花熟里(けじゅくり)の静かな日々

脳出血の後遺症で左半身麻痺。日々目する美しい自然、ちょっと気になること、健康管理などを書いてみます。

インドネシア政変(その2)

2010年04月29日 12時12分24秒 | インドネシア

タクシン前首相を支持する市民(赤シャツ)と軍隊が、バンコク郊外外で衝突し

ていることが報道されています。 アピシット首相は妥協しないと明言していま

すので、タイの騒乱状況の行方はまだまだ不透明のようです。

タイでは数年前までは、政治的に不安定になると、国民から尊崇を受け、敬愛され

ていたブミポン国王が収拾に乗り出し、国王の鶴の一言ですべて収まり、アジアに

おいて政治的安定度No,1の国でしたが、国王が82歳と高齢であること、健康状態が

あまりよくないことなどもあいまって、めったに国民の前に出てくることも無くな

り、国民の精神的な尊崇の念も失って来ているのではないかと思われ、気がかりで

す。 東南アジア全体としてみると、タイの政治的な不安定は、他の国にもなんら

かの影響を及ぼす可能性がありますので、一日も早い収拾を願うばかりです。


私がインドネシアで体験した政変当時の駐在員の感情・思いをメモしていますので、

次に添付します。




(こころの友 インドネシア-6)


「インドネシア政変ーその2」

外国で暮らしてみて始めて日本という国を意識し、日本のすばらしさに気付くことが

多々あります。 世界のどの国でも自国の歴史、民族のすばらしさを小学校の時から

教え込んでいます。自分の生まれた国に愛着が持てないような人が、世界で相手にされ

るでしょうか? 


さて、外国に行った場合、パスポートは命の次に大事と言われていますが、「日本の

パスポート」の威力を分っている人は少ないのではないでしょうか。 例えばインド

ネシアのパスポートだったらどうでしょうか? アメリカや欧州での入国はイスラ

ム・テロの関係で極めて厳しい審査を受けなければなりませんし、入国を拒否されか

ねません。また国によってはインドネシア人を不法入国防止の対象としている国も

あります。 現在世界中で日本が何んらかの規制を受けていること国は無いのでは

ないでしょうか? (国交のない国は別です)


我々のインドネシアの会社に最初の3年間はアメリカ人がいました。アメリカの兄弟

会社から出向で来ていたのです。 1998年のインドネシア政変の時、外国人は身

の危険を覚える事態となりました。 このアメリカ人が、私のところに来て、

「アメリカ大使館から国外退避通知があったがどうしたらよいか」と真剣な眼差しで

尋ねました。 私は「日本人はまだ大使館から連絡がないので、このまま留まるが、

君たちはアメリカ大使館の指示に従って、国外退避してもらいたい。 我々日本人と

行動を共にしても、パスポートが違うので手助けをすることは難しいので」と言い

ました。 彼らはその日の夜、軍用空港からアメリカの政府チャーター機でシンガ

ポールに退避しました。 日本大使館から、民間の航空機を利用して自費で国外退避

するようにとの連絡があったのは、それから1週間後のことです。 我々の会社では、

私のほか数名が保安要員としての残り、他は全員日本に帰国させました。


しかし当時政府が日本人緊急脱出に備えて自衛隊の派遣を決定し、ジャカルタ沖に

輸送艦を待機させようとしたところ、憲法違反との野党からの強硬な意見があり、

結局シンガポール沖に待機させることになりました。日本人救出に自衛隊を使うと

いう世論も盛り上がらず、インドネシアに駐在していた日本人は、国家から見捨てら

れたような感じで、残念に思うとともに寂しさを覚えました。 同時に自国民の生命

を守るよりも憲法の解釈のほうが大事という野党には反発を覚えました。 海外で

必死に働いている日本人、特に発展途上国で働く自国民の生命を守ることを国民的

な課題として認識していただきたいと思います。


なお、出国には当然パスポートが必要となりますが、我々の会社では滞在許可証と

就労許可証の切り替えのために、パスポートをインドネシアのイミグレーションに

提出しているものが2-3名いました。手元にパスポートがないのです。日本大使館

(領事館)に相談に行ってみると、同じような状況の日本人であふれていました。 

ジャカルタだけで1万人以上の日本人がいるわけですので、かなりの数の人が

各種許可証の切り替えの時期に当たったのではないでしょうか。領事館では特別措置

としてイミグレーションと相談の上、「出国許可証」を発行してくれました。

出国時期はせまっていますし、数が多いので領事館の方々は処理するのに大変だった

ろうと思います。 しかも一人ひとりに丁寧に応対していただきました。これには

大変感謝しました。


手続きが終了して、大使館をでたところで、日本のテレビや新聞社の人が待ち構えて

いました。 「このような治安の悪い状況で大変ですね。何に一番こまっています

か?」などと、大使館関係者への不満を言わせるような誘導質問をしてくるので、

腹が立って、「大使館の方は本当に親切に対応していただきありがたいと思って

います。」とつっけんどんに答えると、サット私を離れて、他の人にインタビュー

しました。


この方のインタビューの様子は日本で放映されたそうです。日本のマスコミの報道を

鵜呑みにするのではなく、斜めに構えて報道内容に接するべきと身をもって体験しま

した。


(平成18年メモ)

(平成22年4月29日記 花熟里)
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インドネシア政変(1998年)

2010年04月24日 13時30分45秒 | インドネシア
タイでアピシット首相に反対するタクシン前首相派市民が、首都バンコク市内

で大規模な反政府デモを繰り返し、この騒乱の中で日本人報道カメラマンが死亡

したのは記憶に新しいところです。 昨日(4月23日)にはバンコクの中心部の

ビジネス街で連続爆破も発生し、日本人を含め多くのケガ人がでるなど、極めて

深刻な状況になっているようです。 タイには多くの日系企業が進出しており、

4~5万人の日本人が駐在しているのではないかと思いますが、皆さん不安な

毎日を送っているものと思います。 一日も早い収束を祈るばかりです。


私がインドネシアに駐在を在開始した1996年当時は、タイは東南アジアの発展の

象徴的存在で、目を見張るものがありました。 一方、インドネシアでは毎日デモ

があり、日本大使館から危険情報がしばしば出される状況で、駐在員がジャカルタ

市内に外出する時は細心の注意を払ったものでした。

次はインドネシアの政変をメモしたものです。 



(こころの友 インドネシア-5)

「インドネシア政変(1998年)」

駐在期間中で私の最も印象に残っていることは、1998年の政変動乱です。 

第2代スハルト大統領は1966年以来7選の長期政権を誇っていましたが、

大統領一族や華僑のビジネスに対する反発、軍支配への反感等が重なりあって、

1997年初頭頃から政治的に不安定になっていました。そこに、1997年7月

タイのバーツ切り下げに端を発した通貨危機の影響をもろに被り、1998年5月

に32年間続いたスハルト体制はあっけなく崩壊しました。政権崩壊前後の動乱時

は、精神的緊張がピークに達しました。目の前で市民が銃殺されるのを見るとは

想像だにしていませんでした。今となっては夢のような出来事に思えます。


・5月04日 :灯油や公共料金等の20-70%UPが発表・実施されたのに抗議して
       インドネシア主要都市で大暴動発生。

・5月05日 :欧米諸国駐在員の国外退避が始まる。

・5月12日 :ジャカルタ市内のトリサクティ大学で学生と治安部隊が衝突、学生
       4名が射殺される。

・5月14日 :ジャカルタの中国人街ですさまじい放火・略奪・虐殺が行われ、瞬く
       間にジャカルタ市域が暴動化した。ジャカルタ のアパートに帰宅
       できず、工場に宿泊。

・5月17日 :日本外務省から家族退避勧告が出された。工場操業停止。
       全従業員に日本人は保安要員を残し帰国退避する旨通知。 

・5月18日 :日本政府が手配した特別機で家族と駐在員を脱出させる。        
       保安要員はジャカルタ市内のホテルに集合。

・5月19日 :関係各社の残留者は、同一行動することになり、市内のホテルに
      集合、以降日本本社の危機管理対策本部の指示のもとホテル宿泊。

・5月21日 :スハルト大統領辞任、ハビビ大統領就任

・5月23日 :アパート帰宅。


危機時の準備を入念にしていましたので、スムーズに家族・駐在員の安全確保と

帰国、工場操業休止と従業員への対応、操業再開などができたと思います。操業

休止を決断したときに一番心配だったのは、従業員が帰ってきてくれるのだろうか

ということでした。なにしろ会社立ち上げ開始直後のことであり、本格的な教育も

これからという状態でした。しかも日本人のほとんどが帰国してしまうわけですの

で大変不安でした。工場の操業休止と従業員の一時自宅待機について、ローカルの

幹部スタッフが丁寧に従業員に説明しました。勿論治安状況と日本人スタッフが

帰国せざるを得ない理由も繰り返し説明してくれました。


日本人駐在員は日本に帰国させたものの、いつ再帰国させられるのか不明で、会社

の将来に不安を抱いていましたが、ローカル幹部スタッフが、「会社は日本人が帰

ってくるまで、我々が毎日出勤してしかりと守るので安心して欲しい。我々は大丈夫

だから」といってくれました。なんという心強い言葉だったでしょうか。


一般従業員が動揺をせず自宅待機に入ってくれ、その後全員復帰してくれ、スムーズ

に操業再開できたことは、ローカルの幹部スタッフの理解と努力のおかげと感謝して

います。


ところで、ジャカルタ日本人学校(JJS)の児童も当然この動乱に巻き込まれて

います。

すなわち5月14日にはスクールバスが暴徒に教われる危険性があるので、JJSから

児童が帰れなくなってしまい、結局学校に泊り込むことになりました。家族も学校

へは迎えに行けず、児童・家族ともに不安な夜をすごしました。しかし、児童は

この激動の時期をものともせずに乗り越え、後日、高石ともや氏と木田たかすけ氏

作曲の“街”にすばらしい歌詞をつけました。児童のたくましさとしっかりと現実

を見つめる目をもっていることに心強い思いがしています。


  街(ジャカルタ・ビンタロウ編)

1、コーランの声 渋滞の道 道端のワルン
  裸足の少年達 人々の笑顔 
  * この街が好きさ 君がいるから
  * この街が好きさ 君の微笑みあるから

2、街の角 新聞売り 走り去る三輪バジャイ
  カンポンの細い道 お別れの涙
  ** 繰り返し 
   
3、常夏の島 ハイビスカス 照りつける太陽
  星空に輝く 南十字見上げ
  ** 繰り返し

4、入道雲 モナスの塔 古い博物館
  Aku suka kota ini 君を待ちながら
  ** 繰り返し

5、ビンタロ通り 広がる緑 私たちの校舎
  背の高いやしを見て 君と僕のあした
  ** 繰り返し 

(平成18年9月メモ)



<平成22年4月24日記 花熟里>
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「気楽に行こう」という歌

2010年04月20日 17時21分35秒 | 趣味(音楽、絵画、等)
ラジオを持っていないので、パソコンで聴けるラジオ放送(IPラジオ)を聞きながら

朝の柔軟体操を行っています。 数日前に懐かしい曲が流れました。 鈴木ヒロミツと

藤達也が菜の花畑の中でガス欠の車を押している、あの一世を風靡した石油会社のCM

「気楽に行こう」でした。 歌っているのはマイク真木です。

しかし、CMで記憶のある歌詞とは若干違うように思いましたので、調べてみま

した。


石油会社のCMの歌詞(歌:マイク真木)

「気楽に行こう」

気楽に行こうよ 俺たちは
あせってみたって 同じこと
のんびり行こうぜ 俺たちは
なんとかなるぜ 世の中は
気楽に行こう 
のんびり行こう

(せりふ)
‘車はガソリンで動くのです’


「気楽に行こう」 作詞/作曲/歌 マイク真木

1、気楽に行こうよ 俺たちは       
  仕事もなければ 金もない         
  寝るとこなくても 心配するな       
  なんとかなるぜ 世の中は         
  気楽に行こう 気楽に行こう        
                         
2、のんびり生きよう 俺たちは        
  あせってみたって 同じこと        
  馬鹿と呼ばれても くよくよするな     
  助けあおうぜ 世の中は           
  のんびり行こう のんびり行こう

3、なにをたよりに 生きるのか      
  月日が勝手に 過ぎてゆく          
  雨が降ったら びしょぬれさ        
  だけどなんとなく 幸せさ         

4、友達になろうよ 今すぐに
  君は学生で あなたは社長さん
  あいつはサラリーマン
  あなたは おまわりさん
  そんなこと どうでもいいじゃないか
  友達になろう 友達になろう  
  なにをたよりに 生きるのか
  月日が勝手に 過ぎてゆく
  雨が降ったら びしょぬれさ
  だけどなんとなく 幸せさ 
  のんびり行こう のんびり行こう

5、気やすく行こうぜ 俺たちは
  金はないけど やる気はあるぜ 
  女にふられて 泣くなよ 泣くな
  がまんをすれば いいだけさ
  気やすく行こう 気やすく行こう
  気楽に行こう 気楽に行こう


脳内出血で半身マヒになり、ゆっくりとしか体が動かせなくなり、急ぐということが

出来ないので、すべてに、ゆっくりと余裕を持って、そして早めに取り組むようにな

りました。 歩く時間が健常者の2~3倍かかりますので、電車に乗るには、以前は

電車の時刻の10~15分前に家を出ればよかったのですが、今は30分前には家を出

ます。
 

横断歩道の信号は、青の途中では渡らず、一旦待って、新たに青になって渡るよう

にしています。しかし、青信号の時間が短い場所が実に多いのです。 渡りきら

ないうちに、信号が変わってしまい、車が来てしまうことも多々ありますが、かと

いって急ぐこともできず、車を見て手を挙げて、停止してもらうしか方法がありま

せん。 

体のすぐ近くまで車が来ることもありますので、恐怖を感じます。 場所によって

は、青信号の時間を長くするなり、検討して頂きたいと思います。 


また、電車の踏切も怖いところです。 横断歩道と同じく、なるべく電車が行き過

ぎ、遮断機が上がるのを待って、初めて渡るようにしていますが、踏切を歩いている

途中で電車が来るという知らせが鳴ると、健常者は急いで駆け抜けていきますが、

私は急いで歩くことが出来ないので、踏切の中で一人になってしまいます。 心細く

なりますし、遮断機が下りてこないこと、電車が来ないことを祈りながら、懸命に

歩きます。実に冷や冷やものです。


「気楽に行こう」 「のんびり生きよう」 「助け合おうぜ 世の中は」 

「友達になろう 今すぐに」 「やる気はあるぜ」 という歌詞が心に響きます。   


(平成22年4月20日記  花熟里)
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自宅でのリハビリ

2010年04月17日 17時43分27秒 | リハビリ・健康管理

リハビリ病院を退院後、1年3ヶ月経ちました。 自宅でのリハビリと体の状態を書いて

見たいと思います。


会社勤務しているので、ウイークデーは朝 30分程度の柔軟体操や機能回復の動きを行

っています。 休日は、1時間程度をかけてゆっくりと行っています。

この時に、心がけているのは、患側(マヒしている方)と健側(マヒしていない方)

両方の足を入念にマッサージすること、肩と体幹をゆっくりと大きく動かし、ほぐす

ことです。 健側の足に負担がかかっていると思いますので、こちらの足もマサージを

するようにしています。また、歩く時体がグラツクのは、肩や体側のマヒが大きく影響

しているように思えるので、肩や体幹をできるだけ柔軟にしたいと思っています。 

風呂ではマヒした部分全体をさすり、マヒした手指と足首を動かすようにしています

し、就寝前の15分には簡単なストレッチをしています。


休日には、午前中に1時間半程度の散歩を欠かしません。 近所の見知った方と挨拶

を交わし、季節に違った様子を見せる木々・花々・鳥に心を留め、ネコに出会うと声

を掛けて見ます。  チャント返事(?)をしてくれるネコに出会うとほんとに嬉し

いです。中には、近寄ってきて、体を摺り寄せてくるネコもいます。 ネコ好きな人間

を本能的に嗅ぎ分けているのかも知れません。



歩くときには、体の中心線が歪んでいないか(左右いずれかに偏っていないか)、

患側の足を上げる(引きずらない)こと、さらに、歩幅が小さくならないように、

心がけています。 建物の壁がミラータイプのところに来ると、その前で体が左右

いずれかに傾いていないかを、見るようにしています。 それと、患側の腕が無意識

のうちにカギ型に曲がってくるので、伸ばすように何時も気をつけています。


毎週土曜日には、在宅リハビリ・マッサージを受けています。 医師の同意書を頂いて

いますので、健康保険適用です。 2ヶ月に1回の医師の定期診断のときに、マヒ部分

(特に腕)の硬直感がきついことを話したところ、在宅マッサージを進められ、続けて

いるものものです。 それと、週1回 勤務の帰りに 鍼灸を受けています。  マヒ

した部分の血流をよくすることと、脳への刺激を期待して始めました。 気功や鍼灸

などの東洋治療は、受ける人の気持ち次第という面もあるようですが、私の場合は、

在宅リハビリ・マッサージとも相乗的に効果が出てきているのではないかと思ってい

ます。 

マヒした腕と足が冷たく、昨年の冬は、布団に電気アンカを入れて寝ていましたが、

今年は、アンカは使いませんでした。 鍼灸師はマヒした足が温かくなり、筋肉が

ふっくらとしてきた、といっています。血流がよくなったためと思います。 また、

会社でも歩くときの足の動きが随分よくなったといわれています。


退院後、改善したことを書いて見ます。

・布団からの起き上がりは全く不自由なくなりました。 ぎこちないですが、食事の時

 にはマヒした手で箸を使い、ハサミも使えるようになりました。


・出勤のときは、装具をつけて、杖をつかっていますが、休日の散歩のときには、短い

 距離であれば装具をはずしたり、また、体調によっては杖も使わないで歩くように心

 がけています。 


・階段は、装具・杖の状態で、上りは昨年までは、健側の足で上がり、ついで患側の足

 を上げていましたが、今年になり、健、患どちら側が先でも、交互に足を運んで上が

 れるようになりました。 手すりにつかまらなくても大丈夫ですが、人ごみの中では

 安全のために、手すりをつかんでいます。
  
 下りは、装具・杖の状態で、現在でも、まず患側の足を下ろし、次いで、健側の足を

 下ろし、両方の足をいったん同じところにおいています。 

 健側の足を先に下ろすと、上に残った患側の足の足首と膝がかなり曲がることが必要

 になりますが、装具をつけていると、足首が十分曲がらないので、降りることが困難

 になります。 装具をつけていなくても、マヒした足は硬直し曲がりにくい場合が多

 いので、やはり、階段を下りる場合は、患側の足から先に下りることになるのではと

 思っています。 

 なお、休日に、足の装具をはずして、健側と患側の足を交互に下ろして階段をおりる

 練習をしています。   


  (平成22年4月17日記 花熟里)





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外国人看護師・介護師問題について

2010年04月14日 17時12分48秒 | ちょっと気になること
外国人看護師・介護師について


さる3月26日に、「外国人(インドネシア人2名とフィリピン人1名)が日本の看護師国家試

験に合格した。 看護師国家試験の合格者は47.340人、合格率は89.5%で、外国人受験者

は、254名だった」との報道がなされました。

私は過去に6年間インドネシアに駐在したことがあるので、この問題には大きな期待と不安

を持ってきました。 今回初めての合格者が出て、大変良かったと嬉しく思っていますが、

それにしても、外国人にとって難解な「漢字」をよく克服できたものと感心します。


看護・介護分野での外国人受け入れについての動きは次の通りです。

・2006(H18)年9月 「日本・フィリピン経済連携協定」締結(2008/12発効)。        
・2007(H19)年8月 「日本・インドネシア経済連携協定」締結(2008/7発効) 

* 経済連携協定(EPA): Economic Partnership Agreement
* 受け入れ実績
     <インドネシア人>
     2008年度    看護 104人、介護 104人、 計208人
     2009年度    看護 173人、介護 189人、 計362人
     2010年度見込み 看護 121人、介護 179人、 計300人 

     <フィリピン人>
      2009年度    看護 93人、介護 190人、 計283人
      2010年度見込み 看護51人、 介護 75人、 計126人      


看護師の候補者になるには、自国において、看護師の資格を有しており、2年以上の実務経

験が必要とされています。 また、介護師の候補者になるには、自国において、看護師の資

格を有していること、もしくは、高等教育機関(4年生大学や看護大学)を卒業して、政府

から介護師として認定されていることが必要とされています。

いずれにしても、日本に研修で来る人たちは、なかなか優秀な人ばかりといえます。


受け入れに当たっては、「国際厚生事業団」が唯一の斡旋機関として指定されています。

首尾よく研修候補の選考に合格し、日本に入国した後の一連の流れは次の通りです。
 
 ・6ヶ月間の日本語の研修
   (海外技術者研修協会と国際交流基金が共同で実施)

  ・日本国内の看護、介護施設で就労
    (就労中は給与は全額施設負担、日本の社会保険が適用。就労中の各種の研修
     も施設実施)

  ・看護師、介護福祉士の国家試験受験

  ・合格者は新たな在留資格で就労、不合格者は帰国
    (看護は入国後3年以内、介護は入国後4年以内に合格必要)

外国人労働者の受け入れについては、‘日本国内の人手不足解消策’として検討されてきた

側面がありますが、‘日本の看護師や介護師不足の原因解消にどのように取り組むか’とい

うことと共に、我が国がアジア諸国の人材教育や人材活用等にいかにして寄与していくのか

という面からも、積極的に取り組んでいかなければならない重要な課題と思います。


インドネシア、フィリピン両国からの受け入れに際し、日本看護協会が要求した「受け入れ

の4条件」がすべて入っています。

  ・日本の看護師国家試験を受験して看護師免状を取得すること
  ・安全な看護ケアが実施できるだけの日本語の能力を有していること
  ・日本人看護師と同等かそれ以上の条件で雇用されること
  ・看護師免状の相互承認は認めないこと

なかなか厳しい条件がつけられたものと思います。

今回の制度は、そもそも国家間で進められたものですので、受け入れる施設に経費すべてを

負担させるのではなく、政府による経費の援助がなされてしかるべきと思います。また、

国家試験は日本人と同じ条件で受けることになりますから、入国後短期間に日本語、中でも

‘専門用語’や外国人にとって難関の‘漢字’を習得しなければなりません。

次は、平成21年2月の看護師国家試験に出された問題の一例です。果たして日本人の何%が

漢字を正しく読める(そして意味が分かる)でしょうか?

「消化管の異常とその原因の組み合わせで正しいものはどれか」
 1、麻痺性イレウス――――――――――腸捻転症
 2、絞扼性イレウス-―――――――――-胆石発作
 3、弛緩性便秘-―――――――――――-糖尿病自律神経障害
 4、痙攣性便秘――――――――――― 硫酸モルヒネの内服

 「甲状腺機能低下症の身体的所見はどれか」
  1、眼瞼浮腫
  2、眼球突出
  3、心悸亢進
  4、発汗過多


 日本政府は、漢字に「読み仮名」をつけることや、受験の機会を増やすことは考えていな

いとしているので、今後もインドネシアやフィリピンからの研修生の中で、看護や介護の実

務では高い評価を受けていても、国家試験の漢字に泣かされることになり、やむなく帰国さ

せられる人が続出するものと思います。 アジアの優秀な人材を日本から締め出すことにな

り、日本への不信感が生まれる可能性があります。 試験の方法や国家資格の見直し(たと

えば実技で優秀であれば、准看護師等への処遇)など直ちに具体的な方策を実施すべきと思

います。


インドネシア、フィリピンをはじめ、アジア諸国は第2次大戦で日本軍が占領した国でもあ

り、日本が様々な分野で協力し、助け合う姿勢を示すべきですし、日本に対する複雑な民族

感情にも配慮すべきと思います。 


(2010年4月14日記 花熟里)
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