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蚊焼です。日記です。
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【爆問】我思う故に我何?

2009年10月07日 | テレビ


 昨日の「爆笑問題のニッポンの教養」(NHK)は、哲学でした。
 私とは何か。「我思う故に我あり」の我とは一体何なんだ。大変難しい話です。

 話は大変面白かったのですが、個人的にひとつ納得がいかないところがありました。
 哲学に、科学が入る余地は本当にないのだろうか、と思ったのです。
 ブログ1でもすでに語っていることですが、科学と哲学はお互い拒絶・「縦割り」しあうのではなく、一緒くたに考える時期に来ているのではないか、と考えているのです。
 番組で哲学の先生は、哲学に科学が入る余地はないと言い切りました。科学でも、哲学が入るのが許されなかったと、先のブログ1で取り上げた本の中に書かれていました。しかし今は違うのではないかというのが本の著者の意見で、私もそれに賛同しています。
 動いている体と、考えている心は同じものだ、という立場に立つゆえ、哲学と科学を同時に考えるべきだと思うのです。しかしおそらく先生は、体と心は別物だという二元論に立たれているのでしょう。どっちが正しいというのは分からないわけですから、見解が違ってくるのは致し方ないことなのですが、私的にはどうも解せないのでした。


 さて、心と体の問題ですが、矢張り「脳死問題」というものが気になる所です。
 もしも仮に科学がますます発達して、心が脳にあるとわかった、としましょう。そして、冒頭の「我」とはすなわち脳である、ということになったとしましょう。
 そうなったときにどういうことが起きるだろうか。私は、椎名誠さんのSF小説「アド・バード」と、フランスのアニメーション映画「ファンタスティック・プラネット」を思い浮かべました。
 両方とも、体を失った脳というものが機械の中にあって、脳がつまりコンピューターの働きをして、別の機械なり体なりを動かすということをしていました。
 その場合、オリジナルな体のパーツは脳だけなのですが、果たして脳だけをその人だと言えるのでしょうか。

 いや、体こそが「我」である、という意見も有りましょう。植物人間になっても「生きている」という考え方にも繋がってくると思います。
 ここのところが、エジプトのミイラ保存による来世復活や、南米のミイラ信仰というものに通じているような気が、私は致します。ただエジプトの考え方は、「心」と「体」が一致して初めて復活できると考えたわけですから、比重は半々といった所でしょうか。
 でも高野山の金剛峰寺では、弘法太子(空海)の体が安置されているとされていますが、それはまだ「生きている」とされているわけでしょう。となると比重は「体」、我たらしめているものは肉体であるということになりはしないかと思ったのです。

 思考実験で、誰かの体に脳の移植をしたとします。手術は無事成功し、なんら支障なく過ごせたとします。思考実験ですから。
 果たして「我」は、移植前の体の「我」なのか、脳の「我」なのか。こうなると、「私は私である」の「私」にも、一様に行かないことに気づかされます。
 多分、科学の入る余地のないという説は、この所を突いているんだろうと考えられます。「心」が脳にあると分かった所で、じゃぁ何なんだ、と。
 けれども逆に、「私」が分かった所で、同じく何なんだということになりかねないのでは、とも言えはしないでしょうか。だから科学と哲学が協働で、補い合いながら答えを捜し求めていかなければいけないのではなかろうかと思うのですが、如何でしょうか。


 ところで、脳死と移植の問題なのですが。
 脳死患者と、脳以外死んだ患者がいたとします。何を持って死とし、何が命や心および「我」とするかを考えるとき、この2人の患者を補い合わせる、って話はあまり聞かないですね。
 もちろん脳死と臓器移植以上に多くの問題や倫理的懸念があるのは分かるのですが。科学と哲学の融合の困難さに同じなのでしょうか。



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