EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

伊予松山城主、松平と久松の関係

2016年09月11日 | 伊予松山歴史散策

安政元年に再建された伊予松山城天守、現存天守で一番新しい。
本壇にある主要な建造物の鬼瓦には、徳川家康から賜った三つ葉葵紋が鬼瓦に刻まれている。

昨日(9月10日)、松山城で、日本100名城巡りをされている長野県佐久市の方から松山城主の家紋について尋ねられた。
伊予松山城主は、加藤嘉明・蒲生忠(ただ)知(ちか)・松平定行の三家なのに何故家紋が四つあるのかと問われた。それは、松平家の家紋(葵)と久松家の家紋(梅鉢)があるからですと説明した。
伊予松平家の祖は、久松家で、その祖先は、菅原道真の子孫とするので、菅原家の家紋である星梅鉢がありますと概要をお話した。・・なお詳細は私のブログに掲載しますので宜しければご覧くださいとお願いした。・・

久松家については
延喜元年(901)菅原道真は、大宰府に流され、その時一族は安古居(あごい)(愛知県知多郡阿久比町)に同じように流された。道真の死後宇多上皇は、無実であったとして許し、遺族を京都に戻した。道真の長男、高規(たかのり)は喜んで京都に帰ったが、その子雅(まさ)規(のり)は、9歳の時から安古居に住み、良くなじんでいるからと言って父について帰らず住み付き、後に地頭守護職になった。この雅規の幼名が「久松丸」であった。雅規の後、14代目の定道が菅原姓を捨てて、久松姓を名乗りこれが久松姓の起こりである。
愛知県知多郡阿久比町には、「久松家発祥の地」の石碑が建立されている。建立者は、松平勝(かつ)成(しげ)(伊予松山城主第14代・(久松定謨(さだこと)の祖父)である。

久松、松平家について
三河国の松平家康は、永禄9年(1566年)、朝廷から従五位下・三河守の叙任を受け、同時に許可を受け「徳川」に改姓した。
伊予松山三代目城主、松平定行の父は、定勝で母は伝通院(於大の方)、伝通院は、初め松平広忠に嫁ぎ家康を生んだ。
伝通院の実家は、尾張国刈屋城主、水野忠政の娘で、兄の水野信元は、松平広忠の反対派であった織田信長方につき、広忠は怒り伝通院を離縁させた。
17歳であった伝通院は、その後久松俊勝と再婚して久松定勝が誕生した。
定勝は、家康と異父同母弟で、定勝の次男、定行が伊予松山三代目城主、松平(久松)定行である。
定行は、徳川家康より、家門に准じて松平氏の称号並びに三つ葉葵紋を賜い明治維新まで松平姓を名乗った。
維新以降、新政府の指示に従い本姓である久松姓に戻した。
これが久松姓と松平姓の関わりで家紋が四つある由縁を了解してもらった。
加藤家の家紋:蛇の目・蒲生家の家紋:左三ツ巴・松平家の家紋:三つ葉葵・久松家の家紋:星梅鉢である。(久松定武は語るから一部引用)


伊予松山城主歴代家紋:加藤家の家紋:蛇の目・蒲生家の家紋:左三ツ巴・松平家の家紋:三つ葉葵・久松家の家紋:星梅鉢である。


伊予松山城本壇天守最上階の大棟にある、三つ葉葵が刻まれている鬼瓦。


天守の鬼瓦には全て三つ葉葵が刻まれている。現存12天守では伊予松山城だけである。


本壇にある天守の玄関、此処にも三つ葉葵が刻まれている鬼瓦と、懸魚にも三つ葉葵が刻まれている。


伊予松山城本壇に在る連立式天守を上空から撮影、天守、小天守、各櫓を連結しているのが良く分かる。此の城郭造を、連立式天守と言い、日本三代連立式天守の一つである。
姫路城・和歌山城・伊予松山城。
本壇に在る天守、小天守、各櫓の鬼瓦にも三つ葉葵が刻まれている。


伊予松山城の小天守に展示されている長持ちで、右に三つ葉葵、左に久松家(菅原家)の星梅鉢家紋が描かれている。
徳川家康を出産した母は、離縁され久松俊勝と再婚するが、家康は、今川義元の人質となり人生の苦しみを味わう。この時、母である於大の方(伝通院)と夫、再婚した久松俊勝と一緒に義元に、私たちはどうなってもいいから、家康を命だけは助けてやって下さい、大事に育ててやって下さいと頼んだ。この事を後で知った家康は、涙を流して母、於大の方を思ったと言われている。そして家康は、久松家に対して、松平氏の称号並びに三つ葉葵紋を与えた。


本壇に在る、天神櫓で、本壇の鬼門の方角に位置し、此処を護るとともに、久松家の祖である菅原道真公をお祀りしている。・・現在はこの付近工事中で見学出来ない。


天神櫓の内部には小さな社を造り、菅原道真公をお祀りしている。
櫓前面と社には、菅原道真公の星梅鉢の家紋の垂れ幕が施されている。


東雲神社の社号碑にある梅鉢の家紋、江戸時代は、葵紋があったのではないかと推察される。
よく見ると梅鉢の家紋所が切り取られている。
伊予松山城主の松平は本姓の久松に帰属せよと新政府から指示があった時、三つ葉葵を切り抜き、その後に梅鉢の紋をはめ込んだのではないか?・・これはあくまでも私の憶測である。・・東雲神社は、藩祖久松・松平家を祀った神社である。
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お遍路さん休憩所坂本屋・子規の句碑と里塚石

2016年09月07日 | 伊予松山歴史散策

坂本屋から少し下った伊予鉄バス丹波バス停の右上にある正岡子規の句碑がある。
「旅人のうた登り行く若葉かな」

正岡子規も歩いた坂本屋の前の道、また新田長次郎も行商によく久万に出向いたそうだが、この道を歩いた。もっとさかのぼると、土佐藩兵士も歩いた街道。
慶応4年1月11日、伊予松山藩は朝敵となり、朝廷は土佐藩に対して松山藩の討伐の令が発せられた。土佐藩主山内豊範は、伊予松山藩とは縁がある間柄出来れば戦火を交えず修めたい。松山藩の占領には長州がやってくる、その前に松山に行ってやらねばと考え同年1月23日、土佐を出発、1月25日、四国88ヶ所44番札所、大宝寺で宿泊した土佐隊兵士915名、荷駄夫を含むと総勢2000名の大部隊が坂本屋の前の道を歩いて松山藩に入城した歴史のある街道である。その当時坂本屋は未だ建築されてなかった。
その後、子規も歩いた土佐街道、その道沿いに正岡子規の句碑がある。


句碑は、石垣の上にあった旧窪野公民館の跡にある。


子規は、坂本屋の前の道(土佐街道)を歩き岩屋寺に行き句を詠んだ。
句碑には、「旅人のうた登り行く若葉かな」
草履単衣竹杖斑 孤村七月聴綿蠻
青々稲長恵原里 淡々雲懸三阪山
が刻まれている。
碑は、昭和27年4月、旧温泉郡坂本村窪野青年団が建立。
建立地は、松山市窪野町364番地 旧窪野公民館跡。(伊予鉄バス丹波バス停前)

子規ら4名(太田正躬・竹村鍛・三並良)は岩屋寺行きを志し、明治14年7月31日、荏原を通り三坂峠を越えて久万町に一泊、翌日岩屋寺の奇勝を尋ねたが帰り道、2歳年下の子規(満13歳)は疲れて歩けなくなり石井辺り(椿神社の入口)から人力車で家まで帰った。その直後この漢詩や「遊岩屋記・漢文」を回覧雑誌「近世雅感誌文」等に載せた。
誌は「草履単衣竹杖まだらなり。孤村七月聴綿蠻(めんばん)を聴く。青々稲は長ず恵原の里。
淡々雲はかかる三阪の山」と訓む。「綿蠻」は小鳥の鳴き声。
俳句は、明治25年、「寒山落木」に「三坂」と題してこの句がある。明治23年8月18日から3泊4日の岩屋寺への二度目の旅の時の事を思い出しての句である。
俳句散策、城南地区5番・・松山市子規記念博物館発行「俳句の里松山」より引用。


句碑の説明板が設置してある。


伊予鉄バス・丹波バス停から見た三坂峠でこの奥にお遍路休憩所、坂本屋がある。
左折れすると、一遍上人が修業をした窪寺跡に行く。
また、秋山好古が揮毫した正八幡神社の注連石がある。
丹波バス停までは片側一車線の県道だが、此れからは普通車一台が通れる狭い道で、坂本屋からは400m程で車の走行は出来ない本当の遍路道となる。


伊予鉄バス・丹波バス停前に「里塚石」がある。
「松山札辻より四里」と揮毫されている。
里塚石は新しく建立されているが、当時の古い里塚石も置いてある。
では、松山札辻は何処にあるのか、下記の画像で紹介します。


松山市本町三丁目にある、松山札之辻「松山藩道路元標」。
松山札之辻の所在地は、松山城北ノ門跡(三ノ丸入口)から西北(本町三丁目電停前)の西堀端北詰めに名を残す。
「札之辻」は、藩政時代松山藩の布達(ふたつ)・制札が掲げられた高札場(こうさつじょう)であった。また交通の要地や繁華な市街地などに法令を掲示して、民衆に周知させた場所であり、各地の交通の起点でもあった。
この札之辻も、松山から全国主要地への道程の起点となり、当時、松山から江戸日本橋までの距離は「二百十八里二丁三十九間」と公称されていた。
札之辻を起点に延びた街道沿いには、道路の方向や距離などを示すため、一里ごとに「里塚石(りづかいし)」が建てられていた。
現在札之辻跡には二つの石碑がある。一つは昭和46年当時の味酒公民館久保館長が発起人で「札之辻跡」が建立。もう一つは、昭和60年10月、建設省松山工事事務所・四国建設弘済会が松山藩道路元標を兼ねて建立されている。


場所は、松山城北ノ門跡(三ノ丸入口)から西北(本町三丁目電停前)の西堀端北詰めに名を残す。


松山札之辻の記念碑横に建立されている「里程標」。


昭和46年、当時の味酒公民館久保正留館長・小立惣平・池内利数が発起人で「札之辻跡」が建立された。
昭和60年10月、建設省松山工事事務所・四国建設弘済会が松山藩道路元標を兼ねて建立された奥に建立されている。


伊予松山城外堀北西の隅に建立されている。(木の左の石碑)
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お遍路さん休憩所・坂本屋の前にある石濱典夫さんの記念碑

2016年09月06日 | 伊予松山歴史散策

坂本屋の1階大広間に掲示されている「石濱典夫さん」の写真。
主の船田トシ子さんの許可を得て撮影した。


「石濱典夫さん」の記念碑で「伊予松山ハ明治ガ似合ウ」典夫と揮毫されている。
お遍路さんの休憩所お持て成し・坂本屋の前にある。
一昨日(9月4日)、坂本屋でお持て成し活動をされている菅野さんにお聞きしました。
坂本屋さんの前に在る記念碑は何の碑ですかと尋ねると「石濱典夫さん」の記念碑ですと教えて頂いた。碑の上に石濱典夫さんが胡坐をかいた姿を奥様が描かれ此れを坂本屋のある地元の石材彫刻家の相原さんが製作したそうです。坂本屋の1階の間に石濱典夫さん写真も飾られていました。
記念碑にお遍路さん気が付く方が居られるか否か?・・ですが、土日祝日の9時から15時までは、お遍路さんにお接待をされているが、土日祝日以外は雨戸が閉まり休憩が出来なく通過して目に付かないお遍路さんが居られると思いますが、次に歩き巡礼される時は是非見て下さい。
松山市が取り組んだ「坂の上の雲」街づくりに大きく貢献され、坂本屋の復興にも活動された偉人です。
略歴は、石碑に揮毫されていますのでご覧ください。


石濱典夫さんが胡坐をかいた姿を奥様が描かれた。松山市の市花「藪椿」もしっかりと描かれている。


記念碑の台座左側面に石濱典夫さんの略歴が揮毫されている。


記念碑の台座裏面。


一昨日、お接待をされていた菅野さんから頂いた「久谷里山」の案内図です。
松山市は現在人口、516、177人(平成28年8月1日現在)四国一の都市で、市街地は近代的な建造物が建ち都市化されているが、この坂本屋のある地区は、松山市の一番南に在り、隣接の自治体は上浮郡久万高原町で、山間部にあり自然豊かな地区である。時宗の開祖一遍上人が修業をした窪寺があった歴史豊の地域である。

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お遍路さんに休憩所でお持て成し・坂本屋

2016年09月04日 | 伊予松山歴史散策


松山市窪野町(旧、温泉郡坂本村大字窪野字桜)にお遍路さんの休憩所「坂本屋」がある。
国道33号線にある三坂峠の北側の山間部にあり自然豊かな場所で、四国88ヶ所霊場 第45番札所 岩屋寺から、第46番札所 浄瑠璃寺に向かう途中にある。岩屋寺と浄瑠璃寺の間約30km、徒歩で約8時間かかりその道は険しく、その途中にある坂本屋はお遍路さんにとって「ほっと」一息つく場所となっている。四国88ヶ所霊場開創1200年を迎えた2014年は、歩き遍路さん、そして外国人も増えたそうです。
四国88ヶ所霊場を1番札所から順番に巡るのを「順打ち」、88番札所から1番札所に向かって逆に巡る旅を「逆打ち」と言います。2016年は逆打ちで空海弘法大師様に巡り会えたという伝説が残る60年に一度の丙申(ひのえさる)にもあたることから、お遍路さんにとって“特別の年”と言われ例年にない多くのお遍路さんが巡礼しておられる。
それは、四国遍路を最初に始めた人物とされるのが衛門三郎だと言われ、お大師様を追いかけて四国霊場を何度も回り、死の間際にようやくお大師様に出会えたのが、逆打ち遍路をした「閏(うるう)年」と伝わり、またその閏年(832年当時)が60年に一度の丙申の年だったことから、同じ年回りの2016年にお遍路をすれば、「どこかでお大師様と出会えてご利益をいただける」と言われ、2016年はお遍路さんにとって「特別の年」に当たるのでお遍路さんが多いのです。・・と坂本屋の家主の船田トシ子は話された。
正岡子規はここを旅して、句を残している。
「旅人のうた のぼりゆく 若葉かな」・・明治25年作、昭和27年窪野青年団建立した句碑がある。
画像は、今日(9月4日)伺った遍路休憩所「坂本屋」です。


今日(9月4日)午前中は、台風12号の影響で降雨であったが、午後から晴れて来たので「遍路休憩所・坂本屋」に行って来た。


坂本屋の前の道路は旧土佐街道、坂本屋は明治後期に建造された遍路宿で、往時は色んな人々が通過した街道、遍路宿の前は旅籠屋として営業していた。


坂本屋の入口、午後1時30分に伺った。


坂本屋の入口でお遍路さんを待たれる主の「船田さん」お接待を終わる15時まで色んなお話を伺った。午後からはお遍路さんには会えなかったが、午前中雨の中6名の歩きお遍路さんをお迎えしたそうで、1人は外国人、逆打ち巡礼をするご夫婦1組、他の3名は順打ちされるお遍路さんだったそうです。残念ながら午後からはお遍路さんにお目に掛かる事は出来なかった。お遍路さん、なかには、体力が衰弱し倒れる一歩手前で坂本屋に辿り着き、応急手当を施し休息をして英気を取り戻し旅立つ遍路さんも居られるそうで、先日もその時のお礼に来られたそうです。気持ちがモヤモヤしていてもお接待をしていると気持ちが晴れやかになり、またわざわざお礼に来て頂いたお遍路さんの言葉を聞くとお接待をして良かったと思います。最近のお遍路さんはお変わりになったです。楽しみながら巡礼の旅をされてます・・以前は黙々として何か悲愴感があり近寄りがたく感じました・・と付け加えられた。
船田さんは、身体が動く限りお接待を続けますと語られた。・・本当にご苦労様です。


坂本屋の入口でお遍路さんを待たれる「菅野さん」。坂本屋さんのお接待の日時は、3月〜11月の土日・祝日で9時~15時迄、地元有志の約30人が4人~5人1組交代でお接待をしており、地元の市立坂本小学校の先生もお接待をされ、1日7人〜8人、多い日には約30人のお遍路さんを迎えて来たと話された。またお接待のない日は、軒下にある縁台を利用して一夜を過ごす遍路さんも居られますと言われた。


主の、船田さんの許可を得て内部を撮影させて頂きました。
先ず1階の大広間。衰弱しきったお遍路さんは此処で休息を取る。


次は2階の部屋です。


此れも2階部屋です。


1階の大広間の右にある囲炉裏、春・秋の寒い日は此の囲炉裏で暖を取り身体を温め、また雨天時では濡れた衣服を乾かし巡礼の旅を続けるそうです。


遍路宿「坂本屋」の説明板。
戦後まもなく看板を下し、長く廃屋になっていた。このままでは維持も困難、一般民家としては珍しい形態の建造物であるとある建築専門家の助言もあり、地域の文化遺産として保存しようと松山市と地元の有志により修復を行い2004年からお遍路さんの休憩所として新たに生まれた「坂本屋」。



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2016・夏の終わり

2016年09月02日 | 伊予松山歴史散策

我が家から見えていた、西日本最高峰石鎚山・1982mの眺望が出来なくなった。

例年の如く伊予(愛媛)の夏の始まりは、7月1日、西日本最高峰「石鎚山のお山開き」で開けたが今年の石鎚山は我が家から殆ど見ることが出来なかった。
一昨日で8月も終わり9月になった。立春より数えて210日がこの月の1、2日に、220日が11、12日にあたり、この両日が台風の多い大厄日として、古来、農家で恐れられてきたことからも、この月の気象の変動の大きいことが知られる。
今年の8月は、異常気象で外気温30度を超す猛暑日の連続、また台風の異常なコースで、それに伴う大雨、北海道・東北では大きな水害が発生し甚大な被害が出た。
昨日、台風12号が発生、今回は九州・四国・中国地方に上陸の恐れあり、西日本に被害が出ない事を祈るばかりである。
熊本地震、北海道・東北の水害、これに首都直下・東南海地震が勃発すれば日本列島どうなるのか非常に心配である。
昨日から9月、いよいよ秋到来の時期であるが今年は未だ残暑が続きそうだ。
穏やかな季節になってもらいたい。
近所の農家は、台風12号襲来を恐れ稲の収穫を始めた。



台風12号襲来を恐れ少し早めの収穫を始めた近所の農家。


入道雲は無くなり秋の雲に、画像の様に大きなビニールハウスが建設され、我が家の玄関から西日本最高峰石鎚山・1982mの眺望が出来なくなった。


雲は秋の装い、しかし気温は33、7度台風の余波か蒸し暑い。
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