花熟里(けじゅくり)の静かな日々

脳出血の後遺症で左半身麻痺。日々目する美しい自然、ちょっと気になること、健康管理などを書いてみます。

インドネシアの伝説:「北の方から来た黄色い人(ジョヨボヨ王の予言)」

2011年02月25日 17時52分42秒 | インドネシア

最近インドネシアが東南アジアにおいて存在感を盛り返してきているようです。2004年に

スシロ・バンバン・ユドヨノ大統領が誕生して以来、アチェ州の混乱やイスラム過激派

を封じこめるなど難問を着々と解決するに伴い、政治的・治安上の安定も取り戻し、さら

に経済発展も2010年に6.11%を達成、 一人当たり名目GDPも3,000ドルを上回りまし

た。 外資の新規投資も活発になってきています。 


9月2日の香港の英字新聞 「アジアタイムズ」は、今後東南アジアで最も有望と評価され

ているインドネシアがBRICs(ブラジル、ロシア、インド、中国)に加えられる可能性が

あると報じています。 1998年からの長い低迷期を抜け出して、再び東南アジアの大国と

して復活しつつあるようです。 


去る2月16日のユドヨノ大統領の発言(朝日新聞17日版)には、順調な経済成長を続けて

いること、世界最大のイスラム教徒を抱えながら民主主義が定着していること、などを背

景に、「地域や国際社会の抱える問題の解決の一助を担いたい」として「国際社会で重要

な役割を果たす時が来た」と語っています。 具体的には、イスラム世界と西側社会をつ

なぐ「橋の役割」を果たしたいと述べ、さらに、エジプトの民主化には「民主主義を保障

する憲法と法律の順守、公正な選挙と軍の中立、国際社会の支持」が必要と述べていま

す。また、アセアン諸国との南シナ海における南沙諸島、西沙諸島などの領有権問題解決

のために、「多国間対話に参加するように中国を説得する」と積極的な姿勢を見せていま

す。 

インドネシアはもともと中国と友好な関係にあり、中国の説得役はうってつけという感じ

です。 いずれにしても、中国が一目置く地域の大国「インドネシア」の動向に注目が集

まります。


さらに、ユドヨノ大統領は日本について、「対日関係は重要だ。日本にはインドネシアへ

の投資の機会が来ていると言いたい。日本と組んでインドネシアの食糧や水を供給するこ

とが出来るし、エネルギー関連の産業の発展も両国に利益をもたらす」と述べています。

 スハルト第2代大統領時代後半には日本企業のインドネシア投資ラッシュがありました

が、、通貨危機後のインドネシア政治の混乱などの影響もあり、日本企業はインドネシア

投資に及び腰になってきました。 この間、韓国が投資攻勢をかけて、今や韓国企業がイ

ンドネシアを席巻しています。



インドネシアは日本とは戦中・戦後ともに友好な関係を続けてきましたが、ユドヨノ大統

領の呼びかけを受け止めて、日本企業にはさらに投資を拡大していただきたいと思いま

す。 中国一極集中から抜け出すよい機会でもあるのですから。




「こころの友 インドネシア- 11」


北の方から来た黄色い人(ジョヨボヨ王の予言)

インドネシアはイスラム教徒が国民の85%を占めますが、かつてはヒンズー教が支配的

な時代がありました。いまでもインドネシア人の心の奥底にはヒンズー的な発想や信条が

残って居るようで、迷信深い人が多く、超能力者による占いや呪術・魔術といった類のも

のが広く行われています。スハルト第2代大統領は、重要なことを決断する前には、故郷

の洞窟に篭もり、瞑想に耽ったと言われています。「ジョヨボヨ王の予言」といわれるも

のもヒンズー時代から伝わるものです。

12世紀前半東ジャワにクディリという王国があり、最盛期にジョヨボヨという王がおり

(在位凡そ1135年―-1157年)、この王が宮廷詩人に命じて古代インドの「マハ

ーバーラタ」をジャワ風に翻案させました。これが、古代ジャワ語で書かれた「パラダユ

ダ」として知られており、今でも中部ジャワのソロの王宮に保存されていると言われてい

ます。このジョヨボヨ王の予言は、19世紀後半に、ワヤン(影絵芝居)で演じられたの

で、民衆の間で広く、深く信じられるようになりました。日本軍がオランダを放逐した時

には正に、この予言が実現したものとして民衆が狂気しました。予言は様々な異説が生ま

れていますが、おおよそ次ぎの通りだそうです。


「わが王国に混乱が生じるが、どこからか現れる“白い水牛”の人に長期に支配されるで

あろう。彼らは魔法の杖を持ち、離れた距離から人を殺すことができる。北の方から“黄

色い”人が攻めてきて、白い人を追い出し、代わって支配するが、それはトウモロコシ一

回限りの短い期間である。 その後、男は女のように、女は男のようになり、世は麻のよ

うに乱れ(犯罪や不正が横行し、道徳は退廃し、ジャワ語の敬語法も乱れる)、加えて、

飢饉や伝染病が蔓延し、転変地異も起こる。やがて白馬にまたがる正義の神(ラトゥ・ア

ディル)が登場し、永遠の平和と幸福が約束される。」最後の部分は、“天から白い布を

まとって降りてくる”というのもあるそうです。


16世紀にオランダが支配するようになり、約350年という長期間続くことになります。

1942年に日本がオランダを破り支配を始めます。 予言のとおり、オランダ(鉄砲を使う

白い肌の人)の長期支配があり、その後北方からきた黄色い人は日本人でした。これを見

て、インドネシア人は、ジョヨボヨ王の予言を確信したに違いありません。

スマトラ島のパレンバンでの落下傘部隊は「天から白い布をまとって降りてくる人」にな

ぞらえられたとも言われています。日本軍がジャワ島始めインドネシアに侵攻した時は、

インドネシア各地で、メラプティ(後にインドネシア国旗となる紅白旗)とインドネシア

ラヤ(後にインドネシア国歌となる)の大合唱で迎えられたのです。このため、オランダ

全面降伏まで、わずか8日しか掛かりませんでした。しかし、日本のインドネシア統治は3

年5ヶ月の短期間に終わりました。まさに「トウモロコシ一回かぎりの短い間」です。 

これも予言通りです。


ちなみに、ジョヨボヨ王の予言では、指導者の名は「NO―TO―NE-GO―RO」の順となって

いるとされています。 初代大統領スカルノ(Sukarno)と第2代大統領スハルト

(Suharto)は的中。さて、次ぎのNE は誰れでしょうか? 少なくとも第3代のハビビ

(Habibi)、第4代ワヒッド(Wahid)ではありません。第5代メガワティ

(Megawati)、はTI ですし、第6代ユドヨノ(Yudhoyono)は似ていますがNOであり、

NEではありません。 



また、ジョヨボヨ王の予言には次のようなものがあります。

 「将来、線が地上に巻きつき(電報?)、遠距離でも話ができるようになり(電

話?)、馬なしの車が走り(汽車)、距離がたいした問題ではなくなる(飛行機?)。そ

の後ジャワ歴1970年<=西暦2039年>に白人に対する聖戦が勃発する。」

最後の2039年の聖戦は、アジアがアングロサクソンの欧米に対して反転攻勢にでるこ

とを示唆しているのでしょうか。

近年インドネシアでは西スマトラ沖の地震・津波、中部ジャワのジョグジャカルタ近辺の

地震を始め、各地で災害が発生しています。ジョボボ王の予言が今まさに起こっているか

のようです。何事にも迷信深いインドネシア人の間では次のような噂(予言?)が広まっ

ているそうです。

「インドネシアは現在神によって制裁を受けている。アチェやジョグジャの天災はそのた

めに起きたが、そこで天災は終わらない。神の制裁の最終地点はジャカルタに来る。その

とき、ジャカルタは水の中に沈没するであろう。」


(メモ作成:2006年)




上述のように、ジョヨボヨ王の指導者の名前の予言とは異なりますが、現在のユドヨノ大

統領は、政治的な派手さはありませんが、ジャワ人特有の粘り強さと‘ムシャワラ’(対

話の精神)を実践し、様々な課題を着実に解決して実績を積み重ねていくのを見てくる

と、過去のスカルノやスハルトのようなカリスマ性のある偉大な大統領ではないものの、

「名大統領」として後世に名を残すのではないかと思います。



<2011年2月25日 ☆きらきら星☆>
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聖徳太子 遺跡霊場 

2011年02月17日 17時38分55秒 | リハビリ・健康管理
私は、若い時分に兵庫県内・大阪市内・大阪府内の各事業所に勤務しました。 関西勤務

ということもあり、京都や奈良などの有名な寺社を訪れましたが、会社の先輩に連れられ

て、札所(霊場)巡り‘もどき’もしました。 即ち、御朱印帳をもって「西国三十三箇

所」び「新西国三十三箇所(+客番五箇所)」の札所を巡りました。 その後、東京への

転勤や海外勤務もあり、札所巡りは遠のいてしまい、御朱印帳のことなどすっかり忘れて

いましたが、先般、このブログで触れた「鶴林寺(兵庫県加古川市)」≪2011年1月15日

付の記事で滝野瓢水の句碑あり≫ は拝観したことがあり、そのときの御朱印帳が残って

いることを思い出しました。 鶴林寺 は「聖徳太子御遺跡霊場(二十八箇所)」の第二

十七番(並びに新西国札所の第二十七番)の寺です。 この「聖徳太子御遺跡霊場」は西

国・新西国の札所ほどには知られていません。鶴林寺を新西国の札所として拝観した時

に、住職の方から聖徳太子霊場でもあると教えてもらったことを思い出しました。 聖徳

太子霊場として御朱印を頂いたのは、二十七番の鶴林寺と二十八番の飛鳥寺のみです。

 

聖徳太子御遺跡霊場の御朱印帳(昭和46年7月版)の序文より転記します。

『今から千三百年前、聖徳太子は海外と国交を結び、彼地の優れた文化を移入して国民生

活の向上を計りになり、また十七条の憲法を制して吾等の指針をもお示しいただいた。殊

にその第一条にある和の精神は、今日の世界において一層の必要が感ぜられる。このとき

に当たり、太子の御遺跡を巡礼し、膚を以って太子の偉大な御精神に触れたいと思うもの

である。』






第二十七番  鶴林寺  (刀田の太子)

『聖徳太子が奏川勝に命じて建立遊ばした寺とつたえ、欽明天皇十三年仏教伝来の当時高

麗僧恵便のいたのは此の地と云い、又、敏達天皇十二年帰朝の日羅と太子とが面会された

のもこの処と云い伝えている。建築では国宝本堂・太子堂・重文常行堂・袴腰鐘楼・護摩

堂・行者堂がある。寺宝には太子絵伝・太子画像・銅造聖観音立像・朝鮮鐘以下重文十三

点がある。銅造聖観音立像は法隆寺夢違観音と並び称せられる奈良時代の優作である。』







第二十八番  斑鳩寺  (斑鳩の太子)


『聖徳太子が推古天皇のために勝曼経・法華経を講讃遊ばした御礼として賜った播磨の水

田五十万代の中央にあり、もと寺領を管理する別院のようなものであったが、後寺になっ

たと思われる。現在の境内地五,三〇〇余坪・仁王門・三重塔(重文)・鐘楼・太子堂・

講堂・庫裏・宝庫、並びに塔頭宝勝院が甍をつらね大伽藍の面目を今も保持している。太

子堂には植髪霊像を祀り、講堂には釈迦・薬師・観音の三体を安置するが尚寺宝として日

光月光十二神将・紺紙金泥釈迦三尊十六羅漢図、太子勝曼経講讃図等があり、共に重文で

ある。』






【聖徳太子 御遺跡霊場】

一番   四天王寺      (和宗総本山:大阪市天王寺区):新西国壱番

二番   大聖勝軍寺     (真言宗:大阪府八尾市)

三番   道明寺       (真言宗御室派:大阪府藤井寺市)

四番   西琳寺       (高野山真言宗:大阪府羽曳野市)

五番   野中寺       (高野山真言宗:大阪府羽曳野市)

六番   叡福寺       (【太子宗】単立寺:大阪府太子町):新西国客番

七番   世尊寺       (曹洞宗:奈良県大淀町) 

八番   橘 寺       (天台宗:奈良県明日香村):新西国十番

九番   定林寺       (【浄土宗】無住寺:奈良県明日香村)

十番   金剛寺       (浄土宗:奈良県明日香村)

十一番  飛鳥寺       (真言宗豊山派:奈良県明日香村):新西国九番

十二番  向原寺       (浄土真宗本願寺派:奈良県明日香村)

十三番  日向寺       (浄土宗:奈良県橿原市)

十四番  法隆寺       (聖徳宗総本山:奈良県斑鳩町)

十五番  中宮寺       (聖徳宗:奈良県斑鳩町)

十六番  法輪寺       (聖徳宗:奈良県斑鳩町)

十七番  法起寺       (聖徳宗:奈良県斑鳩町) 

十八番  成福寺       (【聖徳宗】廃寺:奈良県斑鳩町)

十九番  達磨寺       (臨済宗南禅寺派:奈良県王子町)

二十番  信貴山 朝護孫子寺 (信貴山真言宗総本山:奈良県平群町)

二十一番 平隆寺       (融通宗念仏宗:奈良県三郷町)

二十二番 額安寺       (真言律宗:奈良県大和郡山市)

二十三番 大安寺       (高野山真言宗:奈良市大安寺町)

二十四番 広隆寺       (真言宗御室派:京都市右京区)

二十五番 六角堂       (天台宗:京都市中京区)

二十六番 中山寺      (真言宗中山寺派大本山:兵庫県宝塚市):西国二十四番

二十七番 鶴林寺       (天台宗:兵庫県加古川市):新西国二十七番

二十八番 斑鳩寺       (天台宗:兵庫県太子町):新西国三十二番


この中で、一番 四天王寺、 八番 橘寺、 十四番 法隆寺、 十五番 中宮寺、 

二十四番 広隆寺、 二十六番 中山寺、 は、聖徳太子霊場としてではなく、一般の拝

観や西国・新西国の霊場として拝観しています。 西国・新西国の霊場の御朱印帳は残念

ながら紛失してしまっています。



聖徳太子の時代は、中国大陸では「随」が統一をなしとげ、周辺諸国に朝貢の圧力をかけ

始めます。朝鮮半島の百済や新羅、高句麗などのから多くの渡来人が渡ってくるようにな

り、彼らが新しい技術や仏教や様々な文化を伝えます。 太子はこのような急速な国際化

(開国)が求められる時代に必要なのは、まず国内の諸豪族が、小異を捨てて大同につ

き、一致して纏ることが必要なこと、さらに、自分たちとは全く異なる考え方の人々を排

除することなく、お互いの違いを認めあい、理解し、尊重して、対話をすることで物事を

解決すべきであると説いているように思われます。 「随」の煬帝あての有名な国書(日

出ずるところの天子・・・で始まる)にも示されている通り、太子は当時の世界で唯一の

超大国である「随」に対して臆することなく、毅然として対等な国交を求めています。

また、17条の憲法の中で聖徳太子が示された精神や心構えは、今の日本でもそのまま当て

はまるのではないでしょうか。 政治家の皆さんには、国益とは何かを改めて聖徳太子か

ら学んでいただきたいと思います。さらに、政治家・公務員の皆さんには、この17条の憲

法を是非読んでいただきたいと切に思います。



「聖徳太子 17条の憲法」【金治勇『聖徳太子のこころ』(大蔵出版)を要約引用】

1 和をなによりも大切なものとし,いさかいを起こさぬことを根本としなさい。

   「和を以って貴しとなし、忤(サカラ)うこと無きを宗とせよ」


2 あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。三つの宝とは,仏・法理・僧侶のことである。   
 
   「篤(アツ)く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧なり」


3 天皇の命令を受けたならば、必ず謹んでそれに従いなさい。

    「詔(ミコトノリ)を承(ウ)けてはかならず謹め」


4 政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本に持ちなさい。 

    「群卿百寮(グンケイヒャクリョウ)、礼をもって本(モト)とせよ」


5 官僚たちは饗応や財物への欲望を捨て、訴訟を厳正に審査しなさい。

    「餮(アジワイノムサボリ)を絶ち、欲(タカラノホシミ)を棄てて、明かに訴

    訟(ウッタエ)を弁(ワキマ)えよ」


6 悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。

   「悪を懲(コラ)し善を勧むるは、古の良き典(ノリ)なり」


7 人にはそれぞれ任務がある。それにあたっては職内容を忠実に履行し,権限を乱用

  してはならない。
    
    「人各(オノオノ)任有り。掌(ツカサド)ること宜しく濫(ミダ)れざるべ

     し」


8 官吏たちは朝早くから出仕し,夕方おそくなってから退出しなさい。

    「群卿百寮、早く朝(マイ)りて、晏(オソ)く退け」


9 真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければならない。事の善し悪しや成否

  はすべて真心のあるなしにかかっている。

    「信はこれ義の本(モト)なり。事毎(コトゴト)に信あれ。それ善悪成敗は必

    ず信にあり。」

10 心の中の憤りをなくし、憤りを表情に出さぬようにし、ほかの人が自分と異なった

   ことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれ

   だと思うことがある。

     「忿(ココロノイカ)りを絶ち、瞋(オモテノイカリ)りを棄て、人の違(タ

     ガ)うを怒らざれ。人みな心あり。心おのおの執(ト)るところあり。」


11 官吏たちの功績・過失をよく見て、それに見合う賞罰を必ず行いなさい。

      「功過(コウカ)を明らかに察して、賞罰必ず当てよ」


12 国司国造(地方の役人)は勝手に人民から税をとってはならない。

     「国司国造、百姓(ヒャクセイ)に斂(オサ)めとることなかれ」


13 色々な官職に任じられた者たちは、前任者と同じように職掌を熟知するように   
  
   しなさい。前のことなどは自分は知らないと言って、公務を停滞させてはならな

   い。
   
     「もろもろの官に任ずる者同じく職掌を知れ。それあずかり聞くことなしと言

      うを以って、公務を妨ぐることなかれ。」


14 官吏たちは嫉妬の気持ちを持ってはならない。自分がまず相手を嫉妬すれば、 
 
   相手もまた自分を嫉妬する。 嫉妬の憂いは果てしない。

    「群卿百寮、嫉妬あることなかれ。われすでに人を嫉(ネタ)めば、人ま

        たわれを嫉む。 嫉妬の患いその極(キワマリ)を知らず。


15 私心を捨てて公務にむかうのは、官吏たるものの道である。

      「私に背きて公に向うは、これ臣の道なり」


16 人民を使役するには、その時期をよく考えてする、とは昔の人の良い教えである。

       「民を使うに時をもってするは、古の良き典なり」


17 ものごとは一人で判断してはいけない。必ずみんなでよく議論して判断しなさい。

   ささいなことは、必ずしも皆で議論しなくてもよい。

      「それ事は独り断(サダ)むべからず。必ず衆とともによろしく論(アゲツ

      ラ)うべし。少事はこれ軽(カロ)し。必ずしも衆とすべからず。」


 

このブログを書きながら中途に終わった札所巡りを復活させたいという思いが強くなって

きています。 今は東京に住んでいますので、関東の札所巡り((秩父三十四箇所、坂東

三十三箇所など)も考えられますが、やはり、かつて行ったことのある関西地区の札所巡

りに気持ちが向きます。 但し、今は麻痺した体のリハビリを優先して、退職し、体調に

も自信がついた時に札所巡りができたら良いと思っています。


(2011年2月17日 ☆きらきら星☆)

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「今村 均 大将に見る指導者の条件」

2011年02月11日 10時11分21秒 | インドネシア

旧日本軍については、占領地域での圧政が話題になりますが、私が駐在していた

インドネシアでは、東南アジアの他の地域などとは違い、現地住民重視の軍政が敷か

れました。 


「陸軍大将 今村均 ― 人間愛を持って統率した将軍の生涯 ― 」

(秋永芳郎著:光人社NF文庫)


私はこの本をインドネシア駐在員時代に読み、深い遺憾名を受けましたが、NHKの

「ゲゲゲの女房」で水木しげる氏のラバウル時代も触れていたことなどもきっかけに

なり、今村将軍がラバウルの軍司令官だったことを思い出して、読み返してみました。


上記本によると、ジャカルタ(第16軍、昭和17年3月1日上陸)やラバウル(第8方面軍、

昭和17年11月8日付)司令官時代には部下に慕われ、囚われたオーストラリア軍からも

畏敬の念を持って遇せられた今村将軍の軍政の方針が住民の重視によるものだったこと

が分かります。ジャカルタでの司令官時代には、スカルノやハッタなど、独立運動の

中心人物となるインドネシア人からも厚い信頼を得ていますし、ラバウル時代には、

制空権のない中で、7万人とも言われている将兵を飢えさせないために食料自給をおこ

なうなど、先見性のある傑出した人物でした。 


今村将軍は、陸軍大学 第27 期を首席で卒業(同期の東条英機は11番)しています。

ぬきんでた秀才でありながら、それをおくびにも出さず温厚なタイプだったようです。

今村司令官はジャカルタ在任わずか10カ月で、新設の第8方面軍司令官としてラバウル

に転出しますので、今村均という名前は、スカルノなど直接接触した一部の人を除き、

インドネシアの人々の中には深く刻まれなかったものと思われます。


なお、ジャカルタ海軍武官府の前田精少将は、第16軍のジャカルタ進出時から終戦ま

でジャカルタで活躍した上に、1945年8月15~17日にインドネシア独立宣言の起草が

前田邸で行われたこともあり、独立に寄与した日本人としてインドネシア人に広く知

られています。(旧前田邸は今も独立宣言文起草博物館として公開されています。

私も数回見学しました。)



今村将軍のジャカルタ時代の軍政とラバウルでの食糧自給について上記書物から引用

してみます。 


≪ジャカルタでの軍政関連≫

(P62~P63)

「今村は決意を述べた。 

『・・・ 八紘一宇というのが同一家族同胞主義であるのに、なにか侵略主義のように

観念されているのは遺憾である。一方的に武力を持っている軍は、必要が発生すれば

いつでも弾圧を加えることが出来る。だから、出来る限り緩和政策を持って、軍政を

実施することにする。』

 同じ占領地域であるマレーシアやシンガポールでは、軍政が厳しく、共産党員狩りと

称して行われた1万人にのぼる華僑の無差別虐待事件なども発生しており、それから見

れば、まさにジャワは天国であった。

今村は、『シンガポールでは、排日運動に徹底した幾千人の華僑が対象だったから、

弾圧政策も必要であったのでしょう。しかし、ジャワではその必要はありません。上陸

して以来、インドネシア民族は、我々を同種族の同胞と信じ、大きな好意を持って協力

してくれたのです。軍の勝利は半ば彼らの協力のたまものです。』


(P68~P69)

「今村はスカルノに言った。 

『私は、どこまでも民生の実は原住民官公吏を通じてやっていくつもりでいますので、

なるべく早く県長以下それらの人をもって当て、やがて州の政治にも当たり得る人材が

輩出したら、逐次日本人と入れ替えることを考えています。だから、あなたの手で人材

を探してください。』

スカルノの表情が変わった。目はギラギラと輝き、口もとには頬笑みがあった。

『閣下、それは本当でございますか。原住民を官吏に登用してくだされば、インドネシ

ア人民の日本に対する信用はますます深まりましょう。原住民にも有能な人物はたくさ

んおります。人選はどうかおまかせください。 』  」



≪ラバウルでの食糧自給関連≫

(P158~P159)

今村は昭和18年2月13日、第8方面軍司令部の参謀及び各部長を集め、つぎのように司令

した。

『 (中略) 諸君も承知のように、中央は方面軍に対し、ガ島奪回攻撃の中止を命ずる

と同時に、ラバウルを中心としニューギニアにわたる地域の要点を確保し、連合軍の

北進を阻止する新任務を課してきた。彼我の空中戦や毎日の敵機の猛爆撃を見ている

諸君は、もはや制空権は敵の方に傾きかけていることを自覚されているだろう。だから、

早晩、祖国からの輸送船が軍需品を運んでくることは、出来なくなると覚悟すべきだ。

そうなってもわれわれは、任務を完遂しなければならない。それで、経理部は食糧、

獣医部は馬糧と蹄鉄、軍医部は薬と治療資材、兵器部は武器弾薬の現地補給を分担し、

各部の全員総出で入念に現地を偵察し、実行可能の具体案を作成の上、参謀長を経由し、

私に提出してもらいたい。 参謀部はなるべくすみやかに、防御陣地と農耕地域の調整、

各兵団にたいする現地自活命令起案、軍内部業務の横の連携などを計画の上、私に提出

してもらいたい。 各部の計画は、本日から1カ月以内に完成し、すぐ着手することが

できるような処理を研究しておくことを指令する。 』



ラバウルでの食糧自給活動については、当時経理部員だった 竹内藤男(後に参議院

議員、茨城県知事)が手記の中で次のように記しています。


≪竹内藤男:回想の50年「ラバウルの現地自活(追加版)」を編集≫

『 私は昭和18年1月陸軍経理学校を卒業し、直ちにラバウルの第8方面軍経理部に転属

を命ぜられました。私の任務は今村方面軍司令官の「現地自活に関する作戦命令」の

趣旨徹底とその完全な遂行でありました。 

自活作戦命令では、兵の生活は訓練3、築城(ラバウルの要塞化―横穴の壕を掘る)3、

現地自活3、と命令され、それぞれの部隊の現地自活計画が立案されました。

現地自活計画は、

1、給養人員は、陸海合わせて合計10万人とする。

2、主食は甘藷の栽培により、副食は養鶏と野菜栽培により、調味品は海水よりから採
 
  る塩と椰子の実から採る油を以って充足する。

3、開墾面積は一人当たり主食のために60坪、野菜のため15坪、総面積1500町歩を目

  標とする。

4、軍の直営農場として6ケ所 合計900町歩。

5、指導機関として、軍経理部内に「現地自活班」を特設する。

というものでした。


陸軍10万と言われた(実際は7~8万くらい)兵隊が餓死しないで、質はともかく量におい

て欠乏状態におちいらなかったのは、ガダルカナル島(餓島)の戦訓を骨身にしみて感

じて行ったからであります。

陸海の兵隊が戦争終結後貨物船でラバウルから私の上陸した名古屋港までほぼ100%全員

無事に帰ってくることが出来たのです。戦後の話で今村大将の傍らには、聖書が置かれ

ていたという話でしたが、若い頃、おそらく第一次世界大戦の時、英国で駐在武官を

やっておられたということでしたが、文武両道の名将だったと思います。 』



今村司令官については、自分は日本に帰国していながら部下が戦犯としてパプア・

ニューギニアのマヌス島に収容され、虐待されていると聞き、自分も戦犯としてマヌス

島に収容されるよう懇願し、実際に収容所に行ったことなどをはじめ、部下思いの

人間味あふれる人物として評価が確立しています。 私は今村司令官の命令した

ラバウル自活計画の周到さにびっくりしています。 自分の置かれている環境を的確に

分析して、これから、部下(各部)のなすべき業務内容の明確化、報告のルート、報告

の期限と実行時期の明示、さらに、各部の横の連携と各部業務の調整部門の明示、など。


このような的確な命令を組織トップが打ち出せば、部下は信頼してついていくと思いま

す。 


今の日本の国家組織、各種の団体などのリーダー最も必要とされていることではな

いでしょうか。 今村司令官は、人徳の面のみならず、組織を率いる先見性と緻密性

をも合わせ持った稀にみる人物(名将)だったと思われます。



ラバウルから日本への帰還者は陸海合わせて82,000人と記録されています。 帰還者が

ラバウル港を出港するとき、甲板の上で一斉にラバウル小唄を歌ったとの報告もありま

す。

ラバウル小唄は、昭和17~18年ごろから将兵の間で歌われたらしいのですが、元歌は

「南洋航路」(昭和15年)で、ラバウルの第38師団 第229連隊の中隊長の 佐竹中尉 

が作ったとも言われていますが、定かではありません。 第229連隊と言えば、かの

水木しげる氏が所属していた部隊です。(水木しげる氏は、第38軍第229連隊の補充兵

として、信濃丸で昭和18年10月にラバウル海岸のココポ地域に到着)



「南洋航路」(昭和15年)           
    
作詞:若杉勇三郎

作曲:島口駒夫

歌 :新田八郎

1、赤い夕陽が 波間に沈む

  涯は何処か 水平線よ

  今日も遥々 南洋航路

  男船乗り  鴎鳥


2、波の響きで 眠れぬ夜は

  語り明かそよ 甲板(デッキ)の上で

  星が輝く  あの星みれば

  くわえ煙草が 目にしみる


3、流石男と あの娘が言うた

  燃ゆる命を マストにまかせ

  揺れる心に 憧れ遥か

  明日は赤道 椰子の島



「ラバウル小唄」 (昭和19年)

作詞:若杉勇三郎

作曲:島口駒夫

唄 :浪岡惣一郎

1、さらばラバウル また来るまでは

  しばし別れの 涙がにじむ
  
  恋しなつかし あの島見れば
  
  椰子の葉かげに 十字星


2、船は出ていく 港の沖へ

  愛しあの娘の うちふるハンカチ

  声をしのんで 心で泣いて

  両手合わせて ありがとう


3、波のしぶきで 眠れぬ夜は

   語りあかそよ デッキの上で

   星がまたたく あの空見れば

   くわえ煙草も ほろにがい


4、赤い夕陽が 波間に沈む

   果は何処ぞ 水平線よ

   今日も遥々 南洋航路

   男船乗り  かもめ鳥


5、流石男と あの娘がいうた

   燃ゆる想いを マストにまかせ

   ゆれる心は 憧れはるか

   今日は赤道 椰子の島
    


「陸軍大将 今村 均」((秋永芳郎著:光人社NF文庫)






「(回想)竹内藤男:回想の50年「ラバウルの現地自活(追加版)」






(2011年2月11日  ☆きらきら星☆)


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「脳卒中の後遺症を持つ人の一人暮らし」 

2011年02月05日 11時39分15秒 | リハビリ・健康管理

若くして(30歳台~40歳台)脳卒中を発症して片麻痺になった方の中には、一人暮らし

を余儀なくされた方が案外多いのではないかと思ったりしています。

というのは、私がリハビリ病院に入院していたときに、たまたま私と話しをした男性

患者の中に2回目の入院という方が4~5名いましたが、その中に離婚して家族がいな

いという方が2人いました。 すなわち、入院患者40名強の中で、再入院が10%程度、

離婚して一人で生活をしている方が5%程度でした。


<Aさんのケース>

Aさんは元建具職人で、10年前、40歳半ばで脳出血を発症、右半身麻痺。 妻と離婚、

その後はアパートで一人暮らしだそうです。 本人曰く。 「家とわずかな財産も、

そして子供も、なにもかも全部妻に渡した。自分は体一つでアパートに移った。」 

右手はほとんど動きませんが、幸いにもなんとか歩くことができました。


<Bさんのケース>

Bさんは、元建設現場の監督をしていた方で、7ー8年前に50歳で脳梗塞を発症、左半身

麻痺。 妻と離婚後、現在までアパートで一人暮らしとのこと。 左手はほとんど動

かず、少々歩ける程度。


Aさん・Bさんともにケアマネージャーと連絡をとっており、介護保険の様々なサービス

を利用しているとのことで一応安心です。



<Cさんのケース>

Aさん・Bさんとは違いCさんは入院中に知り合ったのではなく、外出した時にたまたま

出会い、どちらからともなく挨拶を交わして知り合いました。 Cさんはごく普通の

サラリーマン(不動産会社勤務)だったとのことで、本人によれば、「40歳そこそこで

脳梗塞を発症し、右半身麻痺になってしまい、妻と離婚、一人娘も妻が引きとった。 

母親と同居したものの暫くして母親も他界、その後 10年以上も一人で生活している。 

別れた娘はたまに顔を見せる。 娘が尋ねて来た時が最も嬉しい 」 という状況の

ようです。

現在でも、右手は全く動かずに、ブラブラしている状態です。 歩くときは、杖を使っ

ています。 なんとか一人で生活できているので、介護保険のサービスは全く受けて

いない。買い物等生活上の必要から、毎日2時間程度の外出・散歩をかさないとのこと

です。 

昨年の春ごろには足に金属製の補助装具をつけていましたが、重いので、思い切って

装具を外したとのことでした。 歩き方も以前より姿勢が良くなっているように見え

ます。発症して20年近くなって足の補助装具が外せたという事実に驚きます。

半身麻痺になって20年近くになり、一人での生活が10年続いていますが、途中で絶望に

襲われることもあったのではないでしょうか。 実に大変なことで、体力はもちろんの

こと、精神力に頭が下がります。 



上記はほんの一例に過ぎませんが、全国では、半身麻痺・離婚という似たようなケース

が結構あるのではないでしょうか。 夫が30歳・40歳そこそこで半身不随になった場合、

妻としてはその後の生活のことなどお先真っ暗になったことと思います。さらに、様々

なことが重なり、図らずも離婚ということになってしまったのでしょうか。 半身麻痺

の方が社会生活を送る上での不自由さ、苦しさなどは本人なければ、なかなか分かり

づらいと思います。 


一人暮らしを選択せざるをえなかった方の例は、半身麻痺など脳卒中後遺症の影響の大

きさ、深刻さを考えさせます。



生島ヒロシ氏のTBSラジオ番組「おはよう定食・一直線」で、昨年9月初旬にCD発売に

先立ち、生島ヒロシ氏の歌う「もしもしお父さんです」が流れた時には、思わず目頭が

熱くなりました。

離婚して母親とともに去って行った娘に、上京した父親が思い切って電話をかける。  

まず、台詞がすばらしい。 「もしもしお父さんです。 もしもしお父さんですよ 」

で始まる。  「出ないなぁ どうしたんだろう 」と言いながら電話を続けるが、

結局、娘は帰宅せず、「もう帰るね」と言って最終電車に乗って去って行ってしまう

父親。 

斬新でせつなく、父親の娘に寄せる深い愛情に満ちている歌詞もすばらしい。  早速、

CDを買いました。 何回聞いても涙が出てしまいます。  ラジオ番組の中で、生島

ヒロシ氏はこの歌で紅白を目指すと言っていましたが、昨年は残念。しかし、この歌は

瞬間的に爆発的にヒットするのではなく、息長く、じわじわと人気が出てくる名曲なの

ではないでしょうか。 今年の紅白に期待したいです。



作詞:里村龍一

作曲:森山慎也

編曲:谷田部正

歌 :生島ヒロシ


「もしもしおとうさんです」


(台詞) もしもしお父さんです….. もしもしお父さんですよ


 1、今年の10月で お前は21

   可愛さ美しさ  輝く頃だろう

   顔見て帰ろうと 思って電話した

   最終列車まで  時間があったから

   逢いたいね 久しぶり 食事でも しませんか

   困ってることないか 欲しいもの何かある

   お前の母親とは   別れはしたけれど

   お前はお父さんの  一生子供だよ


(台詞) もしもしお父さんです…… もしもしお父さんですよ

    でないなぁ  どうしたんだろう         


 2、留守電むなしいね 便利なものだけど

   この手に届かない 手紙のようだよね

   お前を思わない  時などなかったさ

   住所も知らないで 探した日もあった

   血液型はA型で  母親と同じだね

   目と鼻とやさしさは 父さんに似ているね

   あの頃もう少し  我慢出来たらね

   お前を泣かさずに 済んでたはずだろう


   この腕に抱いて寝た 温もりが残っている

   この次は逢ってくれ お小遣いあげるから

   お前の母親と    俺とは他人でも

   お前は父さんの   大事な宝だよ


(台詞) 最終の時間だ 待ったけどもう帰るね



(2011年2月5日 ☆きらきら星)

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