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【流儀】大局観

2006年07月13日 | テレビ

 大局観とは、物事の全体の動きや形勢についての見方や判断を指すことである。
 この大局観が、如何なく発揮されるのが、将棋だという。

 大局観に優れた、羽生喜治棋士。将棋の世界については良く知らなくても、この人だけは良く知られている。

 この「著名人」が、「プロフェッショナル 仕事の流儀」(NHK)に出演されたのだ。

 大局観どころか、周りのことをよく見ることが出来ずに困っている自分にとって、この番組では一体どんな答えを導いてくれるのだろう。そういう期待を持って、テレビの前にたたずんでいた。
 しかしその期待に、明瞭に答えてくれる回答などなかった。それとも、回答を導き出す能が、自分には足りていなかったということか。

 要するに、何故羽生氏は、「大局観」というものを手に入れたのか。身につけることが出来たのか。それを知りたかったのだが、その問いに対してはあやふやなまま、番組が淡々と進行していくように感じられた。
 所詮は、「天才」にしか届かない、伝わらない代物だったのだろうか。

 もし「そうだ」というのなら、その希望の道筋はわずかながら与えてくれたのが、番組後半の羽生氏の「悟り」なのかも知れない。

 かつて羽生氏が、18歳の頃に打ち破った、大ベテランの加藤一二三氏。
 加藤氏ら60を過ぎた棋士たちが、将棋会館で幾度も幾度も、将棋盤に向かって駒を指し続けていた。
 還暦を過ぎても、己の将棋のスタイルを捜し求める、その情熱─。
 情熱を持って続けていけることこそ、才能。
 羽生氏いわく、才能とは、
 「一瞬の閃(ひらめ)きや煌きではなく、情熱や努力を継続できる力」
だという。

 先の話に戻って、もしも「大局観」というものが、天才にしか与えられないものであったら、天才になればいい。
 本当の天才というのは、ひとつの能力が他の人に対してはるかに優れていることではないのだ。
 続けること。一途に、その道を極めるために、歩き続ける人。

 中国の故事にもあるではないか。
 ある幼き少年が、年齢に似合わぬほど上手に詩を読んだ。
 その親は、その子に詩の才能がある天才だとして、ことごとく詩を書かせた。
 その詩が瞬く間に評判を呼び、その両親は大もうけしようとたくらんだ。
 子供には詩を書かせるあまり、普通教育を疎かにした。
 いつしかその子は大人となり、かつての誉れであった詩も、大して評判を呼べなくなり、かといってその子には詩以外の技能はなかった。

 われわれが考えている「天才」とは、実はむなしいものなのかもしれない。
 かつては、人に比べてはるかに優れた特技を持つものを、いいなと指をくわえて羨ましがっていたものだが、本人としてはこれから先、その特技によってよくも転ぶし悪くも転ぶ、きわめて瀬戸際の道を歩かされているのに違いない。
 「天才」と呼ばれて浮かれていたのでは、それ以上己は進歩できないし、後々人に追いつかれてしまいかねない。特に子供に対して言う「天才」には、そのこの人生のためにも気をつけておいたほうがいいのかもしれない。

 結局、天才とは誰を指すのか。
 ダ=ヴィンチか。それとも、ピカソか。
 この両者、上で述べたように「努力」よって天才となりえたのではないか。
 つまりダ=ヴィンチは、生涯にわたって1万点以上ものノートを綴った。気がついたことや良いアイデアを思いついたら、忘却の前に紙上に書きとめて残しておく。この「努力」の積み重ねこそ、アイデアとアイデアが繋がりだし、良い結果を導き出したのではないか。あたかも、一つ一つの脳細胞がニューロンによって繋げられ、新たな発想を生む原動力となるように。
 ピカソだって、何百、いや何千もの絵を描いた。その過程の中で、本当に伝えたい事象が、キャンバスの中で淘汰され、抽象的な描き方へ導かれていく。その境地の中で、キュビズムという二次元の表現から三次元の表現を可能にするための実験的手法が用いられるようになってくる。
 すべては、「努力」のもとに勝ち得た、「天才」というものではないだろうか。

 そう考えるなければならないならば、私は先の記述を恥じねばならない。
 「天才」のみが知りうる「大局観」を、たかが45分の番組で手に入れようとしたことの浅はかさである。
 それに、番組中では羽生氏も、悩んでいた。「大局観」を心掛けるも、常に自分の技を研磨し、試行錯誤を繰り返していた。
 羽生氏は誰もが認める「天才」だとは思うが、羽生氏本人に尋ねると、己が天才などと認めようとは、しないだろう。まだ「大局観」というものを、極めていないのであるから。

 これをダ=ヴィンチやピカソに当てはめても、事は成り立つのではないだろうか。
 常に己を磨き上げ、向上していく。それに終わりがない限り、「天才」というまさに天の道に通じることはない。

 この「プロフェッショナル」の番組では、登場した人全てに、「プロフェッショナルとは?」という質問をしている。
 ニュアンスや単語は違えど、おおまかに共通しているのは、「そのことを続けられる人、極めようとする人」ということである。(全然違うことを言う人もいるが。)
 これはひょっとすると、「努力」し続けられる人こそ天才であるならば、天才とは「プロフェッショナル」のことであり、「プロフェッショナル」になって初めて「大局観」というものを手に入れることが出来るといえるのではないだろうか。
 いや、このような順序というものはなくて、「努力」=「大局観」と繋げてしまっていいのかもしれない。

 最初から、「大局観」を手に入れるな。
 「努力」をせよ。

 羽生氏のように。


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