花熟里(けじゅくり)の静かな日々

脳出血の後遺症で左半身麻痺。日々目する美しい自然、ちょっと気になること、健康管理などを書いてみます。

「浅羽佐喜太郎とファン・ボイ・チャウ(ベトナム)の交流物語」

2013年10月20日 14時47分48秒 | ちょっと気になること
日本ベトナム国交樹立40周年を記念して、9月29日にベトナムの独立運動家ファン・ボイ・チャウ(潘佩珠)と彼を支援した小田原(旧前羽村)の開業医・浅羽佐喜太郎の交流を描いたドラマがBS TBSで“愛しき百年の友へ”が放送されました。(同日ベトナムテレビジョン1 (VTV1)でも放映)

TVドラマは、ファン・ボイ・チャウが東浅羽村民の協力を得て、1918年(大正7年)に浅羽佐喜太郎の生地である静岡県袋井市(旧東浅羽村)の常林寺に建てた、“浅羽佐喜太郎公紀念碑石碑”の意義を探る展開で進められます。 この“紀念石碑”には、このような意味の文字が刻まれています。

『われらは国難のため扶桑(日本)に亡命した。公は我らの志を憐れんで無償で援助して下さった。思うに古今にたぐいなき義侠のお方である。ああ今や公はいない。蒼茫たる天を仰ぎ海をみつめて、われらの気持ちを、どのように、誰に、訴えたらいいのか。ここにその情を石に刻む。豪空タリ古今、義ハ中外ヲ蓋ウ。公ハ施スコト天ノ如ク、我ハ受クルコト海ノ如シ。我ガ志イマダ成ラズ、公ハ我ヲ待タズ。悠々タル哉公ノ心ハ、ソレ億万年。』 
大正七年三月 越南光復会同人 (立教大学教授 後藤均平氏 訳)

“浅羽佐喜太郎公紀念碑石碑”のある静岡県袋井市とファン・ボイ・チャウの墓のあるベトナム・フエ市とは、相互に様々な交流が行われているようです。
・2003年(平成16年)7月、記念碑建立85 周年記念
 浅羽佐喜太郎公紀念碑建立85周年記念式が常林寺で行われ、ベトナムから記念碑を  建てたファン・ボイ・チャウの孫となるファン・ティエ・コ氏夫妻が出席、浅羽佐喜  太郎の孫である浅羽和子氏と100年を経て対面。
・2004 年(平成17年)フエ記念館へ訪問団
・2005年(平成18年)東遊運動100 周年行事出席
・2008年(平成21年)ベトナムフェスティバル出展
・2009年(平成22年)ベトナム留学生ショートステイ事業開始。
・2010.年(平成23年)ベトナムでのファン・ボイ・チャウ没70 年記念行事をベトナムと 共同開催、即ち、袋井市の代表団がベトナムを訪問しファンボイチャウ像の隣に記念  碑を贈呈。
・2012年(平成24年)袋井副市長をはじめ経済界、袋井市国際交流会、袋井市文化団体か  ら65名がフエ市を訪問。

袋井市では、2013年(平成25年)9月より浅羽佐喜太郎の志を受け継ごうと、市民の募金でベトナム・フエ市近郊の山岳地帯に小学校を建設する「袋井市ワンコイン・スクールプロジェクト」が始められています。
また、袋井市は米国オレゴン州ヒルズボロ市と1988年(昭和63年)から姉妹都市提携を結んで国際交流を行っています。フエ市始めベトナムとは浅羽ベトナム会など民間中心の交流で、袋井市は民間の取り組みをバックアップする体勢を取っているようです。 姉妹都市にする予定はないものでしょうか?

TVドラマでは、ファン・ボイ・チャウと浅羽佐喜太郎との交流を描いていますが、ファンの独立運動、その後のホー・チ・ミンが独立を宣言するまでの凡その経過は通りです。

ファン・ボイ・チャウは、グエン(阮)朝王族のクオン・デ(彊柢:阮朝の創始者ザーロン帝(嘉隆帝)の直系6代目)を盟主として1904年(明治37年)「維新会」を創設、反仏運動を始めますが、仏の弾圧で1905年(明治38年)初め日本へ兵器を求めるため、維新会のファン・チュー・チン(潘周)らとともにベトナムを密出国し横浜に上陸します。横浜には中国・清における1898年(明治31年)の戊戌の政変後に日本へ亡命した梁啓超が居て、ふたりは漢字の筆談をします。著書『越南亡国史』執筆のサポートをしたり、犬養毅、大隈重信、柏原文太郎などをファン・ボイ・チャウに紹介します。
犬飼らは、日本政府がベトナム革命闘争の為に武器援助をすることは無く、それより革命の為の人材養成が先決であることや、運動の象徴であるベトナム王族のクォン・デ候を早く日本に迎えるよう促します。

(ドラマでは浅羽佐喜太郎の住む小田原の海岸に漂着し、漢字文化圏で育ったファンと佐喜太郎は“漢字で筆談”し、ファンが反仏独立運動のために武器を欲していることが判ると、ファンを大隈重信や犬養毅に紹介します。両者から兵器で以って独立運動をおこすのではなくて、「独立運動を担う人材を育成する」ことで以って独立運動は成功し得る、と説得した、という設定になっています)

この後、ファン・ボイ・チャウはベトナムの青年を日本に留学させて近代文明と富国強兵政策を学ばせるという「東遊(ドンズー)運動」をおこします。 即ち、ベトナム青年達を啓蒙するために「ベトナム亡国史」、「遊学を勧むる文」、「海外血書」などを書きベトナムに送り、これを読んだベトナム青年達が日本留学してきます。最盛期の1907~1908年には約200名のベトナムの青年が日本へ留学しました。
1907年(明治40年)に日仏協約が締結されたのに伴い、仏政府は日本政府にベトナム人留学生を国外追放するよう圧力をかけたので、1908年(明治41年)ベトナム人留学生に国外退去命令を出します。

退去命令後も日本に残った留学生の窮状を見て、ファン・ボイ・チャウは以前行き倒れになった同志の阮泰抜を助けてくれ、留学生が学んだ東京同文書院への入学手続きや学費を支援してくれた浅羽佐喜太郎に支援を要請すると、佐喜太郎から1700円という大金が送られてきます。 留学生が日本を離れ、ファン・ボイ・チャウは1909年(明治42年)3月、クオン・デ候も11月に日本を離れます。  留学生始め彼らの帰国にあたって、先ほどの浅羽佐喜太郎のほかにも、犬養毅、柏原文太郎からも多額の援助がありました。

ファン・ボイ・チャウは、日本を出国してからは、中国、ベトナム、タイに潜伏して独立運動を行いますが、佐喜太郎の死を知り、1917年(大正6年)に日本に密入国し、先ほどの“紀念碑”を建立します。 1924年(大正13年)には、ソ連の工作員ボロディンの通訳として広東に派遣されてきていた、グエン・アイ・コック(後のホー・チ・ミン)と会談しますが、グエン朝の王族、クオン・デ侯を担いで立憲君主をもくろむファン・ボイ・チャウに対し、共産主義共和国を目指すホー・チ・ミンは革命運動で一致することはありませんでした。

ファン・ボイ・チャウは中国でフランス秘密警察に捕らえられ、終身刑に処せられ、1925年(大正14年)フエの自宅軟禁に移されたまま、1940年(昭和15年)日本軍の北部仏印進駐直後に息を引き取ります。フエにはファン・ボイ・チャウの墓と記念館があります。1945年(昭和20年)日本が無条件降伏すると、ホー・チ・ミンが独立宣言を発しベトナム民主共和国を樹立、初代主席に就任します。その後、フランスとのインドシナ戦争勃発、アメリカとのベトナム戦争を経て1976年ベトナム社会主義共和国が樹立されます。

なお、クオン・デ侯は日本出発後、上海経由香港に向かい、欧州などに逃避しますが、第一次大戦が勃発すると再び1915年(大正4年)に日本に再入国し、1951年(昭和26年)東京で死去するまで、ベトナムに帰国することはありませんでした。
ところで、日本には、ベトナムのグエン朝(クオン・デ侯)に限らず、大韓帝国の李朝(李氏)、中国清朝(愛新覚羅氏)の各末裔が住んでいました。なんとすばらしい国でしょうか。

このブログで、地元の伝統を生かした道徳教育の必要性を記載しました(2013年3月12日:「旧藩時代から受け継がれている精神を基本とした道徳教育を大事に!」)。この中で、「アジアに尽力した日本人」として、ベトナムでは浅羽佐喜太郎の名を挙げました。袋井市の小中学校では、郷土の偉人「浅羽佐喜太郎に学ぼう」として道徳教材を作成して授業を実施しています。非常に心強く思います。 中国や韓国からの容赦ない誹謗を受け続けているので多くの日本人が自虐的になっている今、今回の浅羽佐喜太郎に続き、アジアのために尽くした日本人の足跡をTVなどでもっと取り上げてもらいたいと切に願っています。
・小学5~6年用;道徳教材「感謝の記念碑~医は仁術なり~」
・中学1~3年用:道徳教材「ベトナムと日本の架け橋に」

「旧藩時代から受け継がれている精神を基本とした道徳教育を大事に!」(2013年3月12日)
http://blog.goo.ne.jp/kira2bapak/e/14276edb6946a902ce40718e5e74bff9
「アジアに尽力した日本人」
<ベチナム>
 浅羽佐喜太郎
<台湾>
 鳥居 信平
 八田 興一
 新渡戸稲造
 西郷菊次郎
 広枝音右衛門
 森川清治郎
 明石元二郎
 後藤 新平
 児玉源太郎
<インドネシア>
 市来 龍夫
 吉住留五郎
 三浦  襄
<タイ>
 政尾 藤吉
 安井 てつ
<マレーシア>
 森  敬湖
<フィリピン>
 シスター海野
<韓国>
 望月 カズ
 田内千鶴子
 浅川 巧
 水崎林太郎
 穂積真六郎
<中国>
 遠山 正瑛

(2013年10月20日 花熟里)

コメント
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