上野・東京国立博物館で開催中の「「孫文と梅屋:100年前の中国と日本」展(7月26日~
9月4日)を見に行ってきました。
キャッチフレーズが、“誰モ見テイナイ写真”というだけあって、写真中心の展示でし
た。入場すると、「北京城写真」(小川一真)が目に入り、北京城(紫禁城)のスケール
の大きさにびっくりし、よくぞ撮影したものと感嘆します。 あとは、孫文と梅屋庄吉と
の関係を示した遺品と「梅屋庄吉アルバム」(小坂文乃氏提供)、『亜東印画輯』(中国
の写真)、幕末・明治の日本の写真、「万国写真帖」(内田正雄)、「壬申検査関係写
真」(横山松三郎)、最後に、『万国実体写真』(ステレオ写真)など、いずれも興味深
い写真が展示されていました。
(東京国立博物館のHPより)
『本展は、孫文が中心的な役割を果たした辛亥革命(1911)から100年の節目にあたり、孫
文と梅屋庄吉、そして彼らと密接に関わった人々やゆかりの地を当時の生の資料によって
ご覧いただこうとするものです。
展示の中核となるのは、梅屋庄吉の曾孫にあたる小坂文乃氏の手元で大切に保管されてき
たアルバム及び関連遺品と、東京国立博物館や長崎大学などが所蔵する当時の稀少な写真
約260点。浅草、長崎、上海、パリ、ニューヨークなど、まるで100年時代をさかのぼった
かのように、世界の情景をお楽しみいただけます』
(展示会入り口付近)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/71/5623960ee99bdd2e819518d4a10080dc.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/d3/85da205bfdb7d67b95a1c636f120de69.jpg)
孫文については、ほとんどの方が知っていると思いますが、梅屋庄吉とはだれ?という方
も多いのではないでしょうか。・
1911年10月10日、長江中流の武昌での武装蜂起が発端となり、中国各地に反清朝の運動が
広がり、翌12年1月に中華民国の建国、2月に宣統帝退位による清朝の滅亡になりました
(いわゆる辛亥革命)。この革命の中心人物が孫文であり、孫文の幾たびの革命を財政面
で支援し、精神的に支えたのが、日本人 梅屋庄吉 でした。
1895年3月に香港で運命的な出会いをした両者は、中国変革への同じ志を持っていること
を確認し、盟約を結びます。
『君は兵をあげたまえ。我は財を挙げて支援す』という梅屋の言葉が盟約を端的に示して
います。
即ち、庄吉は、財産をなげうって、革命運動の武器・弾薬の調達、機関誌の発行資金、革
命に共鳴し参加する志士への援助や留守宅の世話、医療援助隊の派遣、飛行場建設・飛行
機の調達、孫文の外国への脱出費用、日本でのかくまい、等々を誠心誠意行っています。
孫文を支援した日本人は、犬養毅、平山周、菅野長知、寺尾亨、頭山満、久原房之助、犬
塚信太郎、山田良政、山田純三郎兄弟、宮崎弥蔵、宮崎寅蔵(滔天)兄弟、菊池良士、萱
野長友、等々多くの錚々たる人物が挙げられますが、孫文の革命を初期から支え、又、孫
文と宋慶齢との結婚実現に奔走し、孫文夫婦と梅屋夫婦は、“義兄弟・義姉妹の杯”を交
わし、さらに、披露宴も梅屋邸で行ったほどの信頼の厚かった梅屋庄吉の名前は、孫文や
国民党の文書にはほとんど出てこないそうです。 このあたりの事情は、
『ワレ中国革命ニ関シテ成セルハ 孫文トノ盟約ニテ成セルナリ。コレニ関係スル日記、
手紙ナド一切口外シテハナラナイ』
とノートに残していることで、うなづけます。
(中国社会では、義兄弟の杯を交わすというのは、親族に匹敵する関係の証しとのこと)
庄吉は孫文のために、私財をなげうって支援を行いながら、見返りを全く求めなかったの
です。庄吉のひ孫である小坂文乃氏はこうした庄吉を評して「私は思う。庄吉は孫文を援
助していたのではなく、一緒に革命をやっていたのだと。革命という舞台があり、孫文が
主役であるならば、庄吉は資金やスタッフを調達して実現に導く役割を担うプデューサー
であったのだと。」
(小坂文乃著「革命をプロデュースした日本人より」
なお、蛇足ながら、
○蒋介石は、当時孫文が住んでしていた梅屋邸で、恐らく同じ1915年に、宋慶齢の妹の
宋美齢と結婚しているとも言われています。
又、小坂文乃氏の上記書物によれば、梅屋庄吉は、多くのみなし児や薄幸な子供たちを
引き取って育てることもしており、たとえば、台湾・国民軍の将軍になった蒋緯国は、
孫文の一等書記官を勤めた 戴李陶と日本人女性(重松金子)との間に生れた子供で、
梅屋庄吉夫妻が戴李陶に頼まれて養育し、成長して蒋介石の養子(次男、長男は台湾・
第2代総統の蒋経国)になったとのことです。
○宋家の三姉妹について、「一人は金を愛し、一人は権力を愛し、一人は中国を愛した」
と評されています。
*「金を愛した」と言われる長女靄齢は,孔子の子孫を称し、金融で巨富をなした山西省
の富豪の息子、孔祥熙の妻となった。靄齢は金銭的な抜け目のなさで悪名高い。
*「中国を愛した」とされる次女慶齢は、孫文の伴侶となった。慶齢は、夫・孫文の
理想に忠実に生き抜いた。彼女は、後に、毛沢東の人民共和国の副主席となった。
*「権力を愛した」と言われる三女美齢は、革命指導者として頭角を現し権力を握った蒋
介石と結婚した。美齢は歴史上最も有名で最も権力を握った女性の一人となった。
(小川祐子 『激動の中国を生きぬいた三姉妹』)
(展示会の様子)
展示会場内は写真撮影禁止ですので、“次のアドレス”をクリックしてください。
http://www.museum-cafe.com/report/5559.html
<梅屋庄吉略歴>
1868年11月 :長崎で本田松五郎の子として出生。遠縁の梅屋吉五郎の養子に出さ
れる。 梅屋は「梅屋商店」を経営、貿易会社と精米所を営む。
1893年 :庄吉はコメ相場に手を出し失敗、中国アモイ(廈門)、シンガポール、
香港に脱出。
1894年 :香港で写真館「梅屋照相館」を経営、成功する。
1895年3月 :梅屋庄吉と孫文が英国人医師ジェームズ・カントリーの紹介で出会い、
2人は盟約を交わす(孫文29歳、庄吉27歳)。
1904年 :シンガポールで映画会社を起こし、巨大な資産を築く。
1905年 :日本帰国。映画会社「Mパテー商会」を設立。
1911年10月 :白瀬矗中尉の南極探検にMパティー商会のカメラマンを同行させる。
1911年10月 :武昌蜂起成功の知らせを受けて、庄吉は映画撮影技師を中国に派遣
し、革命の様子をフィルムに収める。(これが唯一の記録映像とな
っている)
1912年9月 :「日本活動写真株式会社」(日活の前身)を創設。
1913年2月 :孫文来日、武昌蜂起のフィルムを孫文に贈呈。
1915年11月 :庄吉夫妻の仲人で孫文と宋慶齢が挙式、披露宴挙行(梅屋邸)。
1925年3月 :孫文死去(58歳)。
1929年3月 :庄吉は孫文の銅像4基を製作し、内一基を南京中央軍官学校に寄贈。
1934年11月 :庄吉死去(65歳)
<孫文略歴>
1866年11月 :広東省高山県(現中山市)で出生・
1878年5月 :ハワイの兄の元に行く。
1885年4月 :帰国
1894年11月 :ハワイで興中会本部を立ち上げる。
1895年10月 :第一次広州起義に失敗。
1895年12月 :孫文は横浜からハワイに亡命
1986年10月 :ロンドンで清国公使館に幽閉される。釈放後横浜に来訪。
1900年10月 :恵州起義に失敗、台湾から日本に亡命
1907年 :5月黄岡起義、6月第2回恵州起義、12月鎮南関起義いずれも失敗
1908年 :2月欽州、廉州起義、4月河口起義いずれも失敗。
1910年2月 :庚戌新軍起義失敗。
1911年4月 :黄花崗起義(第二次広州起義)失敗。
1911年10月 :武昌起義、辛亥革命始まる。
1911年12月 :孫文がアメリカから帰国。
1912年1月 :中華民国成立、孫文が初代臨時大統領に就任
1912年2月 :清朝、宣統帝退位
1912年3月 :袁世凱、中華民国第2代臨時大総統に就任
1917年8月 :孫文は日本から広州に入り、北京政府に対抗して設立された広東
政府(第1次)で陸海軍大元帥に選ばれる
1918年5月 :孫文は職を辞して宋慶齢と日本経由で上海のフランス租界に移る
1921年5月 :中国共産党成立
1924年1月 :第一次国共合作
1925年3月 :孫文死去
(展示会場で購入した小坂文乃氏の書物「革命をプロデュースした日本人」)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/d6/6b496516aec4792f83d35c4746431238.jpg)
(2011年8月30日 花熟里)
9月4日)を見に行ってきました。
キャッチフレーズが、“誰モ見テイナイ写真”というだけあって、写真中心の展示でし
た。入場すると、「北京城写真」(小川一真)が目に入り、北京城(紫禁城)のスケール
の大きさにびっくりし、よくぞ撮影したものと感嘆します。 あとは、孫文と梅屋庄吉と
の関係を示した遺品と「梅屋庄吉アルバム」(小坂文乃氏提供)、『亜東印画輯』(中国
の写真)、幕末・明治の日本の写真、「万国写真帖」(内田正雄)、「壬申検査関係写
真」(横山松三郎)、最後に、『万国実体写真』(ステレオ写真)など、いずれも興味深
い写真が展示されていました。
(東京国立博物館のHPより)
『本展は、孫文が中心的な役割を果たした辛亥革命(1911)から100年の節目にあたり、孫
文と梅屋庄吉、そして彼らと密接に関わった人々やゆかりの地を当時の生の資料によって
ご覧いただこうとするものです。
展示の中核となるのは、梅屋庄吉の曾孫にあたる小坂文乃氏の手元で大切に保管されてき
たアルバム及び関連遺品と、東京国立博物館や長崎大学などが所蔵する当時の稀少な写真
約260点。浅草、長崎、上海、パリ、ニューヨークなど、まるで100年時代をさかのぼった
かのように、世界の情景をお楽しみいただけます』
(展示会入り口付近)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/71/5623960ee99bdd2e819518d4a10080dc.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/d3/85da205bfdb7d67b95a1c636f120de69.jpg)
孫文については、ほとんどの方が知っていると思いますが、梅屋庄吉とはだれ?という方
も多いのではないでしょうか。・
1911年10月10日、長江中流の武昌での武装蜂起が発端となり、中国各地に反清朝の運動が
広がり、翌12年1月に中華民国の建国、2月に宣統帝退位による清朝の滅亡になりました
(いわゆる辛亥革命)。この革命の中心人物が孫文であり、孫文の幾たびの革命を財政面
で支援し、精神的に支えたのが、日本人 梅屋庄吉 でした。
1895年3月に香港で運命的な出会いをした両者は、中国変革への同じ志を持っていること
を確認し、盟約を結びます。
『君は兵をあげたまえ。我は財を挙げて支援す』という梅屋の言葉が盟約を端的に示して
います。
即ち、庄吉は、財産をなげうって、革命運動の武器・弾薬の調達、機関誌の発行資金、革
命に共鳴し参加する志士への援助や留守宅の世話、医療援助隊の派遣、飛行場建設・飛行
機の調達、孫文の外国への脱出費用、日本でのかくまい、等々を誠心誠意行っています。
孫文を支援した日本人は、犬養毅、平山周、菅野長知、寺尾亨、頭山満、久原房之助、犬
塚信太郎、山田良政、山田純三郎兄弟、宮崎弥蔵、宮崎寅蔵(滔天)兄弟、菊池良士、萱
野長友、等々多くの錚々たる人物が挙げられますが、孫文の革命を初期から支え、又、孫
文と宋慶齢との結婚実現に奔走し、孫文夫婦と梅屋夫婦は、“義兄弟・義姉妹の杯”を交
わし、さらに、披露宴も梅屋邸で行ったほどの信頼の厚かった梅屋庄吉の名前は、孫文や
国民党の文書にはほとんど出てこないそうです。 このあたりの事情は、
『ワレ中国革命ニ関シテ成セルハ 孫文トノ盟約ニテ成セルナリ。コレニ関係スル日記、
手紙ナド一切口外シテハナラナイ』
とノートに残していることで、うなづけます。
(中国社会では、義兄弟の杯を交わすというのは、親族に匹敵する関係の証しとのこと)
庄吉は孫文のために、私財をなげうって支援を行いながら、見返りを全く求めなかったの
です。庄吉のひ孫である小坂文乃氏はこうした庄吉を評して「私は思う。庄吉は孫文を援
助していたのではなく、一緒に革命をやっていたのだと。革命という舞台があり、孫文が
主役であるならば、庄吉は資金やスタッフを調達して実現に導く役割を担うプデューサー
であったのだと。」
(小坂文乃著「革命をプロデュースした日本人より」
なお、蛇足ながら、
○蒋介石は、当時孫文が住んでしていた梅屋邸で、恐らく同じ1915年に、宋慶齢の妹の
宋美齢と結婚しているとも言われています。
又、小坂文乃氏の上記書物によれば、梅屋庄吉は、多くのみなし児や薄幸な子供たちを
引き取って育てることもしており、たとえば、台湾・国民軍の将軍になった蒋緯国は、
孫文の一等書記官を勤めた 戴李陶と日本人女性(重松金子)との間に生れた子供で、
梅屋庄吉夫妻が戴李陶に頼まれて養育し、成長して蒋介石の養子(次男、長男は台湾・
第2代総統の蒋経国)になったとのことです。
○宋家の三姉妹について、「一人は金を愛し、一人は権力を愛し、一人は中国を愛した」
と評されています。
*「金を愛した」と言われる長女靄齢は,孔子の子孫を称し、金融で巨富をなした山西省
の富豪の息子、孔祥熙の妻となった。靄齢は金銭的な抜け目のなさで悪名高い。
*「中国を愛した」とされる次女慶齢は、孫文の伴侶となった。慶齢は、夫・孫文の
理想に忠実に生き抜いた。彼女は、後に、毛沢東の人民共和国の副主席となった。
*「権力を愛した」と言われる三女美齢は、革命指導者として頭角を現し権力を握った蒋
介石と結婚した。美齢は歴史上最も有名で最も権力を握った女性の一人となった。
(小川祐子 『激動の中国を生きぬいた三姉妹』)
(展示会の様子)
展示会場内は写真撮影禁止ですので、“次のアドレス”をクリックしてください。
http://www.museum-cafe.com/report/5559.html
<梅屋庄吉略歴>
1868年11月 :長崎で本田松五郎の子として出生。遠縁の梅屋吉五郎の養子に出さ
れる。 梅屋は「梅屋商店」を経営、貿易会社と精米所を営む。
1893年 :庄吉はコメ相場に手を出し失敗、中国アモイ(廈門)、シンガポール、
香港に脱出。
1894年 :香港で写真館「梅屋照相館」を経営、成功する。
1895年3月 :梅屋庄吉と孫文が英国人医師ジェームズ・カントリーの紹介で出会い、
2人は盟約を交わす(孫文29歳、庄吉27歳)。
1904年 :シンガポールで映画会社を起こし、巨大な資産を築く。
1905年 :日本帰国。映画会社「Mパテー商会」を設立。
1911年10月 :白瀬矗中尉の南極探検にMパティー商会のカメラマンを同行させる。
1911年10月 :武昌蜂起成功の知らせを受けて、庄吉は映画撮影技師を中国に派遣
し、革命の様子をフィルムに収める。(これが唯一の記録映像とな
っている)
1912年9月 :「日本活動写真株式会社」(日活の前身)を創設。
1913年2月 :孫文来日、武昌蜂起のフィルムを孫文に贈呈。
1915年11月 :庄吉夫妻の仲人で孫文と宋慶齢が挙式、披露宴挙行(梅屋邸)。
1925年3月 :孫文死去(58歳)。
1929年3月 :庄吉は孫文の銅像4基を製作し、内一基を南京中央軍官学校に寄贈。
1934年11月 :庄吉死去(65歳)
<孫文略歴>
1866年11月 :広東省高山県(現中山市)で出生・
1878年5月 :ハワイの兄の元に行く。
1885年4月 :帰国
1894年11月 :ハワイで興中会本部を立ち上げる。
1895年10月 :第一次広州起義に失敗。
1895年12月 :孫文は横浜からハワイに亡命
1986年10月 :ロンドンで清国公使館に幽閉される。釈放後横浜に来訪。
1900年10月 :恵州起義に失敗、台湾から日本に亡命
1907年 :5月黄岡起義、6月第2回恵州起義、12月鎮南関起義いずれも失敗
1908年 :2月欽州、廉州起義、4月河口起義いずれも失敗。
1910年2月 :庚戌新軍起義失敗。
1911年4月 :黄花崗起義(第二次広州起義)失敗。
1911年10月 :武昌起義、辛亥革命始まる。
1911年12月 :孫文がアメリカから帰国。
1912年1月 :中華民国成立、孫文が初代臨時大統領に就任
1912年2月 :清朝、宣統帝退位
1912年3月 :袁世凱、中華民国第2代臨時大総統に就任
1917年8月 :孫文は日本から広州に入り、北京政府に対抗して設立された広東
政府(第1次)で陸海軍大元帥に選ばれる
1918年5月 :孫文は職を辞して宋慶齢と日本経由で上海のフランス租界に移る
1921年5月 :中国共産党成立
1924年1月 :第一次国共合作
1925年3月 :孫文死去
(展示会場で購入した小坂文乃氏の書物「革命をプロデュースした日本人」)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/07/d6/6b496516aec4792f83d35c4746431238.jpg)
(2011年8月30日 花熟里)