「たばこと塩の博物館」(渋谷)で日本とオランダの通商400年記念展「阿蘭陀とNIPPON」
が開催されています。
(JR渋谷駅から博物館までは急な坂なので、装具と杖の身にはこたえました。館内では
車椅子を貸していただきました。階の移動の時には、エレベータのところで、警備員
の方がサポートしてくださいました。)
「阿蘭陀とNIPPON」
日本がポルトガルやスペインとの「南蛮貿易」を行っている中、慶長5(1600)年に
オランダ船「リーフデ号」が、豊後国(現在の大分県)に漂着して、住民が乗組員を
救助したのが日本とオランダの交流のきっかけといわれています。 1609(慶長14)年
に徳川家康が発給した「朱印状」により、オランダとの通商関係が始まり、平戸に最初
のオランダ東インド会社(VOC)の商館が開設されました。 2009(平成21)年は
この時からちょうど400年目にあたります。
平戸の商館は、1641(寛永18)年には長崎の出島に移され、VOCが解散した1799
(寛政11)年以降も、日本とオランダの貿易はオランダによる国営化という形で継続
され、幕末に開国するまで交易のみならず、文化、医学・植物学、語学、天文学、
軍事など、あらゆる分野での西洋との唯一の窓口でした。 なお、出島のオランダ
商館は1859(安政6)年閉鎖され、以降「領事館」となります。
VOCが設立される以前の1596年から、オランダではいくつもの貿易会社がアジアへ商船
を派遣していました。その当時、各社は互いにしのぎを削っており、その結果、買い付
け価格の高騰とヨーロッパにおける販売価格の下落をまねくことになってしまったの
で、そうした不都合な状況に終止符を打つため、それらの貿易会社は大同団結を行っ
て、1602年にVOCが誕生することになりました。
世界で最初の株式会社と言われるVOCは、オランダ本国には「17人会」と呼ばれる
重役会がおかれ、アジアにおいてはバタビアに常駐した東インド総督と評議会がアジア
各国の商館や館員を統括しました。VOCは、商業活動だけでなく、オランダ本国より
立法権や交戦権、植民地経営権など国家に等しい特権を与えられ、アジア各地に拠点・
商館を設けて海上貿易に従事しました。
VOCにとって、日本のオランダ商館は極めて重要なものでした。その理由は、日本が
金、銀、銅をオランダ人に供給したことにあります。オランダ人はこれらの金属を
決済手段として使用することにより、アジア各地で胡椒・丁子をはじめとした香辛料
や様々な商品を買いつけ莫大な利益を得ました。
さて、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の時代には、キリスト教の布教でポルトガルや
スペインの宣教師が日本に来航しました。信長は南蛮文化に興味を示し宣教師を保護
しました。京都には南蛮寺が建てられ、他全国各地に教会や修道院が作られ、国内の
キリスト教信者が急速に増えていきました。1582年には「天正遣欧少年使節」として
少年4名(伊東マンショ、原マルチノ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン)が派遣され、
教皇グレゴリウス13世に謁見します。
豊臣秀吉は当初はキリスト教の布教には寛大でしたが、ポルトガル商人が日本人を奴隷
として海外に送り出していることが発覚、また教会が長崎で領地を所有するなど、
ゆゆしき事態になっていることに脅威をいだき、1857年に伴天連追放令によって宣教師
の追放を行い、その後キリスト教徒の弾圧を行い、1597年には26名の処刑を長崎で行い
ます。
徳川家康は朱印船制度を定めるなど海外との交易を奨励していました。 当初キリスト
教布教を黙認していましたが、1612年にキリスト教の禁止令を布告し、弾圧を強化して
いきます。1619年に京都で52名、1622年に長崎で55名、1623年に江戸で55名が処刑され
ます。
この信長・秀吉・家康の時代には、多くの日本人が海外に雄飛していき、日本人町が
アジア各地で繁栄していました。 ルソン島のマニラ、交趾(ベトナム)のツーラン、
フェフォ、シャム(タイ)のアユタヤ、カンボジアのプノンペン、ピニャール、それと
バタビアに多くの日本人が住んでおり、日本人町がありました。 しかし、日本が鎖国
するに伴い日本人町は急速に消滅していきます。 VOCとかかわりを持った人で有名
なのは次の通りです。
・貿易や軍事では山田長政、鄭成功、呂宋助左衛門 など。
・キリスト教弾圧により高山右近、お春などのように追放された人々や、関ヶ原や
大名家の改易などで浪人となった武士も多数密航していたと言われています。
鄭成功は父・鄭芝龍の時代から貿易を生業としていましたので、その船はアジア諸国を
巡っていましたし、山田長政、呂宋助左衛門も貿易で身を立てていましたので、当然
お互いのことは情報として知っていたと考えられます。また、お春も夫がVOCに勤務し
ていますので、アジアで活躍している日本人の噂を耳にしていたと考えられます。
・鄭成功 :1624(寛永元)年―1662(寛文2)年
・山田長政 :1590(天正18)年―1630(慶長7)年
・呂宋助左衛門:1565(永禄8)年 -(没年不明)
・お春 :1625(寛永2)年 ―1697(元禄10)年
<鄭成功について>
今では、「鄭成功(1624年~1662年)」の名前を知っている人は少なくなって来ている
と思いますが、近松門左衛門脚色の人形浄瑠璃「国性爺合戦」は、鄭成功の死後53年
たって上演され、3年間37カ月にも及ぶ長期の興行となりました。 また、歌舞伎でも
度々上演されているなど、庶民の人気を博してきました。
(注;浄瑠璃は近松門左衛門の創作ということで、「国性」と表現)
国姓とは、明朝の皇帝の姓である「朱」のことであり、鄭成功は朱姓を隆武帝(朱●鍵)
から賜ったので「国姓爺」と呼ばれています。(●は津のサンズイのないもの)
鄭成功は明の臣下である父・鄭芝龍と母・田川マツ(平戸の女性)との間に生まれた
日中混血児であったことも、日本で人気が出た理由の一つです。
鄭成功は、清の台頭で没落していく明の復権のために、「抗清復明」を掲げて戦います
が、結局敗北します。その後、1662年2月に鄭成功が台湾を征服しますが、その3ヵ月後
の1662年5月 38歳で病没します。
鄭成功の軍の中には、日本の甲冑を身に付け日本刀を持っていた「鉄人部隊」といわ
れる部隊があったと言われています。関ヶ原で敗れた西軍や徳川幕府によって取りつぶし
になった大名家の浪人が日本を逃れて、鄭成功軍に参加したものではないかと言われて
います。
なお、VOCの台湾長官 フレデリック・コイエットは台湾を退去してバタビヤに引き
上げましたが、ここで裁判を受け、死刑の判決を言い渡されますが、特赦で終身刑に
なり、2万5千グルテンの保釈金を積んで釈放され、オランダ本国に送還されました。
<じゃがたらお春について>
「長崎物語」の歌で有名な「じゃがたらお春」は、1625(寛永2)年、ポルトガル商船の
航海士であったイタリア人と長崎の貿易商人の娘(洗礼名マリア)との間に生まれます。
お春が14歳の1639(寛永16)年6月に第5次鎖国令が発布され、長崎に住んでいた外国人
との混血児とその母親が国外追放になり、10月に長崎に住んでいた32名(お春・母親・姉
の3名も含まれます)がバタビアに追放されます。
21歳の時に、平戸生まれのオランダ人との混血児で、VOCに勤務していた
シモン・シモンセンと結婚、3男4女をもうけます。 シモンセンは後年バタビアの
税関長に昇進、退職後も貿易商として活躍するほか、名士が就任するオランダ人協会
の長老として重きをなします。 お春は上流階級の婦人として優雅な生活を送ります。
一家はオランダへの召還命令を受けたこともありましたが、日本人の血筋であることか
ら、引き続き居住することを許されました。 シモンセンは1672(寛文12)年死去しま
すが、お春は莫大な遺産を相続、1692(元禄5)年に72歳で死去します。
<山田長政について>
山田長政は1590(天正18)頃、駿河国の駿府に生まれます。 駿府は徳川家康の居城
で、1607(慶長12)年に将軍職を秀忠に譲った後も、駿府で大御所として政治の実権を
ふるい、朱印状も駿府で発行されていました。 長政は、1612(慶長17)年に駿府の
豪商である太田治右衛門や滝左衛門の船で台湾を経由してシャム(アユタヤ王朝)に渡
ります。
アユタヤでは多数の日本人が国王の護衛兵を務めていました。長政はチャオプラヤー川
の水上警備隊長として、また、王宮護衛隊長として活躍します。 マニラのスペイン総督
が1621年と1624年の2度にわたり差し向けた艦隊との戦いに日本人義勇軍を指揮して勝利
して国王の信任を得ます。
この1624(寛永元)年に、長政は国王から官位「オークプラ」を、さらに、1627(寛永4)
年には最高の官位である「オークヤー・セーナピモック」を授かります。
一方で長政は貿易商人としても抜群の才覚を発揮し、マラッカ、バタビア、日本など
アジアとの交易を一手に引き受けます。 このための、1629年にはVOCはアユタヤの商館
を閉鎖し、撤退してしまいます。
1621(元和7)年、長政は日本人町の3代目頭領となっています。 この年にシャム国王は、
長政の斡旋により第2代将軍秀忠に使節団を送ります。 返礼として、将軍秀忠は長政に
正式に朱印状を授けます。1629(寛永6)には、長政の仲介で第3代将軍家光にシャム
使節団を送ります。 国王の死去により、アユタヤ王朝の後継争いに巻き込まれ、南部
リゴール州の知事(国王)に命じられ、戦で受けた傷が元で1630(寛永7)年、急逝
します。 毒殺ではないかとも言われています。(40歳)。
<呂宋助左衛門について>
呂宋助左衛門は、NHKの大河ドラマ「黄金の日々」で有名になりましたが1565(永禄8)
年に堺で貿易商人の子供として生まれ、天正年間からフィリピンやインドシナ方面に出
かけて貿易を行っていたと伝えられています。 ルソン壺など珍品の輸入で秀吉に気に
入られ、一躍豪商としての地歩を固めるものの、ぜいたく三昧の生活に石田光成らの反感
を買い、豊臣秀吉の逆鱗にふれ、全財産没収の処分を受けることになりますが、直前に
菩提寺である大安寺にすべてを寄進してルソンに脱出したと言われています。
1590年代にカンボジア王の要請でマニラのスペイン総督が艦隊を差し向けてカンボジア
の内政に介入していた頃、呂宋助左衛門はルソンからカンボジアに渡り、国王の信任を
得て、1607(慶長12)年頃には日本との貿易承認を管理する元締めの地位を与えられる
など、再び豪商になったとも伝えられています。(没年不明)
「マニラ」の日本人町
秀吉は天下を統一した後、海外まで侵攻しようとする野望を抱き、マニラのスペイン総督
に脅かしの手紙を送ったため、スペイン側は当時マニラに在住していた日本人を集め、
郊外のディオアラ地区に移住させたのが、マニラの日本人町の始まりです。朱印船貿易の
来航、キリシタンの亡命などによって、ディオラの町の人口は増えていきます。
ちなみに鎖国令の前、1623年には3000人に達していたようです。 しかし、鎖国令が公布
され頃には800人に激減し、その後は急速にさびれ時とともに消滅していきました。
なお、有名なキリシタン大名 高山右近 が1614年に追放され亡命したのも、マニラで
す。 そのころすでに、2000人の日本人がディオラ地区に住んでいました。これらの
人々は、キリシタンだけではなく、戦国時代のあぶれ浪人、海賊くずれ、商人、船員など
であり、日本人の海外流出の中で最も隆盛を誇った町とされています。
「交趾(ベトナム)」の日本人町
ツーラン、フェフォの両町に日本人町がありました。 交趾政府は外国商人に治外法権を
認めていたようで、住民の中から長を選び、自治に任されていました。 交趾政府は
キリスト教を禁止していましたが、日本人町にはその法令は及ばず、キリスト教徒は信仰
を捨てずにすんだようです。 従って、日本人にとっては、ツーラン、フェフォはどこ
よりもすみ易い町だったと思われます。 ツーランには日本が鎖国する前には60戸あまり
の日本人の居住者がいましたが、鎖国によって、日本との交流を絶たれた後は、消滅して
しまいました。
「(シャム)アユタヤ」の日本人町
シャムは当時、ルソンに次いで日本人が渡っていった国です。 シャムの首都アユタヤに
日本人町があり、その三代目頭領が有名な山田長政です。当時、数千人の日本人がいたと
されますが、他の日本人町とは違って、強力な武力集団を形成していました。
後年シャムの王位継承の争いに巻き込まれ、長政が謀殺され鎖国政策ともあいまって、
急激に人口が減少していきました。
「カンボジア」の日本人町
プノンペン、ピニャール(プノンペンの北25㎞にあり、水運の玄関口)の両町に日本人町
があり、それぞれ、3~4百人の日本人が住んでいたとの記録が残されています。
呂宋助左衛門がルソンから渡来して来て、国王の信任を得て豪商として活躍したと伝えら
れています。
「バタビア」の日本人町
1619年にジャワ島西部に築かれた城壁都市バタビアにはVOCのアジアにおける本拠地が
おかれていたので、日本に来航するオランダ船もバタビアを中継・経由するのを常として
いました。 最盛期のコロニアル風の街並みは「東洋の女王」と称され、そこから本国に
もたらされた莫大な富は、17世紀オランダの「黄金時代」の礎となりました。
1609年に平戸の商館が設置されて以来、多くの日本人が労働者や兵士として雇われ、
バタビアに輸送されています。 このため、朱印船貿易によって自主的に海外に移住した
他の日本人町とは様相が異なっており、バタビアでは日本人が集団で町をつくることは
なかったといわれています。日本人の多くのものは雇用の契約が切れると退職金をもら
い、自由市民となって独自に商売を始めました。 オランダ人が日本人移民300名の輸送
計画を立ててから7年間に日本から輸送した人数は次の通り。
1613(慶長17)年 68人
1615(元和元)年 67人
1619(元和9)年 90人
1620(元和10)年 100人(船が途中で沈没)
バタビアの日本人は、1623(元和8)年頃には300名位だったとされていますが、
1632(寛永9)年には108名に減少しているとの報告があり、お春がバタビアに着いた頃
には約100名の日本人が住んでいたものと考えられます。
「台湾」の日本人町
14世紀末頃から倭寇が東シナ海や南シナ海の沿岸を荒らしまわっていましたが、
台湾北部の基隆や淡水を根拠地としていたといわれていますので、倭寇をはじめとする
日本人が住んでいた思われます。15世紀になって足利幕府の取り締まりが強化され
次第に倭寇の活動が下火になっていきます。
台湾は、朱印船貿易の中継基地としての機能を果たしており、基隆、淡水、安平、高雄
に朱印船が立ち寄り、これらの各地には日本人街があったといわれています。
1598(慶長3)年に呂宋助左衛門が日本脱出してマニラに向かう途中、また、山田長政
が1612(慶長17)年にシャムにわたる途中に各々台湾に立ち寄ったとの記録があり、
さらに、1640(寛永17)年にお春などが追放されたときも台湾に寄港しています。
1622(元和8)年にオランダ人が台湾南部を占拠し、安平にゼーランジャ城を築いたとき
には、日本人が百数十名いたと記録が残っていますし、その数年後にスペインが北部を
攻略したときに、淡水にも日本人がいたとの記録が残っています。
1662年、鄭成功がオランダを駆逐し台湾を占拠、3ヵ月後に死去した後には、台湾を
支配下においた清は鎖国状態になり日本との関係も途絶えてしまいます。
「関係事項年譜」
1565(永禄8)年 :納屋(呂宋)助左衛門が堺に生まれる。
1573(天正元)年 :足利幕府崩壊・織田信長政権>
<1582(天正10)年:織田信長死去・豊臣秀吉実権握る>
1590(天正18)年 :山田長政が駿河国に生まれる。
1597(天正17)年 :秀吉がキリスト教司祭など26名を長崎で処刑
<1598(慶長3)年:豊臣秀吉死去・徳川家康実権握る>
1600(慶長5)年 :イギリスが東インド会社設立
1602(慶長7)年 :オランダが東インド会社設立(1619年バタビア獲得)
1609(慶長14)年:オランダが平戸に商館設置
1610(慶長15)年:山田長政が朱印船でシャムに渡航
1613(慶長18)年:イギリスが平戸に商館設置、伴天連追放令
1614(慶長19)年:高山右近らをマニラ国外追放
1616(元和2)年 :幕府が唐船以外の外国船の貿易港を長崎と平戸に限定
1621(元和7)年 :山田長政が日本人町の頭領になる。
1622(元和8)年 :オランダが台湾に商館設置
1623(元和9)年 :イギリスが平戸商館を閉鎖
1624(寛永元)年 :鄭成功が平戸で誕生(父:鄭芝龍、母:田川マツ)。
スペイン船の来航禁止
1625(寛永2)年 :お春が長崎で誕生(父:ポルトガル商船の航海士のイタリア人、
母:日本人)
1628(寛永5)年 :山田長政がアユタヤ王朝の最上位の官位である「オークヤー」
を授けられる
1630(寛永7)年 :山田長政死亡(40歳)、アユタヤの日本人町が焼き討ちされる。
1631(寛永8)年 :鄭成功が明国(福健省)に渡航(7歳)
1633(寛永10)年 :第1回鎖国令発布
1635(寛永12)年 :日本人の海外渡航・帰国を禁止
1636(寛永13)年 :長崎出島完成
1637(寛永14)年 :ポルトガル人との混血児290人をマカオに追放。
1637(寛永14)年 :島原の乱
1639(寛永16)年 :ポルトガル船来航禁止・出島から追放される。
オランダ人、イギリス人を含むすべての外国人との混血児との母親
の追放令発布(6月)。 お春追放(14歳、追放者は合計32名で、
母と姉も一緒)(10月)
1640(寛永17)年 :お春がバタビア着
1641(寛永18)年 :平戸オランダ商館を長崎出島に移す
1646(正保3)年 :お春がVOC社員のシモン・シモンセンと結婚(シモンは後年
税関長に昇進)
1662(寛文2)年 :鄭成功台湾攻略、東インド会社台湾長官 コイエット台湾から
退去
鄭成功死亡(38歳)
1697(元禄10)年 :お春死亡(72歳)
(2010年6月18日 ☆きらきら星☆)
が開催されています。
(JR渋谷駅から博物館までは急な坂なので、装具と杖の身にはこたえました。館内では
車椅子を貸していただきました。階の移動の時には、エレベータのところで、警備員
の方がサポートしてくださいました。)
「阿蘭陀とNIPPON」
日本がポルトガルやスペインとの「南蛮貿易」を行っている中、慶長5(1600)年に
オランダ船「リーフデ号」が、豊後国(現在の大分県)に漂着して、住民が乗組員を
救助したのが日本とオランダの交流のきっかけといわれています。 1609(慶長14)年
に徳川家康が発給した「朱印状」により、オランダとの通商関係が始まり、平戸に最初
のオランダ東インド会社(VOC)の商館が開設されました。 2009(平成21)年は
この時からちょうど400年目にあたります。
平戸の商館は、1641(寛永18)年には長崎の出島に移され、VOCが解散した1799
(寛政11)年以降も、日本とオランダの貿易はオランダによる国営化という形で継続
され、幕末に開国するまで交易のみならず、文化、医学・植物学、語学、天文学、
軍事など、あらゆる分野での西洋との唯一の窓口でした。 なお、出島のオランダ
商館は1859(安政6)年閉鎖され、以降「領事館」となります。
VOCが設立される以前の1596年から、オランダではいくつもの貿易会社がアジアへ商船
を派遣していました。その当時、各社は互いにしのぎを削っており、その結果、買い付
け価格の高騰とヨーロッパにおける販売価格の下落をまねくことになってしまったの
で、そうした不都合な状況に終止符を打つため、それらの貿易会社は大同団結を行っ
て、1602年にVOCが誕生することになりました。
世界で最初の株式会社と言われるVOCは、オランダ本国には「17人会」と呼ばれる
重役会がおかれ、アジアにおいてはバタビアに常駐した東インド総督と評議会がアジア
各国の商館や館員を統括しました。VOCは、商業活動だけでなく、オランダ本国より
立法権や交戦権、植民地経営権など国家に等しい特権を与えられ、アジア各地に拠点・
商館を設けて海上貿易に従事しました。
VOCにとって、日本のオランダ商館は極めて重要なものでした。その理由は、日本が
金、銀、銅をオランダ人に供給したことにあります。オランダ人はこれらの金属を
決済手段として使用することにより、アジア各地で胡椒・丁子をはじめとした香辛料
や様々な商品を買いつけ莫大な利益を得ました。
さて、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の時代には、キリスト教の布教でポルトガルや
スペインの宣教師が日本に来航しました。信長は南蛮文化に興味を示し宣教師を保護
しました。京都には南蛮寺が建てられ、他全国各地に教会や修道院が作られ、国内の
キリスト教信者が急速に増えていきました。1582年には「天正遣欧少年使節」として
少年4名(伊東マンショ、原マルチノ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン)が派遣され、
教皇グレゴリウス13世に謁見します。
豊臣秀吉は当初はキリスト教の布教には寛大でしたが、ポルトガル商人が日本人を奴隷
として海外に送り出していることが発覚、また教会が長崎で領地を所有するなど、
ゆゆしき事態になっていることに脅威をいだき、1857年に伴天連追放令によって宣教師
の追放を行い、その後キリスト教徒の弾圧を行い、1597年には26名の処刑を長崎で行い
ます。
徳川家康は朱印船制度を定めるなど海外との交易を奨励していました。 当初キリスト
教布教を黙認していましたが、1612年にキリスト教の禁止令を布告し、弾圧を強化して
いきます。1619年に京都で52名、1622年に長崎で55名、1623年に江戸で55名が処刑され
ます。
この信長・秀吉・家康の時代には、多くの日本人が海外に雄飛していき、日本人町が
アジア各地で繁栄していました。 ルソン島のマニラ、交趾(ベトナム)のツーラン、
フェフォ、シャム(タイ)のアユタヤ、カンボジアのプノンペン、ピニャール、それと
バタビアに多くの日本人が住んでおり、日本人町がありました。 しかし、日本が鎖国
するに伴い日本人町は急速に消滅していきます。 VOCとかかわりを持った人で有名
なのは次の通りです。
・貿易や軍事では山田長政、鄭成功、呂宋助左衛門 など。
・キリスト教弾圧により高山右近、お春などのように追放された人々や、関ヶ原や
大名家の改易などで浪人となった武士も多数密航していたと言われています。
鄭成功は父・鄭芝龍の時代から貿易を生業としていましたので、その船はアジア諸国を
巡っていましたし、山田長政、呂宋助左衛門も貿易で身を立てていましたので、当然
お互いのことは情報として知っていたと考えられます。また、お春も夫がVOCに勤務し
ていますので、アジアで活躍している日本人の噂を耳にしていたと考えられます。
・鄭成功 :1624(寛永元)年―1662(寛文2)年
・山田長政 :1590(天正18)年―1630(慶長7)年
・呂宋助左衛門:1565(永禄8)年 -(没年不明)
・お春 :1625(寛永2)年 ―1697(元禄10)年
<鄭成功について>
今では、「鄭成功(1624年~1662年)」の名前を知っている人は少なくなって来ている
と思いますが、近松門左衛門脚色の人形浄瑠璃「国性爺合戦」は、鄭成功の死後53年
たって上演され、3年間37カ月にも及ぶ長期の興行となりました。 また、歌舞伎でも
度々上演されているなど、庶民の人気を博してきました。
(注;浄瑠璃は近松門左衛門の創作ということで、「国性」と表現)
国姓とは、明朝の皇帝の姓である「朱」のことであり、鄭成功は朱姓を隆武帝(朱●鍵)
から賜ったので「国姓爺」と呼ばれています。(●は津のサンズイのないもの)
鄭成功は明の臣下である父・鄭芝龍と母・田川マツ(平戸の女性)との間に生まれた
日中混血児であったことも、日本で人気が出た理由の一つです。
鄭成功は、清の台頭で没落していく明の復権のために、「抗清復明」を掲げて戦います
が、結局敗北します。その後、1662年2月に鄭成功が台湾を征服しますが、その3ヵ月後
の1662年5月 38歳で病没します。
鄭成功の軍の中には、日本の甲冑を身に付け日本刀を持っていた「鉄人部隊」といわ
れる部隊があったと言われています。関ヶ原で敗れた西軍や徳川幕府によって取りつぶし
になった大名家の浪人が日本を逃れて、鄭成功軍に参加したものではないかと言われて
います。
なお、VOCの台湾長官 フレデリック・コイエットは台湾を退去してバタビヤに引き
上げましたが、ここで裁判を受け、死刑の判決を言い渡されますが、特赦で終身刑に
なり、2万5千グルテンの保釈金を積んで釈放され、オランダ本国に送還されました。
<じゃがたらお春について>
「長崎物語」の歌で有名な「じゃがたらお春」は、1625(寛永2)年、ポルトガル商船の
航海士であったイタリア人と長崎の貿易商人の娘(洗礼名マリア)との間に生まれます。
お春が14歳の1639(寛永16)年6月に第5次鎖国令が発布され、長崎に住んでいた外国人
との混血児とその母親が国外追放になり、10月に長崎に住んでいた32名(お春・母親・姉
の3名も含まれます)がバタビアに追放されます。
21歳の時に、平戸生まれのオランダ人との混血児で、VOCに勤務していた
シモン・シモンセンと結婚、3男4女をもうけます。 シモンセンは後年バタビアの
税関長に昇進、退職後も貿易商として活躍するほか、名士が就任するオランダ人協会
の長老として重きをなします。 お春は上流階級の婦人として優雅な生活を送ります。
一家はオランダへの召還命令を受けたこともありましたが、日本人の血筋であることか
ら、引き続き居住することを許されました。 シモンセンは1672(寛文12)年死去しま
すが、お春は莫大な遺産を相続、1692(元禄5)年に72歳で死去します。
<山田長政について>
山田長政は1590(天正18)頃、駿河国の駿府に生まれます。 駿府は徳川家康の居城
で、1607(慶長12)年に将軍職を秀忠に譲った後も、駿府で大御所として政治の実権を
ふるい、朱印状も駿府で発行されていました。 長政は、1612(慶長17)年に駿府の
豪商である太田治右衛門や滝左衛門の船で台湾を経由してシャム(アユタヤ王朝)に渡
ります。
アユタヤでは多数の日本人が国王の護衛兵を務めていました。長政はチャオプラヤー川
の水上警備隊長として、また、王宮護衛隊長として活躍します。 マニラのスペイン総督
が1621年と1624年の2度にわたり差し向けた艦隊との戦いに日本人義勇軍を指揮して勝利
して国王の信任を得ます。
この1624(寛永元)年に、長政は国王から官位「オークプラ」を、さらに、1627(寛永4)
年には最高の官位である「オークヤー・セーナピモック」を授かります。
一方で長政は貿易商人としても抜群の才覚を発揮し、マラッカ、バタビア、日本など
アジアとの交易を一手に引き受けます。 このための、1629年にはVOCはアユタヤの商館
を閉鎖し、撤退してしまいます。
1621(元和7)年、長政は日本人町の3代目頭領となっています。 この年にシャム国王は、
長政の斡旋により第2代将軍秀忠に使節団を送ります。 返礼として、将軍秀忠は長政に
正式に朱印状を授けます。1629(寛永6)には、長政の仲介で第3代将軍家光にシャム
使節団を送ります。 国王の死去により、アユタヤ王朝の後継争いに巻き込まれ、南部
リゴール州の知事(国王)に命じられ、戦で受けた傷が元で1630(寛永7)年、急逝
します。 毒殺ではないかとも言われています。(40歳)。
<呂宋助左衛門について>
呂宋助左衛門は、NHKの大河ドラマ「黄金の日々」で有名になりましたが1565(永禄8)
年に堺で貿易商人の子供として生まれ、天正年間からフィリピンやインドシナ方面に出
かけて貿易を行っていたと伝えられています。 ルソン壺など珍品の輸入で秀吉に気に
入られ、一躍豪商としての地歩を固めるものの、ぜいたく三昧の生活に石田光成らの反感
を買い、豊臣秀吉の逆鱗にふれ、全財産没収の処分を受けることになりますが、直前に
菩提寺である大安寺にすべてを寄進してルソンに脱出したと言われています。
1590年代にカンボジア王の要請でマニラのスペイン総督が艦隊を差し向けてカンボジア
の内政に介入していた頃、呂宋助左衛門はルソンからカンボジアに渡り、国王の信任を
得て、1607(慶長12)年頃には日本との貿易承認を管理する元締めの地位を与えられる
など、再び豪商になったとも伝えられています。(没年不明)
「マニラ」の日本人町
秀吉は天下を統一した後、海外まで侵攻しようとする野望を抱き、マニラのスペイン総督
に脅かしの手紙を送ったため、スペイン側は当時マニラに在住していた日本人を集め、
郊外のディオアラ地区に移住させたのが、マニラの日本人町の始まりです。朱印船貿易の
来航、キリシタンの亡命などによって、ディオラの町の人口は増えていきます。
ちなみに鎖国令の前、1623年には3000人に達していたようです。 しかし、鎖国令が公布
され頃には800人に激減し、その後は急速にさびれ時とともに消滅していきました。
なお、有名なキリシタン大名 高山右近 が1614年に追放され亡命したのも、マニラで
す。 そのころすでに、2000人の日本人がディオラ地区に住んでいました。これらの
人々は、キリシタンだけではなく、戦国時代のあぶれ浪人、海賊くずれ、商人、船員など
であり、日本人の海外流出の中で最も隆盛を誇った町とされています。
「交趾(ベトナム)」の日本人町
ツーラン、フェフォの両町に日本人町がありました。 交趾政府は外国商人に治外法権を
認めていたようで、住民の中から長を選び、自治に任されていました。 交趾政府は
キリスト教を禁止していましたが、日本人町にはその法令は及ばず、キリスト教徒は信仰
を捨てずにすんだようです。 従って、日本人にとっては、ツーラン、フェフォはどこ
よりもすみ易い町だったと思われます。 ツーランには日本が鎖国する前には60戸あまり
の日本人の居住者がいましたが、鎖国によって、日本との交流を絶たれた後は、消滅して
しまいました。
「(シャム)アユタヤ」の日本人町
シャムは当時、ルソンに次いで日本人が渡っていった国です。 シャムの首都アユタヤに
日本人町があり、その三代目頭領が有名な山田長政です。当時、数千人の日本人がいたと
されますが、他の日本人町とは違って、強力な武力集団を形成していました。
後年シャムの王位継承の争いに巻き込まれ、長政が謀殺され鎖国政策ともあいまって、
急激に人口が減少していきました。
「カンボジア」の日本人町
プノンペン、ピニャール(プノンペンの北25㎞にあり、水運の玄関口)の両町に日本人町
があり、それぞれ、3~4百人の日本人が住んでいたとの記録が残されています。
呂宋助左衛門がルソンから渡来して来て、国王の信任を得て豪商として活躍したと伝えら
れています。
「バタビア」の日本人町
1619年にジャワ島西部に築かれた城壁都市バタビアにはVOCのアジアにおける本拠地が
おかれていたので、日本に来航するオランダ船もバタビアを中継・経由するのを常として
いました。 最盛期のコロニアル風の街並みは「東洋の女王」と称され、そこから本国に
もたらされた莫大な富は、17世紀オランダの「黄金時代」の礎となりました。
1609年に平戸の商館が設置されて以来、多くの日本人が労働者や兵士として雇われ、
バタビアに輸送されています。 このため、朱印船貿易によって自主的に海外に移住した
他の日本人町とは様相が異なっており、バタビアでは日本人が集団で町をつくることは
なかったといわれています。日本人の多くのものは雇用の契約が切れると退職金をもら
い、自由市民となって独自に商売を始めました。 オランダ人が日本人移民300名の輸送
計画を立ててから7年間に日本から輸送した人数は次の通り。
1613(慶長17)年 68人
1615(元和元)年 67人
1619(元和9)年 90人
1620(元和10)年 100人(船が途中で沈没)
バタビアの日本人は、1623(元和8)年頃には300名位だったとされていますが、
1632(寛永9)年には108名に減少しているとの報告があり、お春がバタビアに着いた頃
には約100名の日本人が住んでいたものと考えられます。
「台湾」の日本人町
14世紀末頃から倭寇が東シナ海や南シナ海の沿岸を荒らしまわっていましたが、
台湾北部の基隆や淡水を根拠地としていたといわれていますので、倭寇をはじめとする
日本人が住んでいた思われます。15世紀になって足利幕府の取り締まりが強化され
次第に倭寇の活動が下火になっていきます。
台湾は、朱印船貿易の中継基地としての機能を果たしており、基隆、淡水、安平、高雄
に朱印船が立ち寄り、これらの各地には日本人街があったといわれています。
1598(慶長3)年に呂宋助左衛門が日本脱出してマニラに向かう途中、また、山田長政
が1612(慶長17)年にシャムにわたる途中に各々台湾に立ち寄ったとの記録があり、
さらに、1640(寛永17)年にお春などが追放されたときも台湾に寄港しています。
1622(元和8)年にオランダ人が台湾南部を占拠し、安平にゼーランジャ城を築いたとき
には、日本人が百数十名いたと記録が残っていますし、その数年後にスペインが北部を
攻略したときに、淡水にも日本人がいたとの記録が残っています。
1662年、鄭成功がオランダを駆逐し台湾を占拠、3ヵ月後に死去した後には、台湾を
支配下においた清は鎖国状態になり日本との関係も途絶えてしまいます。
「関係事項年譜」
1565(永禄8)年 :納屋(呂宋)助左衛門が堺に生まれる。
1573(天正元)年 :足利幕府崩壊・織田信長政権>
<1582(天正10)年:織田信長死去・豊臣秀吉実権握る>
1590(天正18)年 :山田長政が駿河国に生まれる。
1597(天正17)年 :秀吉がキリスト教司祭など26名を長崎で処刑
<1598(慶長3)年:豊臣秀吉死去・徳川家康実権握る>
1600(慶長5)年 :イギリスが東インド会社設立
1602(慶長7)年 :オランダが東インド会社設立(1619年バタビア獲得)
1609(慶長14)年:オランダが平戸に商館設置
1610(慶長15)年:山田長政が朱印船でシャムに渡航
1613(慶長18)年:イギリスが平戸に商館設置、伴天連追放令
1614(慶長19)年:高山右近らをマニラ国外追放
1616(元和2)年 :幕府が唐船以外の外国船の貿易港を長崎と平戸に限定
1621(元和7)年 :山田長政が日本人町の頭領になる。
1622(元和8)年 :オランダが台湾に商館設置
1623(元和9)年 :イギリスが平戸商館を閉鎖
1624(寛永元)年 :鄭成功が平戸で誕生(父:鄭芝龍、母:田川マツ)。
スペイン船の来航禁止
1625(寛永2)年 :お春が長崎で誕生(父:ポルトガル商船の航海士のイタリア人、
母:日本人)
1628(寛永5)年 :山田長政がアユタヤ王朝の最上位の官位である「オークヤー」
を授けられる
1630(寛永7)年 :山田長政死亡(40歳)、アユタヤの日本人町が焼き討ちされる。
1631(寛永8)年 :鄭成功が明国(福健省)に渡航(7歳)
1633(寛永10)年 :第1回鎖国令発布
1635(寛永12)年 :日本人の海外渡航・帰国を禁止
1636(寛永13)年 :長崎出島完成
1637(寛永14)年 :ポルトガル人との混血児290人をマカオに追放。
1637(寛永14)年 :島原の乱
1639(寛永16)年 :ポルトガル船来航禁止・出島から追放される。
オランダ人、イギリス人を含むすべての外国人との混血児との母親
の追放令発布(6月)。 お春追放(14歳、追放者は合計32名で、
母と姉も一緒)(10月)
1640(寛永17)年 :お春がバタビア着
1641(寛永18)年 :平戸オランダ商館を長崎出島に移す
1646(正保3)年 :お春がVOC社員のシモン・シモンセンと結婚(シモンは後年
税関長に昇進)
1662(寛文2)年 :鄭成功台湾攻略、東インド会社台湾長官 コイエット台湾から
退去
鄭成功死亡(38歳)
1697(元禄10)年 :お春死亡(72歳)
(2010年6月18日 ☆きらきら星☆)