太平洋諸国が水没して消滅したり、ヒマラヤの氷河湖が決壊する事態が起きないのも、現在のデジタル・コンピュータにあっても測定データが不足しているからなのでしょう(温暖化二酸化炭素説に科学的な根拠を与えるために、恣意的なデータの取捨選択が行なわれているとする指摘もある・・・)。このデータの不完全性の問題は、量子の時代にあっても変わりはなく、如何に優れた技術でも、それを活用するに際して必要となるテクノロジーが欠けている場合には、宝の持ち腐れになりかねないのです。

 今日、バーチャル・リアリティーやmRNAワクチンなどを含め、テクノロジーの独善的な先走りが人類をディストピアに誘うリスクとなりつつあります。量子コンピュータもまた、上述した問題以外にも、その卓越した能力故に、世界権力による人類支配の道具とされるかもしれません。全ての人類がSFチックなテクノ社会を望んでいるわけではないのですから、未来型のテクノロジーについては、今一度立ち止まり、その使い方や実用化に伴う問題について多方面からの議論を経てからでも遅くはないと思うのです。

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AI・超人・天才と政治

2023年07月12日 13時51分03秒 | 社会
 近い将来、シンギュラリティーに達して人の知能を上回るとされるAIについては、その能力のずば抜けた高さ故に、人類支配の懸念が寄せられています。しかしながら、そもそも、知的能力の高さは、統治権力を行使する正当な理由となるのでしょうか。ここで、AI、超人、天才の三者と政治との関係について考えてみたいと思います。

 最近、web上で「ギフテッド」の子供達の問題を目にするようになりました。「ギフテッド」とは、教育現場にあってIQが高すぎるために現行の教育制度にあってトラブルや不適応反応を起こしてしまう子供達のことです。これらの子供達は、学校での授業が簡単すぎて不登校となったり、周囲から浮いてしまい虐めに遭ったり、周りの子供達に合わせようと無理をして心を病んでしまう傾向にあります。特に日本の教育制度では飛び級や「ギフテッド」向けの教室が設けられていませんので、「ギフテッド」達は救いのない状況に置かれているのです。

 「ギフテッド」は、知的な才能に恵まれながらも社会性が欠如していると見なされ、社会人となっても周囲の環境との不適合に悩み、ままならぬ人生を歩む人も少なくありません。こうした人々が安心して仕事ができる職業とは、知的好奇心や探究心を活かすことができる職、例えば研究者、高度な専門職、開発者や芸術家等とされており、どちらかと申しますと、他者と接する職業には向かないとされています。天才は政治家になるべき、とする主張も耳にしません。むしろ、政治家達は、その能力を伸ばしたり活かそうとするよりも、天才達を邪険に扱っている節もあり、不遇のうちに一生を終える天才も少なくないのです。

 ところが、超越性を有する人を「超人」と表現するようになりますと、政治との距離が一気に縮まります。ニーチェの思想の影響ともされますが、アドルフ・ヒトラーは、『わが闘争』において最優秀者による政治を正当化しています。最近では、イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏が、ホモ・デウス論にてAIを含むテクノロジーを取り込むことで不死の神の域にアップ・グレードした人間の出現を予言していますが、近未来のホモ・デウスも、知力に勝る少数者による権力と富の独占を肯定しているとする点において、「超人」の系譜に属するのでしょう。こうした「超人」の発想には、ユダヤ教における選民思想や救世主(メシア)願望が潜んでいるとも推測され、世界権力の未来ヴィジョンを代弁しているのかもしれません。因みに、メディア等ではハラリ氏は‘超天才’として賞賛されているのですが、同氏に人類を支配してもらいたいと考える人は、それ程には多くはないかもしれません。

 そして、AIともなりますと、その卓越した能力故に、人類の支配者となることが、当然の如くに語られるようになります。テクノロジーの発展は誰も止められず、‘人間は、もはや逆立ちしても知的能力においてAIにはかなわないのであるから、その支配下に入るのは当然である’とする、必然論に飛躍してしまうのです。言い換えますと、AI人類支配論とは、未来を志向しながら、より優れた者が劣った者達を支配してもよい、あるいは、それが当然であるとする古来の優勝劣敗、あるいは、優生思想に舞い戻ってしまうのです。

 そもそも、現状にあってさえ、政治=支配・被支配関係と見なす政治観は過去のものとされております。今日の政治、あるいは、公的な機構の基本的な役割とは、各種の法律を制定したり、様々な政策を実施することで国民に対して統治機能を提供することにあります(国民の各々もそれぞれ異なる様々な能力や資質などをもっっている・・・)。ましてや民主主義国家では、国民が主権者であって政治に参加する権利を有しています。このように考えますと、‘AIに支配される’という発想自体が、時代錯誤のようにも思えてくるのです。

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多言語対応選考の解き難い矛盾

2023年07月10日 11時26分08秒 | 社会
 日本国内には、様々な社会活動を行なうボランティアのNPOが設立され、民間の非政治団体ながらも政府から公式に認定を受けています。Living in Peace(LIP)も認定NPO一つであり、「機会の平等を通じた貧困削減」を目的として、難民の就職活動などを支援しています。ハフポストのweb記事によりますと、同団体、今月に「外国人の働きやすさを評価する指標42項目」を発表したそうです。特に「採用」に関して企業に多言語対応を求めたことから注目されることとなったのですが、同団体が求める多言語対応には、無理があるように思えるのです。

 LIPは、民間のボランティア団体なのですが、国立大学である東京大学の研究者との共同開発ともされ、補助金のみならず、直接、あるいは、間接的に国費が投じられている可能性もありましょう。その一方で、ここで思い起こすのは、世界経済フォーラムが描く未来ビジョンです。同ビジョンでは、‘将来のグローバル化した世界は、‘多国籍企業、国際機関を含む政府、並びに、選ばれた市民団体(CSOs)間の3協力によって最も良くマネージされる’としていますので、LIPも、同フォーラムの認定‘CSO’なのかもしれません。この推測が間違っていなければ、同上の42項目が‘評価指標’と表現される意味を察せられます。

つまり、日本のNPOであるLIPが開発したとされる基準は、本当のところは世界権力が全世界の企業を評価するための‘グローバル指標’であるとも推測されるのです。かくして、LIPの指標については慎重にその意図を見極める必要があるのですが、実際これらの指標を採用しようとしますと、越えがたい高い壁にぶつかってしまうように思えます。
 
 第1に、真の意味での多言語への対応は、全世界の言語数からすれば不可能である点です。何故ならば、全世界の言語数は、7000以上を数えるからです。公用語の数に限ればこの数は少なくなるものの、インドを例にとれば、ヒンディー語を公用語としつつ、準公用語の英語の他に22の指定言語が存在しています(連邦レベルの公用語であるヒンディー語を話さず、指定言語のみを使用するインド人も存在する・・・)。多言語主義による採用を文字通りに実践しようとすれば、膨大な数の言語を想定せねばならず、企業の負担は計り知れません。仮に、同指標に基づく企業評価が対応言語数に比例するとすれば、より多くの言語専門家を雇用することができる、資金に余力のある企業のみが高評価を得ることとなりましょう。

 そこで、第1で指摘した問題に対応するために、使用者数の多い言語、あるいは、国連公用語の六カ国語に絞り込もうとするかもしれません。しかしながら、ここでも第2の問題にぶつかってしまいます。それは、使用者の多い英語、中国語(ただし、北京語、東北語、広東語、上海語の違いがある・・・)、スペイン語、アラビア語、フランス語、ヒンディー語などであれ、国連公用語であれ、それ以外の言語を使用する人々に採りましては、明確なる言語による‘就職差別’となってしまう点です。LIPは活動目標として「機会の平等を通じた貧困削減」を掲げておりますので、使用する言語によって平等な就職機会が損なわれるのですから、これでは自己矛盾となってしまいます。

 また、第3として、言語は、他者とのコミュニケーション手段である点を挙げることができます。何故、言語がコミュニケーション手段である点が問題となるのかと申しますと、外国語を話す人を一人採用する、あるいは、それぞれ言語が異なる人々を採用した場合、他の人々との間のコミュニケーションが極めて難しくなるからです。例えば、多言語対応による採用の結果として、日本語を話すことができず、ヒンディー語を話語とするインド人を一人採用したとします。このケースでは、採用されたとしても、日本語を話す他の日本人社員と意思疎通を行なうことは殆ど不可能となりましょう。また、同様に多言語対応選考の結果として、英語を話す人、中国語を話す人、スペイン語を話す人、アラビア語を話す人をそれぞれ一人づつ採用したとします。このケースでも、これらの外国にルーツのある人々の間、あるいは、日本語社員との間で円滑なコミュニケーションをとることは極めて困難です(多言語翻訳機を導入する方法もあるものの、コストや時間がかかってしまう・・・)。

 第3の問題についても、皆が共通言語を使用すればよいではないか、という意見もあるかもしれません。しかしながら、英語のみとなれば、多様性の尊重どころか言語の画一化を意味してしまいます。これでも自己矛盾となるのですが、とりわけ途上国にあって十分な英語教育を受けることができるのは一部の豊かな人々に限られますので、元より貧しい人々は応募することさえできないこととなりましょう。LIPの目標は、「機会の平等を通じた貧困削減」ですので、多言語対等の選考は、貧困撲滅の効果は薄いとしか言いようがありません。

 以上に主要な問題点について見てまいりましたが、LIPが薦める多言語対応の選考は、解き難い自己矛盾を抱えているように思えます。無理を押してまで同指標に合わせようとしますと、結局は、世界権力の描くディストピアな未来に人類が誘導されてしまうのではないかと危惧するのです。

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ハーバード大学は‘世界の縮図’?

2023年07月06日 13時07分41秒 | 社会
 アメリカでは、先日、アメリカの連邦最高裁判所が、社会・経済的に不利な立場にあったアフリカ系並びにラティーノ系の人々を対象に実施されてきたアファーマティブ・アクションを違憲とする判決を下したばかりです。同判決への‘意匠返し’なのでしょうが、今度は、チカ・プロジェクト、ニューイングランド経済開発アフリカン・コミュニティ、並びに、ボストン都市圏ラティーノ・ネットワークの三人権団体が、教育省に対してハーバード大学が長年に亘り行なってきた白人優遇入学選考制度の撤廃を要求するという、思わぬ展開を見せています。双方とも、入学選考における‘優遇措置’を問題にしているのですが、同大学における一連の異議申し立ては、‘世界の縮図’のようにも思えてきます。

 今日、グローバリズムの進展の中で中間層の崩壊が進むと共に、何れの国でも、富が極めて少数のグループに集中し、社会的流動性も低下傾向にあります。二極化の現象は日本国内でも指摘されていますが、とりわけ富裕層が多数居住しているアメリカではこの傾向は強く、アフリカ系やラティーノ系のみならず、今では、かつて中間層を形成してきた人々の多くもホワイト・プアーとして貧困層に属するようになりました。全世界の人々に希望を与えてきたアメリカン・ドリームも、もはや、過去の夢でしかないのが現状です。

 先進諸国に見られる中間層の崩壊という現象は、グローバリストの富と権力への飽くなき欲望の結果とも言える側面があります。何故ならば、世界経済フォーラムをもって‘世界政府’とも称されたように、各国政府に対して自らの政策、即ち、中間層を消滅に導く政策を実行させるほど、マネー・パワーが威力を発揮するようになったからです。そして、その戦略の基本には、富裕層に特権を与える一方で、マイノリティーを優遇するという、上下からの挟み込み作戦があったものと推測されます。今般のハーバード大学の入学選考制度をめぐる一連の出来事は、同戦略に綻びが生じてきた兆候であるのかもしれません。

 因みに、アメリカの大学では、入学選考に際して「ALDC(Athletes, Legacy, Dean’s interest list, and Children of faculty and staff)」という特別枠があり、略字のそれぞれは、スポーツ推薦、両親のどちらかが卒業生の子女、学部長リスト登載者(大口寄付者の子女)、教授・大学職員の子女を意味します。報道されている記事を読む限り、今般の異議申し立てでは、LとDとCの三つの枠が問題視されているようですが(大学が教育・研究機関であることを考慮すれば、スポーツ推薦だけは‘お目こぼし’なのも不自然なのでは・・・)、ハーバード大学入学者の内訳をみますと、凡そ40%の白人系入学者の内、「ALDC」入学は43%程度を占めるそうです(もっとも、アメリカの大学は、入学は容易なものの卒業は難しいとされていますので、入学者の全員が卒業証書を手にすることができるわけではない・・・)。なお、かくも多方面からの優遇措置が存在しながら、ハーバード大学がグローバル・大学ランキングで上位校の常連であるのも、不思議と言えば不思議なのです。

 かくして、今般、上下両者に対する優遇措置が問題となったのですが、仮にこれらの制度が廃止されば、アメリカの中間層が復活するチャンスともなるかもしれません。現行の制度にあって、最も不利益を被っているのは、富裕層でもなければマイノリティーでもない一般のアメリカ国民であるからです。現行の制度では、特別枠を利用できない学生の多くは、狭き門となる上に、有名大学の何れも学費が高額であるため、たとえ勉学に励んで合格したとしても、入学の時点、即ち、十代の若さで巨額の借金を負わされることとなります。高い学費がハードルとなって、入学志願を諦めざるを得ない若者も少なくないことでしょう。

 そして、この問題の先には、高額の学費や有償の奨学金制度等を含め、大学、否、教育とはどうあるべきか、という基本問題も見えてきます。何れにせよ、志願者が公平に評価され、真に学びたい人々が入学し、かつ、学問やテクノロジーの発展に貢献するようになれば、極少数のグローバリストの目指す‘中間層がいない世界’とは違った未来が訪れるのではないかと思うのです。

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アファーマティブ・アクションが偽善であるもう一つ理由

2023年07月03日 13時29分00秒 | 社会
 フランスの首都パリでは、先月末よりアルジェリア系移民2世の少年が警察官に射殺された出来事をきっかけとして、放火や略奪を伴う暴動が発生しています。この事件、2013年にアメリカのフロリダ州で起きたトレイボン・マーティン射殺事件に端を発したBLM運動とも状況が類似しており、リベラル系の過激な活動団体がサポートしているとする指摘もあります。その背後には、破壊と混乱を以て社会を変革しようとする‘危険思想’の影も伺えるのですが、事件の背景には、人種差別問題があることは否定のしようもありません。

 それでは、この人種差別問題、アファーマティブ・アクションをもって解決するのでしょうか。アメリカのアファーマティブ・アクションとは、1960年代に人種差別反対運動としてアメリカ社会を揺るがした公民権運動の成果の一つとして理解されがちです。公民権運動では、その名が示すように、アフリカにルーツを遡る黒人の人々が白人と同等の市民権を要求されました。道運が功を奏し、今日では、人種の違いに拘わらず、アメリカ市民は、参政権を含め、皆等しい内容の市民権を有しています。法の前の平等は実現したのですが、法的な平等では差別や格差は解消できないとして、結果の平等を求めたことから始まったのが、社会的に不利な立場にある人々に対して優先的に入学や就職の機会を与えるアファーマティブ・アクションです。

自由と平等との間の二律背反性と同様に、公民権運動とアファーマティブ・アクションとの間には本質的な相反性があります。とりわけ、数が限られており、参加者の間に競争・競合的な関係がある状況下では、後者が、優遇条件を持たない人々にとりまして不平等で不公平な制度となるのは既に前回の記事で述べたところです。法の前の平等に照らすならば、受験資格において全ての市民を平等に扱い、採点に際しても一切の偏向を排除すれば、その結果は、誰がみても人種差別なき‘公平な結果’なのです。つまり、選抜を要する競合・競争状態では、‘結果の平等’よりも‘結果の公平’が重要なのです。

かくして、アファーマティブ・アクションとは、全ての人々から支持されているわけでもなく、政策としての論理的正当性に疑いのある政策なのですが、もう一つ、問題点を挙げるとすれば、差別を受けてきたとされる特定の集団の中の一人あるいは少数を選んで優遇するというピックアップ式の政策手法です。この方法ですと、大学の合格者やポスト獲得者の数だけを見れば、確かに人種間に差別はないように見えます。しかしながら、その他の人々はどうなのでしょうか。

アファーマティブ・アクションが始まってからおよそ半世紀の月日が流れておりますが、上述したように、今日なおもアメリカではMLB運動が起きており、未だに人種差別問題が解消していないことを示しています。言い換えますと、この事実は、同政策には、当初に期待されたほどの効果がなかったことを示唆しているのです。むしろ、上述した理由により、優遇措置を受けることができない白人の人々の間には、下駄を履かせてもらえる黒人の人々に対する不満が鬱積してしまいます。一方の黒人の人々も、一部の人々にはチャンスが与えられますが、全体を見ますと貧困が解消されたり、生活や教育レベルが上るわけでもありません。居住地域や婚姻などについても白人の人々との融合が実現しているわけではないのです。逆説的に言えば、優遇措置を受けるためには、現状を維持した方が好都合と言うことにもなりかねないのです。

 実施後の政策評価の結果、効果が認められなければ中止した方が良いと言うことになるのですが、同制度は、結局は、リベラルな人々、否、世界権力による偽善的な人類コントロール装置の一つのようにも思えてきます。結果の平等を掲げて差別されてきたとされる人々の中から数人を選び出し、自らの配下に置いてしまう一方で(植民地支配の手法でもあった・・・)、同グループには一先ずは恩を売ります。その一方で、完全に差別が解消されてしまいますと、自らのコントロールの手段を失うことにもなりますので、双方の反目をもたらすような‘不公平性’を予め制度に組み込んでおくのです。そして、この仕組みは、黒人社会が抱えている貧困、犯罪、麻薬・・・といった問題を、黒人の人々が自らの手で自発的に解決する道をも塞いでしまいます。アファーマティブ・アクションとは、結局は、‘上から’与えられた解決策であり、権力に常に依存せざるを得ない状況にあるためにコミュニティーの内部にあって自力解決能力を育てる機会を失ってしまうのです。

 このように考えますと、フランスにあって、たとえアファーマティブ・アクション政策を導入したとしても、必ずしも解決に至るとは限らないように思えます。むしろ、世界権力の思惑通りに、社会的な分断が深まってしまうかもしれません。そして、マイノリティーとされるコミュニティーが自らが抱える問題に正面から向き合うためにも、一度、アファーマティブ・アクションを全廃してみるのも一つの試みなのではないかと思うのです。

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人種優遇政策の問題点とは-論理的誤り

2023年06月30日 10時51分35秒 | 社会
 今月6月29日、アメリカの連邦最高裁判所は、大学の入学選考に際して特定の人種を優遇するアファーマティブ・アクション政策を違憲とする判断を下しています。本日の記事では、何故、同政策が違憲とされたのか、あるいは、同政策は真に‘正しい’のか、という問題について、SDGsでも使用されている‘平等と公平の違いを説明する図’を用いて考えてみることとします。

 昨今、アファーマティブ・アクション政策は、平等(Equality)と公平(Equity)との違いを以て肯定される傾向にありました。そして、これを説明するために、ある絵が使われてきました。様々なバージョンがあるのですが、概ね、背丈の違う三人の子供達がスタジアムを囲う塀の外からスポーツを観戦しようとしている図として描かれています。同図が説明すると平等とは、3人が同じ高さの踏み台に乗るケースであり、各自の背丈の違いとは無関係に三者は平等に扱われます。ところが、同じ高さの台では、塀から頭を出してスポーツを観戦できるのは、一番背の高い子供と二番目の子供の二人だけです。背丈の足りない三番目の子供だけは、スポーツ観戦を楽しむことができないのです。

 ここで、平等ではなく、公平が登場してくることとなります。各自の乗る台の高さを背丈に合わせて調整すれば、全ての子供達がスポーツ観戦ができるようになるからです。つまり、同じ高さの台では塀に視界を塞がれてしまっている三番目の子供に対して、頭が塀の高さを越えるようにより高い台を提供してあげれば良いのです。

 同図が説明する公平性に基づけば、三人が揃ってスポーツ観戦ができる状態となったのですから、三人とも幸せです。三人の内の誰もが不利益を受けるわけではありませんので、多くの人々がこの図による説明に納得することでしょう。小さな子供に高い踏み台を用意するのは、おもいやりのある正しい行為であると・・・。即ち、アファーマティブ・アクションを含めて不利な立場にある人を優遇する政策は、皆が共に幸せを享受することができる正しい政策であるとする結論に達するのです。

 同図は、メディアなどを介して多くの人々が目にしているため、異議や異論を唱えようものなら、差別主義者のレッテルを貼られそうです。しかしながら、この図、一つの重大な見落としがあるように思えるのです。それは、現実にアファーマティブ・アクションが行なわれている場所は、絵の中にあるような皆が気楽に楽しんでスポーツ観戦ができるスタジアムではないという点です。

 平等と公平を区別するための作成された図では、子供達の関係は横並びであり、お互いの間に競争や競合関係はありません。塀の高さまで背丈が達していない小さな子供を特別により高い台に載せたとしても、他の二人には何らの影響もないのです。ところが、入学や就学等で導入されているアファーマティブ・アクションのケースにおいては、三者の関係は競争的なライバル関係です。一つ、あるいは、少数の合格者枠や数少ないポストを競っているからです。こうしたケースでは、特定の人を対象に特別措置を設けますと、競争条件が‘平等’ではなくなりますので、特別待遇を受けた特定の人のみが合格、あるいは、採用されるという‘不公平’が生じるのです。

 3人の間の競争関係を考慮すれば、同図においては、スタジアム内の観戦席に座れる人を一人選び出すシチュエーションとして描くべきこととなります。そして、アファーマティブ・アクションでは、不利な立場が考慮された三番目の子供のみが、唯一スタジアム内でゲームを観戦することができるのです。この結果、他の二人は、塀の外に置かれたままスタジアムに入ることはできません。この結末では、優遇条件を持たない故に排除された他の二人は、同制度を平等とも公平とも見なさないことでしょう。

 なお、定員数に制限のない各種の資格試験にアファーマティブ・アクションが採用される場合にも、他者に不利益を与える場合があります。塀の高さが専門職に必要とされる知識や能力を意味するならば、これらが不足しているにも拘わらず優遇措置を受けて専門職の資格を得た人の顧客や取引先等に実害が及ぶかもしれないからです。また、優遇条件を備えていない他の受験者にとりましては、優遇制度は平等でも公平でもないのは言うまでもありません。

 以上に述べてきましたように、当事者間の関係性や物事の性質の違いを無視した一面的で一方的な‘正しさの主張’には、論理的な誤りがあるように思えます。当事者の間の関係が非競争的であり、かつ、対象が誰にでも開放性のある状況下と、当事者間の関係が競争的であり、かつ、選抜や選考を要する閉鎖的な状況とでは、明らかな違いがあるからです。両者を同一視することはできないにも拘わらず、リベラリ派の人々は、両者を巧妙に混同することで、自らの都合のよい方向に平等原則を外す口実としているようにも見えるのです(偽善的な詭弁なのでは・・・)。仮に過去の奴隷制度や奴隷貿易に起因して不利益を被っている人々に対して何らかの政策的な措置を要するならば、誰もが不利益を受けない別の方法を考えるべきではないかと思うのです。

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世界経済フォーラムの世界戦略-ヤング・グローバル・リーダーズ

2023年03月31日 13時06分39秒 | 社会

 今日ほど、陰謀の存在を、愚か者の荒唐無稽な妄想として‘せせら笑う’ことでその存在を否定しようとする‘陰謀論’が批判に晒されている時代はないかもしれません。誰から見ても不自然な現象が続発する中、‘陰謀論’は世論操作のための心理操作の手段であるとする疑いが日に日に濃くなっています。とりわけ、地球温暖化問題のみならず、各国政府によるコロナ・ワクチン並びに昆虫食の推進が疑惑を深めるきっかけとなったのですが、陰謀を企む勢力―世界権力―のフロント組織として、常々、名を挙げられてきたのが世界経済フォーラム(ダボス会議)です。

 世界経済フォーラムは、1971年にドイツに生まれスイスで育った経済学者にしてエコノミストのクラウス・シュワブ氏によって設立されています(設立当初の名称はヨーロッパ・マネージメント・フォーラム(the European Management Forum))。同氏は、留学先の米ハーバード大学ケネディ・スクールにおいてかのヘンリー・キッシンジャー博士の教えを受けています。同留学は1960年後半のことですので、帰国から程ないダボス会議の設立に際しても、ユダヤ系にしてロックフェラー家とも知古のあるキッシンジャー博士の影響や指南を受けたことは容易に推測できます(キッシンジャー博士自身は1973年にニクソン政権において国務長官として政界入り・・・)。因みに、同氏の父親は、ナチスの原子爆弾開発に協力したとされるエッシャーウイス社に勤めていたそうです。

 かくして世界経済フォーラムには、その設立時からして、どこか不自然さがあります。何故ならば、世界規模の組織を一から創設するには、資金も人脈をも要しますので、当事無名であったクラウス・シュワブ氏一人の力では凡そ不可能であるからです。欧州委員会や欧州産業協会の後援があったとされるものの、ヨーロッパを越えてグローバル企業を束ねるには、金融・経済財閥勢力の後押しがあったとするのは合理的推測です(この点は、革命や戦争といった他の大規模な事件とも共通している・・・)。言い換えますと、同フォーラムの設立自体が、その背後にある‘本体’を隠しているという点において陰謀であったとも言えましょう。

 世界経済フォーラムは、しばらくの間に全世界のグローバル企業の親睦会といったイメージで捉えられてきました。実際に、今日に至るまで、同組織の運営を財政面から支えているのは、同フォーラムの選考委員会の審査を通過した1000社以上の会員企業からの寄付金です。ところが、同フォーラムの活動の範囲は経済に留まらず、やがて積極的に政治といった他の分野にも進出するようになります。その手段の一つが、同フォーラムの主催する年次総会に各国の政治家や国際機関のトップを招くというものでした。最盛期の年次総会は、各国の大統領や首相、中央銀行総裁、国連総長、NATOの事務総長などなど、これらの人物を全てコントロールすれば、全世界を支配できる思えるほどの顔ぶれとなったのです。

 そして、もう一つ、世界経済フォーラムは、全世界に自らの影響力を浸透させるための仕組みを設けています。それは、毎年一〇〇名ほどのヤング・グローバル・リーダーズを認定するというものです。これまでの認定者には、政治家ではウラジミール・プーチン大統領をはじめ、アンジェラ・メルケル元首相、カナダのトルドー首相、フィンランドのサナ・マリン首相などの名が見られます。

今年2023年には、高齢者集団自決発言で批判を浴びた成田悠輔氏も選ばれています。同氏の選定で日本国内でもヤング・グローバル・リーダーズの存在が注目されることとなったのですが、選ばれた人々を見ますと、同フォーラムの傾向が読み取れます。将来性を見込んだ政治家(同フォーラムにとっては利用価値・・・)のみならず、王族、投資家、ジャーナリスト、研究者、マスコミ人、アーティストなど、目標年となる2030年に向けて‘世界を変える’ための人材が選ばれています。中国人やアフリカ諸国の人々が多数含まれているのも、世界全体をコントロールするための戦略なのでしょう。

 なお、成田氏の選出は、炎上した発言が非人道的な内容であっただけに、日本国内では意外性をもって受け止められたのですが、「海上都市国家構想」の紹介にも見られた富裕層に忖度する同氏の日頃の主張からしますと、当然と言えば当然と言えるかもしれません。否、同氏こそ、マスコミにおける宣伝や番組への登用など、世界権力によって大事に育てられてきた世論誘導要員のインフルエンサーであったとも推測されます。

 以上から、世界経済フォーラムが、先ずもって自らの手足となって働きそうな政治家や有力者達を、比較的年齢が若い時から取り込んでいる様子が窺えます。新自由主義者かつ歴代政権のアドバイザーとして知られる竹中平蔵氏も同フォーラムの理事であり、日本国民よりも同フォーラムの目的達成を優先しているのでしょう。もっとも、世界経済フォーラムの手法は、自らの権威をもって有力者を年次総会に招待したり、青田刈りのように特別のポジションを与えて育てるといった権威主義的なものですので、人々の信頼を失った途端、その計画も狂わざるを得なくなるかもしれません。そして、同フォーラムによって選ばれた人々については、その発言の真の目的を見抜かなければならないように思うのです。

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コオロギ食は文化・文明の否定では?

2023年03月30日 10時19分26秒 | 社会
 昨今、地球温暖化やSDGsの流れもあって、コオロギ食をはじめとした昆虫食が全世界レベルで推進されるようになりました。日本国も例外ではなく、近未来の新食材として宣伝され、コオロギを原材料とした様々な商品も登場してきたのですが、昆虫食に対する国民の拒否反応は、推進側の予想を遥かに超えていたかもしれません。生理的な拒絶反応と言ってもよいくらいなのですが、安全性が保障されているわけでも、昆虫を食する習慣があるわけでもなかったからです。そして、もう一つ、国民の多くが昆虫食を不快に感じる理由として挙げられるのは、それが、食文化というものを完全に否定しているからではないかと思うのです。

 今日に至るまで、世界各地では、気候条件やその土地で採れる食材を生かした固有の食文化が発展してきていました。肥沃な農地に恵まれ農業大国であったフランスは美食の国として知られていますし、今日では、全世界の街角においてフランス料理店を見出すことができます。日本国でも、茶道から生まれた繊細な懐石料理から日常の素朴な家庭料理に至るまで、幅広い料理があります。各国・地域ともに、伝統に根ざした料理は人々の空腹を満たすのみならず、人生に楽しみをも与えてきたのです。しかも、しばしばお皿に端正に盛り付けられた料理は芸術の域にまで達しています。職人技がさえる食器、ダイニングの家具や調度品、マナーや作法、会話術なども合わせますと、食文化は、総合芸術と言っても過言ではないかもしれません。

 人類史を振り返れば、食文化は文明の証でもあります。農業の始まりは文明の始まりでもありました。各地の遺跡からは、必ずと言ってもよいほどに土器や陶器が発掘されています。特に古代文明の地では、食物を保存する壺や調理された食事を盛る器も、専門の職人の手によって大量に造られていた形跡が見られます。そして、それが生活必需品であった故に、農業と共に他の多種多様な産業も発展をみたのです。例えば、窯業が盛んになるにつれ、人々は、自らの好みに合った食器を選んで購入することができるようになったのです(室内の装飾品として購入することも・・・)。食に関連する産業の裾野は極めて広く、第一次産業である農業のみならず、第二次産業に属する窯業や金属加工業、その他食料品販売や飲食業等の各種サービス業も合わせますと、経済全体に占める食関連の産業の比率は決して小さくはありません。

 しかも、食とは、人類の物質的な豊かさのみならず、心の発展とも関連しています。キリスト教の教えでは、「人はパンのみに生きるにあらず」とされますが(この言葉は、他者に対する慈しみや道徳心を軽んじて、自己の物欲のみに従って生きる人を戒めるための垂訓であったのでは・・・)、最後の晩餐が示すように、人々が食事を共にすることには、精神的な意味が込められていることもありました。今日でも、記念行事や冠婚葬祭などに際して、お料理やお酒が振る舞われるのも、同じ空間と時間を食事をしながら共に過ごすことが、人々の間の絆や繋がりを深める媒介の役割を果たすからなのでしょう。豊かな生活とはその文化的な側面を含めた食の充実でもあり、食とは、生活水準や文化水準のバロメーターでもあるとも言えましょう。

 一方、目下、近未来の食材として注目されている昆虫食は、主として(1)二酸化炭素を排出する牛、豚、鶏といったタンパク質源に代わる新たな食材、並びに、(2)地球温暖化の影響により飢饉が発生した際のエネルギー源として期待されています。(1)のように昆虫が新たなタンパク質源となりますと、これまで親しんできたあらゆるお肉料理の品々が食卓から消えて、お皿の上には調理された昆虫が載せられることとなりましょう(コオロギのフライ、天ぷら、唐揚げ、煮物・・・の何れであっても、お箸が進むとは思えない・・・)。粉末状で供されるならば、スープ皿に盛られた流動食の状態かもしれません。それとも、スナックやパンをお皿からつまむ形となるのでしょうか。お料理の素材が昆虫のみとなりますと、殆どの飲食店はお店をたたまなければならなくなるかもしれません(もちろん、畜産業も壊滅してしまう・・・)。これまで各地で育まれてきた食文化は消え去り、食事の楽しみも失われてしまうのです。

 また、(2)の飢饉対策としての昆虫食の未来にも、悲惨な状況が予測されます。食事とは、まさしく生命を維持するためにのみ存在することとなるからです。今日、昆虫食は、家畜の飼料や養殖魚の餌としても利用されています。言い換えますと、人類は、‘食事’ではなく‘餌’を与えられる家畜のような存在に貶められてしまうのです。毎日毎食、昆虫を餌として食べさせられるのでは、誰もが木の実や果物に手を伸ばし、自然の恵みに預かることができた原始時代の方が、まだ‘まし’であるかもしれません。

 以上に述べてきましたように、昆虫食の普及には、多様で多彩な食文化の消滅のみならず、文明をも破壊しかねないリスクが潜んでいるように思えます。また、昆虫食は新たなビジネスを生み出すとして期待する向きもありますが、失われる産業やビジネスの方が遥かに多いのではないでしょうか(経済の急速な縮小・・・)。ダボス会議に象徴される世界権力の指令に従う義務はどこにもないのですから、日本国政府を含め、各国政府は、昆虫食を推進するよりも、より人類に相応しい豊かで安全な食を目指すべきではないかと思うのです。

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高齢者集団自決論は若者をも絶望させる

2023年03月06日 10時55分48秒 | 社会
 内外に波紋を広げることとなった成田悠輔氏の高齢者集団自決論は、表向きは、若者層の代表というポジションからの発言です。自らを若者層のオピニオンリーダーを任じているのでしょうが、同氏の真の姿は、頼りになる若者の味方なのでしょうか。本当のところは、真逆である可能性も否定はできないように思えます。

 成田氏の発言が若者層の一般的な意見を集約したものであるならば、先ずもって憤慨すべきや若者層です。何故ならば、若者層とは、高齢者に集団自決を勧めるほど非情で利己的な存在であることを意味してしまうからです。高齢者の‘集団自決’によって世代交代が進み、若者層が世の中を動かす時代が仮に到来したとすれば、それは、労働能力を失って‘不要となった人々’を抹殺する社会となります。薄ら寒い光景が思い浮かぶのですが、高齢者が存在する社会の方が、余程、人を大切にするやさしい社会であると言えましょう(因みに、SFなどで描かれている未来都市のイメージ図では、高齢者の姿が見えないような・・・)。

 それとも、高齢者集団自決論は、オピニオンリーダーとして若者を同方向に扇動するために提唱されたのでしょか。‘君たちは、高齢者の犠牲になっている。高齢者がいなくなれば、君たちは、自分の思うとおりに豊かに暮らすことができる’として。成田氏としては、多くの若者が自らの意見に賛意を示すものと期待していたかもしれません。しかしながら、この提案は、若者層から涙ながらの抵抗を受けるかもしれません。何故ならば、日本人の多くには、祖父母や父母にかわいがられた経験や大切な思い出があるからです。言い換えますと、同発言は、‘君たちの祖父母や父母には消えてもらう’と言っているに等しいのです。同氏は、複雑な家庭環境から親子愛を知らずして育ったともされ、自らよりも上の世代に対する愛情や敬意はほとんどないのでしょう(むしろ、‘敵意’を抱いているのかもしれない・・・)。しかしながら、他の若者も自らと同じ感覚であると考えていたとすれば、それは大いなる誤算のように思えます。

 あるいは、‘自分たちは、成田氏とは違う!’として反論する若者が現れていないところからしますと、若者層は、本音ではやはり高齢者集団自決論を支持しているのでしょうか。同氏への反論の多くは、集団自決を薦められた高齢者からです。もっとも、若年層不遇説に基づけば、若者層にあって批判論はサイレント・マジョリティーであり、声を上げることができないのかもしれません。高齢者集団自決という極論、かつ、暴論が若者層からの要望と見なされる不条理やマスコミによる世論操作を嘆いているのは、同氏以外の一般の若者たちかもしれないのです。

 そして、もう一つ指摘し得るとすれば、高齢者集団自決論は、若者層を絶望させてしまう可能性です。同氏は、高齢者の集団自決を少子高齢化対策としていうよりも、恒久的な社会システムとして構想しているようです。となりますと、若者達は、‘75歳’ともされる‘死亡年齢’までしか生きられず(健康年齢と一致?)、同年齢に達すれば、否が応でも安楽死のための施設に自ら赴くか、強制的に連れて行かれます。‘死亡年齢’が一律に設定されるのであれば、安楽死とは名ばかりで、国家による強制死ということになりましょう。死に臨む国民の精神的苦痛は計り知れません。

 昨今まで人生百年の時代と謳われてきましたが、労働人口の減少により、高齢者も労働力として期待されている時代ですので、75歳まで一生働き続けなければならない人も現れることでしょう(現在不遇な若者達の未来はもっと不遇)。若者は、集団自決論によって、見たくもないディストピアを見せられているのです。未来社会がディストピアであれば、子供を産み育てようとする若者も減少することでしょう。先が見えてしまうのですから。

 こうした問題の他にも、国民年金や厚生年金が不要になるといった制度上の疑問点もありますが、若者層こそ、マスメディアに流されることなく、高齢者集団自決論について冷静かつ客観的な議論を試みるべきように思えます(現在年金を払っている若者層は、将来、年金を受け取る前に、安楽死?)。同問題には、少子高齢化のみならず、グローバルな金融・経済勢力の視点、マスコミの報道姿勢、学歴の悪しき権威化、政策と倫理・道徳、そして、未来社会のヴィジョンなど、ありとあらゆる問題が潜んでいるからです。そして、若者層も高齢者も共に(中年層も含めた全ての層という意味・・)、国民の一人一人が安心して自らの一生を生き切ることができる仕組みについて議論し、アイディアを出し合うとき、他の層を犠牲にすることなく、人道に叶った善き未来が開かれるのではないかと思うのです。

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政府による‘タブー化’の問題

2023年02月28日 11時12分06秒 | 社会
 現代という時代は、情報化時代とも称されています。インターネットやIT等の普及により、人々の活動空間や生活空間はデジタル情報で溢れています。情報量が爆発的に増え、人々が様々な情報を入手しやすくなる一方で、昨今、新たな問題が持ち上がることともなりました。

 大手メディアの情報とネット情報が異なる場合でも、それが、両者とも民間の範囲に留まっているのであれば、たとえ内容が真逆であったとしても、それぞれ根拠や証拠を示して自らの正しさを主張することができます。大手側が有利ではあるのでしょうが、それでも、多くの人々が自発的に検証作業に参加したことで、虚実が判明することもあります。しかしながら、政府といった権力や権威が関わりますと、どうでしょうか。これらによる介入や圧力がありますと、公開性や客観的な検証性は著しく損なわれます。ここに、情報の問題は、情報統制という政治問題へと行き着くことになります。

 古今東西を問わず、為政者の多くは、情報統制や管理を支配の手段としてきました。権力や権威を保持するためには、国民に対して自らに関するマイナス情報を伏せておく必要があるからです。何れの国であれ、国民からの批判や民心の離反、そして忠誠心の消滅は、為政者の地位を危うくするのです。このため、情報統制が効果的な支配の手段となるには、国民の心理にまで及ぶ強い圧迫をかける必要がありました。つまり、為政者への批判を、社会全体を覆うタブーとしてしまえば、権力や権威は安泰であったのです。悪しき為政者であればあるほど、国民の間に自己規制の空気を醸し出すタブー化を渇望したことでしょう。

一方、今日の民主主義体制の国家では、言論や出版等を含む表現の自由が保障されていますので、原則としては、どのような情報であっても一先ずは公開することができます。しかしながら、多かれ少なかれ、タブーなるものが存在する国は少なくありません。タブーの問題は、アメリカでは、ポリティカル・コレクトネスとして表出していますし、日本国でも、タブーとして幾つかの‘カーテン’、例えば、‘菊のカーテン’、‘鶴のカーテン’、‘桜のカーテン’等があるとされています。いずれのカーテンもが、政治性を帯びたタブーです。

こうした定番の‘タブー’のみならず、昨今の状況を見ておりますと、政府によるタブー化のケースが相次いでおり、国民を誤った判断に導いている事例が後を絶たないように思われます。特に、ワクチン問題はその最たる事例であり、極めて強い政治的圧力が社会全体にかかったことは、多くの人々が感じたことではなかったかと思います。政府のみならず、国民全体に同調圧力が働くように、マスメディアのみならず新興宗教団体を含むあらゆる下部組織が総動員された観もありました。ワクチンリスクについては、政府からの嫌がらせや周囲からのハラスメントにより、初期段階で認識していた専門家でさえ口に出すことが難しく、たとえ指摘したとしても信じるに足りない陰謀論として片付けられてしまう状況が続いてきたのです。政府は、リスク情報を隠蔽するのみならず、リスクの指摘をタブー化することにより、国民全体に思考停止の魔術をかけようとしたのでしょう。恐怖心を利用するのですから、タブー化とは、恐怖政治の手段の一つとも言えます。

現代のタブーなるものも‘政府主導’あるいは‘官製’であるならば、そのタブーは、今も昔と同じく、権力や権威のマイナス情報、即ち、悪しき面を隠すために造られたのでしょう(悪事の隠れ蓑・・・)。マイナス情報が存在しなければ、そもそもタブーを設ける必要などないのですから。このような政治的なタブーは、定番のものであれ、政策的な意図によるものであれ、ないほうが善いに決まっております。否、ワクチン問題のように、政府によるタブー化こそ、無辜の国民の多くに被害が及ぶ事態を招いていた元凶とも言えましょう。

情報は、人々が判断や評価を行なうに際しての基礎的な材料であり、かつ、民主主義国家では議論の共通の土台ともなります。情報の重要性に鑑みればこそ、できる限り事実に即した正確なものであるべきですし、とりわけ公的な情報は原則として全て隠さずに公開されるべきです。国民をリスクに晒すタブー化が二度と起きないようにするためには、法律によって政府に対する情報公開の義務づけを強化すると共に、現状にあっても、政府によるリスク情報の隠蔽は、政府の怠慢行為に対する行政訴訟として裁判所に提訴するという方法もあるように思うのです。

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善い利他主義と悪い利他主義-ジャック・アタリ氏の利他主義論への懐疑

2023年02月27日 11時37分22秒 | 社会
フランスの著名知識人であるジャック・アタリ氏は、かねてより未来の人類社会に向けた目標として利他主義を提唱しております。利己主義から利他主義への転換こそ、来るべき未来のあるべき人類社会の姿であると訴えているのです。しかしながら、利他主義の薦めには、細心の注意を払うべきかもしれません。

 利他主義という言葉を耳にして、不快に感じる人は殆どいないことでしょう。この言葉は、自己の利益のためには他者の利益を犠牲にしても厭わない利己主義の反対語として常々用いられており、利己主義=悪、利他主義=善という認識が凡そ固定概念として定着しています。このため、アタリ氏が利他主義を唱える時、それは、善意からの発言と凡そ受けとめられることでしょう。

 利他主義の提唱は、ここ数年来の同氏の持論であったようなのですが、昨今の同氏の発言を聞いておりますと、利他主義も、その使いようによりましては、他害的な結果をもたらすように思えてきました。否、政治的に見ますと、全体主義に利用されてしまうリスクも見えてくるのです。何故、このように考えるに至ったかと申しますと、2月14日付けでAERAdot.で掲載された「“世界屈指の知識人”ジャック・アタリが指摘するパンデミックの原因と、未来のキーワード「利他主義」と「命の経済」」と題する記事を目にしたからです。

 同記事において、アタリ氏、地球温暖化問題やコロナワクチン接種を引き合いに出しながら、利他主義に言及しています。新型コロナウイルスによるパンデミックが発生した時点で「今は利己主義と利他主義の戦いだ」という記事を執筆したとする同氏は、他者のためにワクチンを接種する行為を利他主義が広く理解されてきた証しとしています。「ワクチンを接種することで他人を保護することに、私たちが関心を持っていること、つまり利他主義の重要性を理解していることが示されました。」として。

 一読する限りでは問題はないように思えるのですが、よく読みますと、この発言には、利他主義のレトリックが巧妙に隠されているように思えます。何故ならば、他者のためにワクチンを接種することが利他主義のあるべき姿であるならば、全員がワクチンを接種すべきであり、接種しない人は、利己的な人、即ち、悪人と言うことになるからです。この論法は、同調圧力の最強の根拠となり得ます。そして、ここに重大な問題が持ち上がるように思えます。

 ワクチン接種が誰に対しても無害であり、利益となるならば、何らの問題もないのでしょう。例えば、‘殺人をしてはいけない’、‘窃盗をしてはいけない’、‘他害的な嘘をついてはいけない’といった行動規範であれば、全員がこの規範を誠実かつ厳格に遵守すれば社会の安全性は格段に高まり、皆が安心して生きる社会が実現します。ところが、全てが有害行為の禁止のように全員に利益が及ぶケースばかりではありません。利他的な行為として推奨された行為において、自害性や他害性が含まれる場合には、利他的行為は、いとも簡単に自害行為や他害行為へと反転してしまうのです。現実に、人口削減計画説が信憑性を帯びるほど、コロナワクチンによる健康被害は、日本国内を含めて先進国を中心に世界レベルで広がっています。利他的精神からワクチンを接種に協力した人々がワクチンの犠牲となりながらも、‘全体を救うためには致し方ない犠牲’と嘯く冷たい声も聞かれるのです。

 また、アタリ氏は、「利己的な利他主義」とも述べており、他者の利益に資する行為は自らを護るための行為でもあるとする見解も示しています。「情けは人のためならず」という諺もあるように、善行を説く古今東西の格言や道徳律にも通じるこの見解は、確かに利他主義の利己な一面を説明しています。しかしながら、この見解も、無害な行為のみに当てはまります。自害性や他害性が含まれるケースでは、‘自分のため’にも‘人のため’にもならないかもしれないのです(ワクチン接種により、他者に対するシェディングも起きるとする指摘も・・・)。

 利他主義の名の下で善意でワクチンを接種した人々は、たとえ被害を被ったとしても自己責任となりますし、同調圧力をかけた周囲の人々も、リスクについて知らない状態であれば、利己的行為を戒めるために接種を薦めたことになります。何れもが、自覚のないままに、被害者あるいは加害者となってしまうのです。

被害者も加害者も善意であり、責任の所在は曖昧になりがちなのですが、実のところ、責任の所在を明らかにすることは、それ程、難しいことではありません。こうしたケースでは、全責任は、政府や世界権力をはじめ、コロナワクチンの接種を利他的行為=絶対善として国民に対して宣伝した人々にあると言わざるを得ないからです(二重思考の手法としての価値の先取りであれば、ワクチン接種=利他的行為=善という構図を最初に作ってしまう・・・)。

 そして、仮に、利他主義をもってワクチン接種を薦めた人々が、同ワクチンのリスクを予め知っていたとすれば、利他主義とは、接種を薦めた側の究極の利己主義と言うことになりましょう。自らの目的を達成するためには、‘他者’であれば全員が被害を被っても構わないと考えたことになるのですから(高齢者集団自決発言にも同様の思考が・・・)。利他的行為を自分自身ではなく他者に薦める人は、恐るべき自己中心主義者かもしれません。

この利他主義の狡猾な悪用の側面は、ワクチン接種のみならず、地球温暖化問題などにも共通しているのかもしれません。そして、全体主義体制とは、まさしく利他主義の美名の元で国民を最低のレベルまで引き下げ、自己を捨てさせた上で画一化する体制とする見方も成り立つように思えます。利他主義には、それが利己主義者に悪用されますと合法的な国民抹殺や弾圧の口実となりかねないリスクがあるのですから、善い利己主義と悪い利己主義を賢く見定める必要があるように思うのです。

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