EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

お遍路さん休憩所坂本屋・子規の句碑と里塚石

2016年09月07日 | 伊予松山歴史散策

坂本屋から少し下った伊予鉄バス丹波バス停の右上にある正岡子規の句碑がある。
「旅人のうた登り行く若葉かな」

正岡子規も歩いた坂本屋の前の道、また新田長次郎も行商によく久万に出向いたそうだが、この道を歩いた。もっとさかのぼると、土佐藩兵士も歩いた街道。
慶応4年1月11日、伊予松山藩は朝敵となり、朝廷は土佐藩に対して松山藩の討伐の令が発せられた。土佐藩主山内豊範は、伊予松山藩とは縁がある間柄出来れば戦火を交えず修めたい。松山藩の占領には長州がやってくる、その前に松山に行ってやらねばと考え同年1月23日、土佐を出発、1月25日、四国88ヶ所44番札所、大宝寺で宿泊した土佐隊兵士915名、荷駄夫を含むと総勢2000名の大部隊が坂本屋の前の道を歩いて松山藩に入城した歴史のある街道である。その当時坂本屋は未だ建築されてなかった。
その後、子規も歩いた土佐街道、その道沿いに正岡子規の句碑がある。


句碑は、石垣の上にあった旧窪野公民館の跡にある。


子規は、坂本屋の前の道(土佐街道)を歩き岩屋寺に行き句を詠んだ。
句碑には、「旅人のうた登り行く若葉かな」
草履単衣竹杖斑 孤村七月聴綿蠻
青々稲長恵原里 淡々雲懸三阪山
が刻まれている。
碑は、昭和27年4月、旧温泉郡坂本村窪野青年団が建立。
建立地は、松山市窪野町364番地 旧窪野公民館跡。(伊予鉄バス丹波バス停前)

子規ら4名(太田正躬・竹村鍛・三並良)は岩屋寺行きを志し、明治14年7月31日、荏原を通り三坂峠を越えて久万町に一泊、翌日岩屋寺の奇勝を尋ねたが帰り道、2歳年下の子規(満13歳)は疲れて歩けなくなり石井辺り(椿神社の入口)から人力車で家まで帰った。その直後この漢詩や「遊岩屋記・漢文」を回覧雑誌「近世雅感誌文」等に載せた。
誌は「草履単衣竹杖まだらなり。孤村七月聴綿蠻(めんばん)を聴く。青々稲は長ず恵原の里。
淡々雲はかかる三阪の山」と訓む。「綿蠻」は小鳥の鳴き声。
俳句は、明治25年、「寒山落木」に「三坂」と題してこの句がある。明治23年8月18日から3泊4日の岩屋寺への二度目の旅の時の事を思い出しての句である。
俳句散策、城南地区5番・・松山市子規記念博物館発行「俳句の里松山」より引用。


句碑の説明板が設置してある。


伊予鉄バス・丹波バス停から見た三坂峠でこの奥にお遍路休憩所、坂本屋がある。
左折れすると、一遍上人が修業をした窪寺跡に行く。
また、秋山好古が揮毫した正八幡神社の注連石がある。
丹波バス停までは片側一車線の県道だが、此れからは普通車一台が通れる狭い道で、坂本屋からは400m程で車の走行は出来ない本当の遍路道となる。


伊予鉄バス・丹波バス停前に「里塚石」がある。
「松山札辻より四里」と揮毫されている。
里塚石は新しく建立されているが、当時の古い里塚石も置いてある。
では、松山札辻は何処にあるのか、下記の画像で紹介します。


松山市本町三丁目にある、松山札之辻「松山藩道路元標」。
松山札之辻の所在地は、松山城北ノ門跡(三ノ丸入口)から西北(本町三丁目電停前)の西堀端北詰めに名を残す。
「札之辻」は、藩政時代松山藩の布達(ふたつ)・制札が掲げられた高札場(こうさつじょう)であった。また交通の要地や繁華な市街地などに法令を掲示して、民衆に周知させた場所であり、各地の交通の起点でもあった。
この札之辻も、松山から全国主要地への道程の起点となり、当時、松山から江戸日本橋までの距離は「二百十八里二丁三十九間」と公称されていた。
札之辻を起点に延びた街道沿いには、道路の方向や距離などを示すため、一里ごとに「里塚石(りづかいし)」が建てられていた。
現在札之辻跡には二つの石碑がある。一つは昭和46年当時の味酒公民館久保館長が発起人で「札之辻跡」が建立。もう一つは、昭和60年10月、建設省松山工事事務所・四国建設弘済会が松山藩道路元標を兼ねて建立されている。


場所は、松山城北ノ門跡(三ノ丸入口)から西北(本町三丁目電停前)の西堀端北詰めに名を残す。


松山札之辻の記念碑横に建立されている「里程標」。


昭和46年、当時の味酒公民館久保正留館長・小立惣平・池内利数が発起人で「札之辻跡」が建立された。
昭和60年10月、建設省松山工事事務所・四国建設弘済会が松山藩道路元標を兼ねて建立された奥に建立されている。


伊予松山城外堀北西の隅に建立されている。(木の左の石碑)
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