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維新の故郷「高知県高岡郡梼原町」

2011年12月09日 | 伊予松山歴史散策
降雪の前にと思い、国道440号線の拡張工事が完成したのでドライブに高知県高岡郡梼原町に行ってみた。四国カルスト台地には行った事があるが、梼原町は初めてである。
国道440号線は、起点が愛媛県松山市で(松山市二番町・市役所前)終点は高知県高岡郡梼原町の国道197号線合流地点である。

「11月7日行った・・気温も高く梼原に着いてから日差しも出た。今日(9日)であれば降雪であったであろういい時に行った。」

国道は殆ど二車線化に拡張しているが、愛媛県久万高原町落出バイパスから、地芳トンネル入口の間に一部一車線の区間がある。高知県側は全て二車線化されていた。
松山から1時間50分梼原町で観光し帰りは197号線で大洲に出て松山自動車道で帰った。約6時間の車の旅をした。

梼原町は、
坂本龍馬が、勤王の志士たちが
         維新を夢見て駆けた維新の故郷、脱藩の道である。

 嘉永6年(1853)のペリー来航は日本の鎖国体制に穴をあけただけではなく、藩政体制崩壊の契機となりこの大きな時代のうねりは、梼原にも多大な影響を及ぼした。
坂本龍馬をはじめ、土佐勤王党、天誅組、忠勇隊に参画した梼原出身の志士、吉村虎太郎、那須信吾、那須俊平、掛橋和泉、中平龍之介、前田繁馬たちは、維新を夢見て決越し、大いなる使命感に燃えながら野越、神根越、化粧板、そして国境の九十九曲峠、韮ヶ峠への道を幾度となく往来したといわれている。

志士たちの多くは、志半ばにして不遇な最期を遂げているが、彼らの生きざまは、私たち現代人の心をとらえてやまない。
「維新の道」は、まさに日本の未来を切り拓く希望の道だった。

幕末の英雄・坂本龍馬は、同士澤村惣之丞とともに、文久2年(1862)3月24日、高知を出奔し、翌25日梼原に到着しその夜、梼原の勤王の志士である那須俊平、信吾父子の家に宿泊、26日、俊平・信吾父子の道案内により宮野々番所を抜け、四万川茶や谷の松ヶ峠番所を抜けて、予土県境の韮ヶ峠を越え伊予国(愛媛)に脱藩した。27日、龍馬は宿間村(五十崎町)に入り、28日には船で三田尻(山口県)に到着した。・・梼原町観光資料引用


新しく完成したトンネルを抜けると梼原町であった。何時の時代に建立したのか「梼原村道路元標」があった。


梼原町観光案内所の前に休憩所(西町関所)がある。藩政時代の関所跡に再現したのか??


梼原の町は統一された建物が建築され見た目も綺麗で素晴らしい通りであった。
6年前に国・県が推進する町創りに沿って店舗、住宅を建設時には補助金を受けられたそうだ。但し条件があり、外壁へ漆喰で、建築材木は地元梼原産を使用が条件だったそうです。通りには電柱がなく綺麗な町であった。


梼原町には伝統のある「津野山神楽」がある。昭和55年(1980)に国の重要無形民族文化財に指定・・そのためか町通りに神楽の鬼面の大蛮の展示物があった。


梼原町は何と言っても坂本龍馬が土佐藩を脱藩する時にたどった道、特に「掛橋和泉」邸では、同志が脱藩する際に家財を費やし援助をした。
石碑「維新の門」の後ろに龍馬や、亀山社中に加わって龍馬の片腕として活躍した澤村惣之丞、さらに那須信吾・俊平父子ら梼原町ゆかりの勤王の志士など8人を讃えた「維新の門群像」がある。維新の門の揮毫は、高知県知事・橋本大二郎。


中央が坂本龍馬で32歳、右が那須俊平、57歳 左が澤村惣之丞32歳


左から前田繁馬28歳 那須信吾34歳 中平龍之助22歳 吉村虎太郎26歳


銅像は、掛橋和泉で、坂本龍馬が土佐藩を脱藩する時に、特に「掛橋和泉」は同志が脱藩する際に家財を費やし旅費を援助した。和泉は国学を学び勤皇心が厚かった。養母に知られ同志の秘密が漏れるのをおそれ先祖の墓前で自殺した。27歳であった。


維新の門に献句がある。「倒幕の 命燃やした 八勇姿」


「維新の門」石碑裏面にある建立の経緯
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