心の色を探して

自分探しの日々 つまづいたり、奮起したり。
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まだ咲かない

2017年03月23日 | ほんのすこし
母の玄関先にある君子蘭は亡き父が好きだったという。花の名前は全然覚えることができなかった父がこの花だけは覚えていて、春になるとオレンジ色の花を咲かせるのを楽しみにしていたという。
今年はまだつぼみのままだ。先の方が少しオレンジ色を見せてきたけどまだ咲くには日数がかかりそうだ。
すると、ご近所さんが早々と咲いたからと母の玄関、風除室にどどんと置いていった。
綺麗に咲いたから見てくれと。自分のところではもっと沢山鉢があって咲いているからと。

母が目を細めて嬉しそうな顔をしていた。
父の命日まで自分の鉢の花は咲くだろうか。その前からこの花を愛でることができて嬉しそうだ。

父が亡くなっても母がこんな風にご近所さんとも仲良くできるのは私としてはとても安心できるし、嬉しい。一人暮らしになって何が一番困るかというとご近所さんとのつきあいが上手く出来るかではないだろうか。母は長年ご近所さんたちとのつきあいが上手く出来ていたのだろう。
昨日は午前中にご近所さんふたりが来てくれてずっとおしゃべりしていたんだよと話していた。
ひとりとてもお話のうまい方がいてその方がいると本当に笑い転げたり、あっという間に時間が経つ。人生経験豊富というか大変な人生を歩んできた人なのでお話の内容も深刻なことが多いのだけど、なぜか笑いを誘ってしまうのだ。経験を笑いに変えることができる話し方というのも素晴らしいと思う。
わたしなど、深刻なことはどうしても深刻になりがちになる。過去を振り返れば修正したくなることがあまりにも多い。それでも通り過ぎてきて今がある。生きていてなんぼのもの、死んでしまったらおしまいだとは晩年の父の口癖だった。本当にそう思う。

父が生きていたら見せてあげたいもの、会わせてあげたい人、たくさんいるけど。もう会うことも叶わない。
それでも父のことを思い出し、語り合うことで父がそばに寄り添っている気がする。そして弟もまた。
亡くなった人への後悔の念は出来なかったことがあるから出てくるのだろう。弟にやってあげることがもっとあったのに、まだ大丈夫だと思ったこと、なぜだろう。すぐ目の前に死が訪れると予測できたはずなのに。まだだ、まだに違いないと首を振っていた自分。

父が亡くなってから11年が経つ。もうそんなになったのか・・・ 自分の中ではつい数年前のように思うのだけど。三月は父の命日がある。八月は弟の命日がある。不思議なことに三月は父の誕生日が、八月は弟の誕生日がある。
人間は生まれて亡くなるのが同じ時期になるのだろうか。

きっと母の君子蘭は28日頃、花を咲かせるのだろう。
忘れないで咲いてくれたねと、微笑む父の顔が見たくて。