花熟里(けじゅくり)の静かな日々

脳出血の後遺症で左半身麻痺。日々目する美しい自然、ちょっと気になること、健康管理などを書いてみます。

「上野・東京国立博物館の「孫文と梅屋庄吉」展」

2011年08月30日 17時18分27秒 | 趣味(音楽、絵画、等)
上野・東京国立博物館で開催中の「「孫文と梅屋:100年前の中国と日本」展(7月26日~

9月4日)を見に行ってきました。

キャッチフレーズが、“誰モ見テイナイ写真”というだけあって、写真中心の展示でし

た。入場すると、「北京城写真」(小川一真)が目に入り、北京城(紫禁城)のスケール

の大きさにびっくりし、よくぞ撮影したものと感嘆します。 あとは、孫文と梅屋庄吉と

の関係を示した遺品と「梅屋庄吉アルバム」(小坂文乃氏提供)、『亜東印画輯』(中国

の写真)、幕末・明治の日本の写真、「万国写真帖」(内田正雄)、「壬申検査関係写

真」(横山松三郎)、最後に、『万国実体写真』(ステレオ写真)など、いずれも興味深

い写真が展示されていました。


(東京国立博物館のHPより)

『本展は、孫文が中心的な役割を果たした辛亥革命(1911)から100年の節目にあたり、孫

文と梅屋庄吉、そして彼らと密接に関わった人々やゆかりの地を当時の生の資料によって

ご覧いただこうとするものです。

展示の中核となるのは、梅屋庄吉の曾孫にあたる小坂文乃氏の手元で大切に保管されてき

たアルバム及び関連遺品と、東京国立博物館や長崎大学などが所蔵する当時の稀少な写真

約260点。浅草、長崎、上海、パリ、ニューヨークなど、まるで100年時代をさかのぼった

かのように、世界の情景をお楽しみいただけます』



(展示会入り口付近)







孫文については、ほとんどの方が知っていると思いますが、梅屋庄吉とはだれ?という方

も多いのではないでしょうか。・

1911年10月10日、長江中流の武昌での武装蜂起が発端となり、中国各地に反清朝の運動が

広がり、翌12年1月に中華民国の建国、2月に宣統帝退位による清朝の滅亡になりました

(いわゆる辛亥革命)。この革命の中心人物が孫文であり、孫文の幾たびの革命を財政面

で支援し、精神的に支えたのが、日本人 梅屋庄吉 でした。

1895年3月に香港で運命的な出会いをした両者は、中国変革への同じ志を持っていること

を確認し、盟約を結びます。


『君は兵をあげたまえ。我は財を挙げて支援す』という梅屋の言葉が盟約を端的に示して

います。


即ち、庄吉は、財産をなげうって、革命運動の武器・弾薬の調達、機関誌の発行資金、革

命に共鳴し参加する志士への援助や留守宅の世話、医療援助隊の派遣、飛行場建設・飛行

機の調達、孫文の外国への脱出費用、日本でのかくまい、等々を誠心誠意行っています。

孫文を支援した日本人は、犬養毅、平山周、菅野長知、寺尾亨、頭山満、久原房之助、犬

塚信太郎、山田良政、山田純三郎兄弟、宮崎弥蔵、宮崎寅蔵(滔天)兄弟、菊池良士、萱

野長友、等々多くの錚々たる人物が挙げられますが、孫文の革命を初期から支え、又、孫

文と宋慶齢との結婚実現に奔走し、孫文夫婦と梅屋夫婦は、“義兄弟・義姉妹の杯”を交

わし、さらに、披露宴も梅屋邸で行ったほどの信頼の厚かった梅屋庄吉の名前は、孫文や

国民党の文書にはほとんど出てこないそうです。 このあたりの事情は、


『ワレ中国革命ニ関シテ成セルハ 孫文トノ盟約ニテ成セルナリ。コレニ関係スル日記、

手紙ナド一切口外シテハナラナイ』


とノートに残していることで、うなづけます。

(中国社会では、義兄弟の杯を交わすというのは、親族に匹敵する関係の証しとのこと)


庄吉は孫文のために、私財をなげうって支援を行いながら、見返りを全く求めなかったの

です。庄吉のひ孫である小坂文乃氏はこうした庄吉を評して「私は思う。庄吉は孫文を援

助していたのではなく、一緒に革命をやっていたのだと。革命という舞台があり、孫文が

主役であるならば、庄吉は資金やスタッフを調達して実現に導く役割を担うプデューサー

であったのだと。」

(小坂文乃著「革命をプロデュースした日本人より」



なお、蛇足ながら、

○蒋介石は、当時孫文が住んでしていた梅屋邸で、恐らく同じ1915年に、宋慶齢の妹の

 宋美齢と結婚しているとも言われています。

 又、小坂文乃氏の上記書物によれば、梅屋庄吉は、多くのみなし児や薄幸な子供たちを

 引き取って育てることもしており、たとえば、台湾・国民軍の将軍になった蒋緯国は、

 孫文の一等書記官を勤めた 戴李陶と日本人女性(重松金子)との間に生れた子供で、

 梅屋庄吉夫妻が戴李陶に頼まれて養育し、成長して蒋介石の養子(次男、長男は台湾・

 第2代総統の蒋経国)になったとのことです。

○宋家の三姉妹について、「一人は金を愛し、一人は権力を愛し、一人は中国を愛した」 
 
 と評されています。 

*「金を愛した」と言われる長女靄齢は,孔子の子孫を称し、金融で巨富をなした山西省

 の富豪の息子、孔祥熙の妻となった。靄齢は金銭的な抜け目のなさで悪名高い。

*「中国を愛した」とされる次女慶齢は、孫文の伴侶となった。慶齢は、夫・孫文の

 理想に忠実に生き抜いた。彼女は、後に、毛沢東の人民共和国の副主席となった。

*「権力を愛した」と言われる三女美齢は、革命指導者として頭角を現し権力を握った蒋

 介石と結婚した。美齢は歴史上最も有名で最も権力を握った女性の一人となった。

(小川祐子 『激動の中国を生きぬいた三姉妹』)



(展示会の様子)

展示会場内は写真撮影禁止ですので、“次のアドレス”をクリックしてください。

http://www.museum-cafe.com/report/5559.html


<梅屋庄吉略歴>

1868年11月 :長崎で本田松五郎の子として出生。遠縁の梅屋吉五郎の養子に出さ
       れる。 梅屋は「梅屋商店」を経営、貿易会社と精米所を営む。           
1893年  :庄吉はコメ相場に手を出し失敗、中国アモイ(廈門)、シンガポール、
      香港に脱出。

1894年   :香港で写真館「梅屋照相館」を経営、成功する。

1895年3月 :梅屋庄吉と孫文が英国人医師ジェームズ・カントリーの紹介で出会い、
       2人は盟約を交わす(孫文29歳、庄吉27歳)。

1904年   :シンガポールで映画会社を起こし、巨大な資産を築く。

1905年   :日本帰国。映画会社「Mパテー商会」を設立。

1911年10月 :白瀬矗中尉の南極探検にMパティー商会のカメラマンを同行させる。

1911年10月 :武昌蜂起成功の知らせを受けて、庄吉は映画撮影技師を中国に派遣 
       し、革命の様子をフィルムに収める。(これが唯一の記録映像とな
       っている)

1912年9月  :「日本活動写真株式会社」(日活の前身)を創設。   

1913年2月  :孫文来日、武昌蜂起のフィルムを孫文に贈呈。

1915年11月  :庄吉夫妻の仲人で孫文と宋慶齢が挙式、披露宴挙行(梅屋邸)。

1925年3月  :孫文死去(58歳)。

1929年3月  :庄吉は孫文の銅像4基を製作し、内一基を南京中央軍官学校に寄贈。

1934年11月  :庄吉死去(65歳)



<孫文略歴>

1866年11月  :広東省高山県(現中山市)で出生・

1878年5月   :ハワイの兄の元に行く。

1885年4月   :帰国   

1894年11月  :ハワイで興中会本部を立ち上げる。

1895年10月  :第一次広州起義に失敗。

1895年12月  :孫文は横浜からハワイに亡命

1986年10月  :ロンドンで清国公使館に幽閉される。釈放後横浜に来訪。 

1900年10月  :恵州起義に失敗、台湾から日本に亡命

1907年    :5月黄岡起義、6月第2回恵州起義、12月鎮南関起義いずれも失敗

1908年    :2月欽州、廉州起義、4月河口起義いずれも失敗。

1910年2月  :庚戌新軍起義失敗。

1911年4月  :黄花崗起義(第二次広州起義)失敗。

1911年10月  :武昌起義、辛亥革命始まる。

1911年12月  :孫文がアメリカから帰国。

1912年1月  :中華民国成立、孫文が初代臨時大統領に就任

1912年2月  :清朝、宣統帝退位

1912年3月   :袁世凱、中華民国第2代臨時大総統に就任

1917年8月     :孫文は日本から広州に入り、北京政府に対抗して設立された広東
          政府(第1次)で陸海軍大元帥に選ばれる

1918年5月    :孫文は職を辞して宋慶齢と日本経由で上海のフランス租界に移る

1921年5月    :中国共産党成立

1924年1月    :第一次国共合作

1925年3月    :孫文死去




(展示会場で購入した小坂文乃氏の書物「革命をプロデュースした日本人」)





(2011年8月30日  花熟里)


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「モミジアオイ(紅葉葵)、ミソハギ、ヤブラン、ニラ」

2011年08月28日 13時19分23秒 | 自然

「モミジアオイ(紅葉葵)」

畑の脇で咲いているのを見かけました。きれいな花です。




















“アオイ科フヨウ(ハイビスカス)属の宿根草。別名は、紅蜀葵(こうしょっき)。
 原産地は北アメリカ東南部の湿地。背丈は1.5~2mくらいで、花期は7-8月。
 花は夕方にはしぼんでしまう1日花。茎は、ほぼ直立する。触ると白い粉が付き、
 木の様に硬い。同じ科のフヨウに似るが、花弁が離れているところがフヨウと違
 うところ。和名のモミジアオイ(紅葉葵)は、葉がモミジのような形であること
 からつけられた”



「ミソハギ」

畑の中で群生していたり、道端で咲いているのを見かけます。















“ミソハギ科 ミソハギ属の多年草。原産地は日本および朝鮮半島。湿地や田の
 畔などに生える。草丈は1メートルを超え、小さな花を穂のようにつける。
 この花を水に浸して禊(みそ)ぎに使う風習があることから、ミソハギと名付
 けられたと言われている。花期は7~8月。盆花としてよく使われ、ボンバナ、
 ショウリョウバナ(精霊花)などの名もある。盆花には、女郎花(おみなえし)、
 桔梗、山百合、鬼灯(ほおずき)等がある”




「ヤブラン」

道端で見かけます。個々では目立たないのですが紫の花が群生しています。











“関東地方以西の温暖な地に生育する常緑の多年草。東南アジアにも分布する。
 別名「山菅」(やますげ)。 藪(ヤブ)のようなところに生え、葉がラン
 の葉に似ていることから”



「ニラ」

楚楚とした花が印象的です。畑の道端沿いで見かけます。

















“ニラ(韮、韭)は、ネギ科(古い分類のクロンキスト体系ではユリ科)
 ネギ属の1種。多年草の緑黄色野菜である。中国西部が原産。日本では
 本州から九州に野生。花期は8 - 10月頃。花は半球形の散形花序で白い
 小さな花を20 - 40個もつける”



(2011年8月28日  ☆きらきら星☆)
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「フウセンカズラ、サルビア・パープルマジェスティ」

2011年08月25日 17時18分56秒 | 自然

「フウセンカズラ(風船かずら)」

ちいさな風船のようなかわいい実に目が行きます。鉢植えの行灯仕立てているもの、グリ

ーンカーテンとして這わせている家庭、塀に這わせているものなど、様々です。

















“無患子(ムクロジ)科フウセンカズラ属。原産地:東南アジア、
 中南米。実が風船のように見えるので、フウセンカズラと呼ばれ
 ている。風船のような中はホオズキのように一つの丸い実が入っ
 ているのではなく、3つ分かれた部屋に一つずつ種が入っている”



「サルビア・パープルマジェスティ」

家庭の庭や道端で濃い紫色の花を見かけます。














“シソ科アキギリ属の半耐寒性の多年草。南アメリカ原産で青花の
 ガラニチカ種とメキシコ原産で赤花のゲスネリフロラの園芸品種
 「テキーラ」の人工的な交雑によって、1997年にカリフォルニア
 のハンチントン植物園で作出された。高さは1~2メートルになる。
 葉は卵形で対生し、縁には細かい鋸歯あり。6月から11月ごろ、
 茎頂に長い穂状花序をだし、紫色の唇形花を輪生状に咲かせる。
 萼片は黒紫色です。低温になると葉は紫色を帯び、冬に地上部は
 枯死する”



(2011年8月25日 ☆きらきら星☆)
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「自然の恵み(スイカ、クリ、オクラ)」

2011年08月23日 17時25分30秒 | 自然

「スイカ」

畑にスイカが実っています。この農家では庭先で収穫したスイカを販売しています。自転

車で来る人は買って帰ります。重いので、小ぶりのものに出会えたら買って帰りたいと思

っています。

















“ウリ科のつる性一年草。原産地は、熱帯アフリカのサバンナ地帯
 や砂漠地帯。 日本への渡来時期ははっきりしていないが、江戸時代
 の後期には広く全国に普及している。中国の西方(中央アジア)
 から伝来した瓜とされるため「西瓜」の名称が付いた”



「クリ」

今年もたわわに実をつけています。収穫の時が楽しみです。











“ブナ科クリ属の木の総称。落葉樹。
『桃 栗 3年、柿8年、梅は酸い酸い13年、柚子は大馬鹿18年、
 林檎ニコニコ25年』 実を結ぶ時期のこと。何事も、時期が来なく
 てはできないというたとえ。 
 属名のCastaneaが楽器のカスタネットの名称の由来になった。その由来
 は栗の木から作られたことからとも、栗の実の形に似ることからともいう。
  三内丸山遺跡からは1mものクリの木の柱が出土し、これは建材だったと
 いわれている。材は丈夫で腐りにくいので、コンクリートが普及するまで
 は鉄道の枕木や電柱に加工されていた“




「オクラ」

夏に欠かせない野菜の一つです。花もきれいです。








“オクラ(秋葵)は、アオイ科トロロアオイ属の多年草。和名はアメリカネリ、
 ほかに陸蓮根(おかれんこん)の異名もある。ハイビスカスの近縁で、淡い
 黄色にワインレッドの咽部をもつ花も観賞価値ある。エチオピア近辺が原産。
 エジプトでは2000年前から栽培されていた。 奴隷としてアメリカに連れ
 てこられた黒人がアメリカに持ち込んだ。今でもアメリカはオクラの大産地。
 日本には江戸時代末期、1850年ごろに紹介されているが、本格的に普及
 しだしたのは1970年代に入ってから。 沖縄、九州、四国、と中部、
 関東の一部で栽培されている”




(2011年8月23日 ☆きらきら星☆)

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「被曝元凶の4人組(菅・枝野・海江田・高木)を許してはいけない」

2011年08月21日 11時48分04秒 | ちょっと気になること
菅政権の終焉が近づいています。内閣総辞職により、福島第一原子力発電所の事故で国民

を被曝させたという責任を国民が忘れてくれることを心待ちにしている不届きな大臣がい

るのかもそれません。然し、国民は今後長い期間放射性物質による汚染に苦しめられるこ

とになります。被曝をさせた元凶の4人組は、内閣総辞職後も国民による責任の追及を行

い、決して許してはなりません。海江田大臣は次期総理に出馬すると報じられています。

“辞める辞める詐欺”の張本人、“言行一致できない人”に一国を任せられるでしょう

か。菅総理は福島第一原発周辺の高濃度放射線汚染地域は今後長期にわたって居住が困難

になるとの判断から、住民に「陳謝する」と報じられています。“陳謝”(広辞苑によれ

ば、陳謝とは、「わけ述べてあやまること』とあります)という言葉だけで済ませる腹積

もりのようです。 菅総理・海江田大臣ともに、国家の責任者として自分の犯した罪の大

きさを分かっているのでしょうか。 被曝元凶4人組は、即刻政界から引退し、国民への

謝罪の日々を送るべきです。


・菅直人総理大臣

  :原子力災害対策本部長として、事故発生直後からSPEEDI による汚染予測を活用し

   て国民の被曝回避施策(風上への避難や疎開等)を実行せずに、国民、特に乳幼児

   や妊婦、子供にあってはならない被曝をさせた罪。

・枝野幸雄官房長官

  :事故直後から放射線汚染の危険について「直ちに健康に影響ある数値ではなく安心

   するように」と国民を欺きつづけた罪。

・海江田万里経済産業大臣

  ;原子力発電所の安全規制を所管する大臣として、東京電力との緊密な情報一元化を

   果たせず、タイムリーな事故収束対策を実施せず、優柔不断にいたずらに日数を費

   やし、国民を被爆させた罪。

・高木義明文部科学大臣

  :放射線の国際的な合意に基づく被曝基準を、子供や妊婦への影響を考慮することな

   く、専門家の危険指摘も無視して緩めた暫定基準を設け、一律に暫定基準を適用し

   て国民、特に乳幼児・子供・妊婦を被曝させた罪。


放射線被曝の影響については、「1年間に100ミリシーベルト以下については、医学的

には分かっていない」ので、専門家の間でも、ほとんど影響が無いという見解と、線量の

低下に伴いつつも影響がある、特に細胞分裂の盛んな乳幼児などでは危険がある、とする

見解があるようです。 やはり、子供や乳幼児などは、低線量といえども、可能な限り被

曝を避けるようなな努力を一人ひとりが行うべきであり、政府としても被曝回避の対策を

採るべきと思います。



政府の調査で福島の子供の45%が甲状腺被曝していると報じられています。「検査は3

月24~30日、いわき市と川俣町、飯舘村で0~15歳の子どもを対象に実施した。原

子力安全委員会が当時、精密検査が必要だと決めた基準は甲状腺被曝線量が毎時0.20

マイクロシーベルト以上。1150人のうち、条件が整い測定できた1080人は全員、

0.10マイクロシーベルト以下だった。 この日、説明会には、検査を受けた子どもの

保護者ら約50人が参加した。対策本部原子力被災者生活支援チームの福島靖正医療班長

は、“問題となるレベルではない”、と説明した。」(8月17日 朝日新聞)

こと子供が対象です。今後10年、20年、30年後にどのような影響が出てくるか分からない

のにも関わらず、「線量が低いので健康に問題はない」との一言で片付けています。 今

後、長期的に継続して健康管理を行うことや低線量の放射線被曝を避けるような対策(除

染、疎開 等)を政府として行うなどの方針を説明すべきと思います。政府関係者の低線

量被曝への認識が国民目線に立っていないことがはっきりと分かります。




<科学者の日記110519 「被曝量と健康」の基礎>(中部大学 武田邦彦 教授)

『放射線をどのぐらいあびたら危険か、ということは今、福島やその周辺にお住みの方

 の、もっとも強い関心事と思います.また福島から遠いところでも、土壌、茶葉、野菜、

 牛乳、魚などに不安を持っている人も多いようです.そこで、「なんの立場もなく、深

 く反省しているわたし」が、自分の知識を整理して、簡潔に示してみたいと思います.

・・・・・・・・・

 まず、「現代の医学で判っている範囲」ですが、それは

 「1年100ミリシーベルト以上、あびるとガンやその他の病気になる」

 ということです。さらに医学が発達すれば、1年100ミリシーベルト以下でどのよう

 なことが起こっているか判ると思いますが、現在の医学のレベルでは100ミリシーベ

 ルトまでしか判らないのが現状です.

・・・・・・・・・

 次に、100ミリシーベルト以下ですが、医学的には判らないので、学問的に推察する

 ことになります.「医学」と「学問」は何が違うかというと、医学も学問の一つです

 が、遺伝子学とか、材料劣化、さらにはリスクに関する学問など放射線と健康に拘わる

 学問は数多くあります.たとえば、遺伝子はDNAで出来ていますが、実験でDNAに

 放射線を照射する実験をするとDNAが損傷します.放射線より弱いエネルギーをもつ

 紫外線でも損傷するのですから、化学的には当然でもあります.DNAが損傷すると、

 ガンや遺伝性の病気になりますが、生物の体は自分でDNAの損傷を治すことが出来ま

 すので、「どの程度の損傷なら、人間の体は修復できるか?」ということになります。

 そこがややこしいところです。

 そこで、医学ばかりではなく関係する学問を総動員してデータを集めると、

「どうも1年1ミリシーベルト以上を被曝すると、1億人に5000人ぐらいのガンが出

 るらしい」

「交通事故やその他の社会的なリスクから見て、1年1ミリシーベルトぐらいで「我慢」

 すると決めれば、国際的に合意できる」

 ということが決まりました。

 つまり、1年1ミリシーベルトと「限度」は、医学的なデータはないけれど、多くの学

 問的な知見や現代社会に生きている人の感覚から言って「我慢できる」という「限度」

 として「国際的に合意できる」ということです。国際的な合意が大切なのは、私たちが

 海外旅行をしたり、海外のレストランで安心して食事をしたり、さらには海外から輸入

 されたペットボトルの水を安心して飲むためには、国際的に同じ基準になっていないと

 いけないからです。もし日本が1ミリで、どこかの国が100ミリとすると、海外製品

 を買う時にいちいち、生産国やその国の法律を知らなければならないので、とても面倒

 です.だから、1年1ミリというのは、それなりにハッキリした根拠を持っています.

・・・・・・・・・

3番目。

 つまり、1年1ミリというのは、「誰でも」、「どこでも」、1ミリなら安心できると
 
 いうことです。「誰でも」というのは、赤ちゃん、体の調子が悪い人、レントゲン検査

 をかなり受けた人・・・などを含んでいます.

 また「どこでも」というのは、土地によって自然放射線のレベルもさまざまですし、一

 時的に何らかの食材などで被曝することもあり、それの余裕も考えています。でも、1

 ミリを越えるところもあります。そこで、日本では3ヶ月で1.3ミリシーベルト、つ

 まり1年で5.2ミリシーベルトという基準もあります。「管理区域」などがそれに当

 たります.


 この場合、

 1)健康状態に注意する、

 2)バランスの良い食事をする、

 3)体調を整える、

 4)1)から3)を守れないところでは時間制限をする、

 というものです。

 たとえば、放射線が少し多めの病室に入院するような場合などがそれにあたります。

 1年1ミリにしても、1年5.2ミリにしても、「総合的判断」と「経験」で「安全」

と決まっているもので、それ以上でもそれ以下でもありません。

・・・・・・・・・

4番目。

 文部科学省の大臣は「1年20ミリまで安全」と言っていますが、そんなことは世界の

 どこにもありません.

 ICRPという任意団体(NPO)が、

 1)事故の時にはやむを得ず1年20ミリシーベルトまで認めることができる、

 2)1年20ミリの場合は、1年1ミリに比べるとガンの発生率が20倍に増える、

 3)しかし、「短期間」で、「1年1ミリまで回復する努力をして」、「個人個人に具

 体的な利益がある場合」に限定する、

 となっています.

 文科省が1年20ミリを決め、それからいい加減な計算をして1時間に3.8マイクロ

 シーベルトという基準を決めましたが、これに対して「安全かどうか不安」という声が

 ありますが、当然です.もともと、1時間3.8マイクロシーベルトが安全などという

 データも学問的知見も全くないのです.強いて言えば、「1時間3.8マイクロシーベ

 ルトが危険であるとも安全であるというデータもない」ということです。神様だけが決

 めることが出来るもので、文科省の大臣は神様になったようです.

 私が「除染」が前提だと言っているのは、「事故でやむを得ず20ミリにするときで

 も、1ミリにする努力が前提で、しかも被曝する子供達に何らかのメリットがなければ

 ならない」からです。

・・・・・・・・・

 今、国会の委員会室の椅子に座っていて、これから参考人として委員会で陳述しま

 す.』

(平成23年5月20日 午前8時30分 執筆)  武田邦彦




〔2011年8月21日 花熟里〕
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