花熟里(けじゅくり)の静かな日々

脳出血の後遺症で左半身麻痺。日々目する美しい自然、ちょっと気になること、健康管理などを書いてみます。

退院に向けてのリハビリ

2010年03月27日 18時17分45秒 | リハビリ・健康管理

私が入院していた回復期リハビリ病院では、通常は3ヶ月(正確には発症後)で退院とな

ります。 病院から言われた訳ではないのですが、患者同士では、3ヶ月までと話していま

た。 実際ほとんどすべての患者が3ヶ月で退院になっています。 少しでも歩けるよう

になった人は自宅に帰りますし、若くてまだ歩けない人は、別の病院に転院する場合があり

ます。また老健等の施設に入る人もいます。 



リハビリに健康保険が適用されるのは、発症後6ヶ月間ですが、入院後3ヶ月までと4ヶ月目

以降とでは、診療報酬額が大幅に異なること。これは、厚生労働省指導の‘退院率’という

基準があり、病院は3ヶ月目でこの退院率をクリヤーしないと経営的に大きな影響を被ると

テレビ報道されていたのを思い出します。 退院率基準は現在も変わっていないのではない

かと思います。



さて、入院後3ヶ月目にはいると退院に向けての様々な取り組みが出てきます。 私の場合

を紹介します。


①自宅復帰を前提にして、階段の上り降り訓練、並びに自宅の風呂、トイレの確認

 療法士から妻に家庭内の段差(玄関、風呂場、トイレ その他)の確認のために、段差部

 分の寸法を記入した写真を提出するよう求められました。私の自宅(集合住宅)は道路か

 ら階段(15段)があることが分かると、療法士は、この階段を想定し、ほぼ同じ段差の上

 り下り訓練を開始しました。 「この階段を上り下りできなければ、お家に帰れません 

 よ」と言いながら。

 また、3ヶ月目も中盤になると、一時帰宅時も行いましたが、療法士が自宅に来訪し、自

 宅マンションの入り口階段の上り降りの確認、浴槽の出入り、便座に着座のときの体の動

 きを確認し、さらに取り付け予定の手すりの位置の指導を受けました。


③会社復帰を前提にして、公共交通機関の利用訓練

 退院も秒読みになって来ると、療法士が付き添って、実際にバスに乗り降りする訓練、 

 駅で実際にエスカレーターに乗り降りする訓練、電車に乗り次の駅まで行き、帰って来 

 て降車する訓練、さらに駅の階段を上り下りする訓練 などを受けました。 



このように退院に向けて実にきめ細かな対応をしていただき、お陰をもってスムーズに自宅

での生活に帰ることが出来ました


 (花熟里)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「仰げば尊し」について

2010年03月25日 17時38分32秒 | ちょっと気になること
「仰げば尊し」を卒業式で歌っている今時珍しい学校ということで、23日にフジテレビの

「特ダネ!」で首都圏の3つの中学校の先生へのインタビューや歌唱指導の様子、卒業式当

日の模様を交えて放送されました。 フジテレビでは、無作為に抽出した全国の100の中学

校に卒業式で仰げば尊しを歌っているかを聞いたところ、歌っている学校は20校だったとの

ことです。

一昔前ならば、卒業式と言えば「仰げば尊し」であり、「蛍の光」だったと思いますが、現

在ではどのような歌を歌っているのか、朝日中学生新聞にメールアンケートの結果がでてい

ます。

・旅立ちの日に(秩父市の影森中学校の小嶋登校長作詞)
・手紙(アンジェラアキ)
・ベストフレンド(kiroro)
・3月9日(レミオロメン)
・大地讃頌(大木淳夫作曲、佐藤真作曲、カンタータ「土の歌」第7楽章)
・巣立ちの歌(村野 四郎作詞、岩河 三郎作曲)
・Believe(杉本竜一.作詞作曲)
・オレンジ(SMAP)
・さくら(森山直太朗)
・旅立ちの時(鈴木憲作詞、久石譲作曲)
・その他
*「仰げば尊し」や「蛍の光」も少数ですが出てきます。


仰げば尊しといえば、日本テレビで放送された「女王の教室」の最終回で、鬼女教師 阿久

津 真矢(天海 祐希)を前にして生徒全員が仰げば尊しを合唱する場面を思い出します

が、なんといっても感動的なのは、竹山 道雄の名作「ビルマの竪琴」の映画の終盤のシー

ンです。 捕虜収容所の日本人兵士の前に、消息が分からなくなっている同僚の水島上等兵

と思しき僧侶が姿を現したので、日本人兵士たちが、皆でよく歌った「埴生の宿」を合唱す

ると、僧は「仰げば尊し」を竪琴で奏で、皆の前から去っていきます。映画を見た日本人の

多くが涙した場面と思います。


仰げば尊しが歌われなくなった理由については、①歌詞が文語調で理解するのが困難、②教

師と生徒は人格において対等であり、強制して師を仰ぐのは良くない、③2番の歌詞「身を

立て 名をあげ」が立身出世を煽るものであり不適切である、等々が挙げられています。


生徒が人生の先輩である教師と人格的に対等であり、両者は友人的な関係が望ましいという

近年の教育界の論理にも納得できませんし、「身を立て名をあげ」を一昔風に「末は博士

か大臣か」や「組織のトップに上り詰める」などと堅苦しく解釈するのではなく、もっと柔

軟に「一人前になり、周りの人から一目おかれるような人になりなさい」と解釈すれば、現

代っ子にも十分理解できるのではないでしょうか。

また、文語体であるからこそ、雰囲気が伝わってくると思います。 論語の素読 というの

があります。 細かいことは理解できなくても、とにかく丸暗記する。 その意味するとこ

ろは、成長するにつれて少しずつ分かってくる というものです。仰げば尊しも何回も歌い

こんでいくうちに、理解できてくるのでよいのではないのでしょうか。


SMAPの歌う仰げば尊しの歌詞に次の「RAP」の部分がありますが、すばらしいですね。

<RAPは2番目の次に入ります>
(RAP)「とうさん かあさん everybody friends どうもありがとう
     今日やっとこの学校卒業できて 先生方にも感謝しなくちゃ 
     いままで いろんな仕打ちされたけど もう 僕は平気だ
     今日から僕一生縣命がんばるからさ ねえ Teacher  」


「仰げば尊し」  明治17年 文部省唱歌
        (作詞・作曲ともに不詳とされているが、大槻文彦・里見義・加部厳夫
         の合作という説もあり)
        
(一)仰げば 尊し 我が師の恩
   教えの庭にも はや幾年(いくとせ)
   思えば いと疾(と)し この年月
   今こそ 分れめ いざさらば

(二)互いに睦みし 日ごろの恩
   分かるる後にも やよ 忘るな
   身を立て 名をあげ やよ励めよ
   今こそ 分れめ いざさらば

(三)朝夕 馴(な)れにし 学びの窓
   蛍の灯火(ともしび) 積(つ)む白雪
   忘るる 間(ま)ぞなき ゆく年月
   今こそ 分れめ いざさらば

以上(花熟里)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ある風景

2010年03月22日 17時40分32秒 | 自然
週末の散歩のときに近所の住宅造成地を通ります(今日22日はは休日)。 昨年暮れごろ造

成が始まり、現在「60年定期借地権付」で売り出し中ですが、昨今の不景気を反映してか、

売れ方もゆっくりとしているようですが、すでに数戸建築中です。

写真は販売業者が事務所用に使用しているキャンピング・カーです。 前の方は車で引くた

めの金具がついており、後ろ側には自転車が取りつけてあります。 車体には犬の絵が大き

く書かれており、なかなかしゃれていますね。 一般的にはプレハブで事務所を作ると思い

ますが、このような事務所も良いですね。





<☆ きらきら星 ☆>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ブンガサクラ(さくらの花)」

2010年03月20日 13時47分14秒 | インドネシア
こころの友 インドネシア(3)

「ブンガサクラ(さくらの花)」


松任谷由実の曲に「スラバヤ通りの妹へ」というのがあります。スラバヤ通りはジャカルタ

市内にあるアンティークや雑貨を売る店がところ狭しと立ち並んでいる有名な通りで、別名

「泥棒市場通り」とも呼ばれています。会社で盗難にあった工具類は翌日にはスラバヤ通り

で売っているとのまことしやかな話を耳にします。幸いに我々の会社ではこういうことはあ

りませんでしたが。


1994年ジャカルタ郊外のボゴールで開催された「APEC首脳会議」に出席したアメリカの

クリントン大統領が、お忍びでスラバヤ通りに立ち寄ったことが欧米のマスコミで報道され

て以来、欧米人や日本人観光客が多くが訪れるようになりました。2005年に開催された

愛・地球博の最終日の音楽イベント「Love The Earth 」のステージで、松任谷由実がこ

の「スラバヤ通りの妹へ」などアジアを歌った19曲を熱唱し、“アジアは一つ”をアピー

ルしました。


インドネシアで活躍している日本人歌手と言えば、上田正樹 でしょう。(「悲しい色やね

ーOsaka Bay Blues」で有名です) 2000年にR&B歌手である レザ(Reza)とデ

ュエットで「日本語版:Forever Peace、インドネシア語版:Biar Menjyadi Kenangan

(思い出になるに任せよ)」を発売、ジャカルタのハードロックカフェでリリースパーティ

を開きました。同年10月にはインドネシアヒットチャート1位になりました。このアルバ

ムは日本とインドネシア同時に発売され、フジテレビがインドネシア・マレーシア・シンガ

ポールの各放送局と共同制作している新人歌手登竜門である「アジア・バグース」のスペシ

ャル番組でも両者が共演しましたので、ご存知の方がいると思います。  上田正樹は、

翌2001年には、インドネシア最大のレコード会社からソロアルバム「Hands of 

time」を発売しました。現在バリ島に住居を構えています。
 

年配者が好んでいる歌はやはり「愛国の花」でしょう。 従軍看護婦を歌った軍国主義の歌

として戦後の日本では疎まれてきましたが、ワルツ調のしっとりとした情感のあるすばらし

いメロディと思っています。「真白き富士の気高さを心の強い盾として」で始まるこの歌を

スカルノ大統領が大好きで、インドネシア語で「ブンガサクラ」(さくらの花)という題で

作詞し愛唱したと言われています。 スカルノ大統領作の歌詞の日本語訳は次のとおりで

す。

  
桜の花は 美しく      
そして輝いています   
日本のどこにでもある花
日本国民が誇りに思っている花      
インドネシアではジャスミンを  
国民が誇りに思っています       
これらの花は私たちのアジアを  
ひとつに繋ぎます

ジャスミンと桜は        
いずれも平和を望むしるしのようです  
ひとつのアジアに向かって    
平安 平和 理想に向かって
これらの花は私たちのアジアを  
ひとつに繋ぎます


逆に日本で知られているインドネシアの歌といえば、なんと言っても「ブンガワンソロ(ソ

ロ河の流れ)」でしょう。 1940年に作曲されましたが、インドネシアを代表する歌と

して国民に親しまれています。日本の軍政は1942年からはじまりますが、日本軍の兵士

が最も好んで口ずさんでいたインドネシアの歌がブンガワンソロといわれています。日本で

は1948年に松田トシが日本語の詩をつけて歌い、日本中で知られるようになりました。

作曲者のグサンが1994年に来日、東京と横浜でコンサートを開催した時には、インドネ

シアから復員した人が多くつめかけ、会場が満員の盛況になり、しかもコンサートの最後に

グサンが歌う「ブンガワンソロ」にあわせて客席の皆さんがインドネシア語で一緒に歌い、

大合唱になりました。


(2007年記:★☆きらきら星☆★)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

利き手が麻痺した場合のリハビリ

2010年03月17日 17時41分11秒 | リハビリ・健康管理

脳卒中で利き手が麻痺した場合のリハビリは、麻痺した手をリハビリする方法と 利き手交

換といって、麻痺とは反対側の手を重点的にリハビリする方法があります。右利きの人の場

合、利き手交換により、左を使うことには相当抵抗があるのではないかと思います。


左利きの場合は、現在はそうでもないかもしれませんが、一昔前には、字を書いたり、食事

をするときには、親から強制的に右手を使用させられたものです。 私は左利きですが、子

供のころ親から右手の使用を強制させられたおかげで、ほとんどのことは右でも出来ます。

両手を使えるということで、友人などから羨ましがられたりもしていました。 多分、左利

きの人は私同様に左右両方が使える人が多いのではないかと思います。


私は脳出血により左半身が麻痺したために、利き手の左が動かなくなってしまいました。

しかし、医師も療法士も私が左利きとは気づかなかったと思います。 ごく自然に麻痺して

いる左手のリハビリが行われました。 

私は、入院した直後から現在に至るまで、食事をはじめ、出来るだけ左手を使おうと心がけ

ています。 日常の生活動作は右手で何とかなりますが、当たり前のことですが、両手が使

えないとなにかと不便なのです。


入院して間もない頃は顔を洗う時、左手が動かないので、右手で左手を支え両手を揃えてお

いて、顔を動かしていましたし、歯磨きも歯ブラシではなく、歯を動かしました。 退院す

る頃には、洗面、歯磨きのほか、左手で箸を持ってなんとか食事が出来るようになりまし。


麻痺の回復には通常長い時間がかかる場合が多いので、数か月で退院させなければならない

リハビリ病院では、右利きで右麻痺の場合には、退院後に生活の早期自立が求められる場合

や早期に勤務に復帰することを考慮すると、どうしても短期間に効果の現れる利き手交換を

勧めることが多いのではないかと思います。 従って、麻痺した手のリハビリは、入院中、

さらには退院後も自主的に継続して行うことになり、患者の強い意思が重要になります。 


利き手交換と麻痺手のリハビリを上手に並行して行うことにより、退院後の生活を1日でも

早く潤いのあるものにしていくことも、選択してよいのではないかと思います。

もっとも、病院で両方を実施してくれれば一番良いのでしょうが、退院まで数か月という限

られた時間の中では、両方を行うのは現実的に無理なのでしょうから。


(花熟里)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする