安政元年に再建された伊予松山城天守、現存天守で一番新しい。
本壇にある主要な建造物の鬼瓦には、徳川家康から賜った三つ葉葵紋が鬼瓦に刻まれている。
昨日(9月10日)、松山城で、日本100名城巡りをされている長野県佐久市の方から松山城主の家紋について尋ねられた。
伊予松山城主は、加藤嘉明・蒲生忠(ただ)知(ちか)・松平定行の三家なのに何故家紋が四つあるのかと問われた。それは、松平家の家紋(葵)と久松家の家紋(梅鉢)があるからですと説明した。
伊予松平家の祖は、久松家で、その祖先は、菅原道真の子孫とするので、菅原家の家紋である星梅鉢がありますと概要をお話した。・・なお詳細は私のブログに掲載しますので宜しければご覧くださいとお願いした。・・
久松家については
延喜元年(901)菅原道真は、大宰府に流され、その時一族は安古居(あごい)(愛知県知多郡阿久比町)に同じように流された。道真の死後宇多上皇は、無実であったとして許し、遺族を京都に戻した。道真の長男、高規(たかのり)は喜んで京都に帰ったが、その子雅(まさ)規(のり)は、9歳の時から安古居に住み、良くなじんでいるからと言って父について帰らず住み付き、後に地頭守護職になった。この雅規の幼名が「久松丸」であった。雅規の後、14代目の定道が菅原姓を捨てて、久松姓を名乗りこれが久松姓の起こりである。
愛知県知多郡阿久比町には、「久松家発祥の地」の石碑が建立されている。建立者は、松平勝(かつ)成(しげ)(伊予松山城主第14代・(久松定謨(さだこと)の祖父)である。
久松、松平家について
三河国の松平家康は、永禄9年(1566年)、朝廷から従五位下・三河守の叙任を受け、同時に許可を受け「徳川」に改姓した。
伊予松山三代目城主、松平定行の父は、定勝で母は伝通院(於大の方)、伝通院は、初め松平広忠に嫁ぎ家康を生んだ。
伝通院の実家は、尾張国刈屋城主、水野忠政の娘で、兄の水野信元は、松平広忠の反対派であった織田信長方につき、広忠は怒り伝通院を離縁させた。
17歳であった伝通院は、その後久松俊勝と再婚して久松定勝が誕生した。
定勝は、家康と異父同母弟で、定勝の次男、定行が伊予松山三代目城主、松平(久松)定行である。
定行は、徳川家康より、家門に准じて松平氏の称号並びに三つ葉葵紋を賜い明治維新まで松平姓を名乗った。
維新以降、新政府の指示に従い本姓である久松姓に戻した。
これが久松姓と松平姓の関わりで家紋が四つある由縁を了解してもらった。
加藤家の家紋:蛇の目・蒲生家の家紋:左三ツ巴・松平家の家紋:三つ葉葵・久松家の家紋:星梅鉢である。(久松定武は語るから一部引用)
伊予松山城主歴代家紋:加藤家の家紋:蛇の目・蒲生家の家紋:左三ツ巴・松平家の家紋:三つ葉葵・久松家の家紋:星梅鉢である。
伊予松山城本壇天守最上階の大棟にある、三つ葉葵が刻まれている鬼瓦。
天守の鬼瓦には全て三つ葉葵が刻まれている。現存12天守では伊予松山城だけである。
本壇にある天守の玄関、此処にも三つ葉葵が刻まれている鬼瓦と、懸魚にも三つ葉葵が刻まれている。
伊予松山城本壇に在る連立式天守を上空から撮影、天守、小天守、各櫓を連結しているのが良く分かる。此の城郭造を、連立式天守と言い、日本三代連立式天守の一つである。
姫路城・和歌山城・伊予松山城。
本壇に在る天守、小天守、各櫓の鬼瓦にも三つ葉葵が刻まれている。
伊予松山城の小天守に展示されている長持ちで、右に三つ葉葵、左に久松家(菅原家)の星梅鉢家紋が描かれている。
徳川家康を出産した母は、離縁され久松俊勝と再婚するが、家康は、今川義元の人質となり人生の苦しみを味わう。この時、母である於大の方(伝通院)と夫、再婚した久松俊勝と一緒に義元に、私たちはどうなってもいいから、家康を命だけは助けてやって下さい、大事に育ててやって下さいと頼んだ。この事を後で知った家康は、涙を流して母、於大の方を思ったと言われている。そして家康は、久松家に対して、松平氏の称号並びに三つ葉葵紋を与えた。
本壇に在る、天神櫓で、本壇の鬼門の方角に位置し、此処を護るとともに、久松家の祖である菅原道真公をお祀りしている。・・現在はこの付近工事中で見学出来ない。
天神櫓の内部には小さな社を造り、菅原道真公をお祀りしている。
櫓前面と社には、菅原道真公の星梅鉢の家紋の垂れ幕が施されている。
東雲神社の社号碑にある梅鉢の家紋、江戸時代は、葵紋があったのではないかと推察される。
よく見ると梅鉢の家紋所が切り取られている。
伊予松山城主の松平は本姓の久松に帰属せよと新政府から指示があった時、三つ葉葵を切り抜き、その後に梅鉢の紋をはめ込んだのではないか?・・これはあくまでも私の憶測である。・・東雲神社は、藩祖久松・松平家を祀った神社である。