ゲートボール(GB)日記

まちなかの公園でGBを楽しんでいます。GBは老若男女一緒に楽しめる数少ないスポーツの一つです。まちびと

農業の町が工業の町になり、今は老人の町

2016年09月17日 | Weblog
私の故郷(今は市)は、南が水田、東が水田、西が水田、中央と北が台地という地形で、台地は畑になっていました。
農業の町でした。
台地の北部を貫通するように幹線道路が東西に走っており、道路を挟んでその両側に古い町が出来ていました。
鉄道は台地の南部を貫通するように東西に走っており、その北側に新しい町が出来ました。

大雨が降ると水田はすべて冠水し、台地の周りは海のようになりました。
水田地帯の農家は、敷地を土盛りして高くし、冠水を防いでいました。
しかし水田地帯の道路は冠水しました。

排水を早めるため、川が数多く南に向かって水田地帯を流れていました。
また南の水田地帯の中央に広大な遊水地がありました。
川は南で一本の大河となり、海に注ぐようになっていました。

この大河は河口部では水位が海と同じでした。
したがって河口部は入り江のようなものでした。

私が故郷を出てからの故郷の変貌はものすごいものでした。
工業化が進み、台地が工場地帯になりました。
故郷の若い人はだいたい工場に吸収されました。
故郷だけでなく、その周辺、さらには全国から若い人が来ました。
工業最盛期には、出稼ぎの外人の町のようになりました。

人々は台地に住宅を建てる土地をえることがむずかしく、水田地帯に住宅を建てました。
市は水田地帯の排水力改善に注力したようで大雨が降るとすぐ冠水ということはなくなりました。
昔の水田地帯は住宅地帯となりました。
しかし、海抜はほとんど変わっていません。

今では工業が衰退し、住民は高齢化しました。
もちろん農業は崩壊状態です。
水田は残っていますが、稲作をやめ、買い手を待っている水田が多くなっています。
しかしもう買い手はいません。

市は、今後の産業をどうするか苦悩しています。
台地の北部の古い町は、昔からの伝統産業を活かし、活気ある町として頑張っています。

ゴーストタウンになったのが台地の南部の新しい町です。
戦後いろいろな店ができましたが、事業基盤を確立できず、ほとんど二代目(私の世代の人)が事業を潰してしまいました。
初代が自分の事業に迷いを持ち、二代目は安定した収入が得られた工業で働くことを好んだようです。

同窓会で毎年故郷に行きます。
多くの同窓生が故郷に残り、工業の従業員になりました。
住宅を建て、普通の生活をしていますが、昔の水田地帯に家を建てた人が多くいます。
皆後期高齢者になり、今では大津波がこわいと言いながら、低地に住んでいます。
大津波が来たら逃げようがないと言っています。

河口からちょっと入ったところに巨大な水門があります。
津波の遡上を防ごうということでしょう。
海岸に巨大な防潮堤を建設しています。
海岸に近いところに300人ぐらい収容できる避難塔を建設しています。
しかし、これらは点のような構造物です。
予算がなくて思うように大津波対策は実行できないようです。

私の故郷の苦悩は、今の日本の地方の苦悩ではないかと思います。