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萬翠荘・国指定重要文化財に指定

2011年12月24日 | 伊予松山歴史散策
文部科学省告示第百六十号
愛媛県指定有形文化財の萬翠荘が平成23年11月29日付けで正式に国指定重要文化財に指定された。
以下は、答申により発表された内容。
1、区分   重要文化財(建造物)
2、名称   萬翠荘(旧久松家別邸) 2棟
        本   館(建築面積 397,79㎡・120,3坪)
         管理人舎(建築面積   43,91㎡・13,3坪)
3、所在地 愛媛県松山市一番丁3番地7
4、所有者 愛媛県
5、評価
萬翠荘は、本格的なフランス・ルネサンス様式による近代の住宅で、日本人建築家による意匠的に優秀な建築作品である。

また、県内で最初に導入された鉄筋コンクリート構造の建物であり、わが国における洋風住宅の受容と広がりを示すものとして重要である。
文化財保護法(昭和二十五年法律第二百十四号)第二十七条第一項の規定により、萬翠荘を重要文化財に指定する。
平成二十三年十一月二十九日 文部科学大臣 中川 正春


平成23年11月29日、国の重要文化財に指定された萬翠荘本館。
設計は後に愛媛県庁本館などを手がけた建築家木子七郎。
この建物は旧伊予松山藩主であった久松定謨が松山で住む別宅として大正11年11月完成した。
大正11年11月15日摂政宮殿下(昭和天皇が皇太子の時)が軍の大演習が高浜沖で行われ荒神山から観閲された。
摂政宮が滞在する為に建築中であった萬翠荘を突貫工事で完成を急いだ。


昭和20年11月米軍に接収され司令官が使用し、昭和22年から松山商工会議所として使用される。昭和54年に愛媛県立美術館分館と名称変更。昭和60年に愛媛県指定文化財に指定された。平成20年に改修工事が行われた。


萬翠荘管理人舎で今回本館と一緒に国の重要文化財に指定された。
場所は、萬翠荘入口横にある。


萬翠荘入口で門柱左に「萬翠荘」右手に「坂の上の雲ミュージアム」の表札が掲げられている。
左手の建物が「萬翠荘・管理舎」である。


萬翠荘入口を潜ると「坂の上の雲ミュージアム」の入口がありそこを左に折れると萬翠荘本館に通じる侵入路がある。画像の通り左右に植え込みがあり情緒のある路である。平成23年12月21日撮影。


この画像は萬翠荘が建築される前までにあった和風建築で平屋建てに接して二階建の建物があった。これが愛松亭で明治28年夏目漱石が松山中学に赴任し最初に下宿したのが「愛松亭」である。
撮影年は不明。
その後取壊され大正11に萬翠荘が出来る。


正岡子規と夏目漱石が52日間二人で生活した「愚陀佛庵」で、昭和57年に萬翠荘本館の裏手に復元されたが、平成22年7月12日未明からの大雨により、松山城東雲口登城道斜面において土砂崩れが発生し、愚陀佛庵は倒壊した。現在再建地を検討中。
画像は倒壊前の「愚陀佛庵」で平成19年10月8日撮影。


平成22年7月12日未明からの大雨により、松山城東雲口登城道斜面において土砂崩れが発生し、愚陀佛庵は倒壊した。現在は更地になっている。後方に一部見える建物は萬翠荘本館裏側である。撮影は、松山城東雲口登城道から。


参考1
画像は、東京都中央区久松町にある「久松小学校」である。
明治6年7月開校した久松小学校で校名の由来は旧伊予松山藩主久松定謨が巨額な寄附をしたものにより「久松小学校」と命名した。但し町名の久松は久松家とは関係がない。撮影:平成17年1月23日


参考2
NHK坂の上の雲に登場してくる人物が写っているので参考に掲示する。
この写真は、旧伊予松山藩主久松家の法要の時、東京久松邸で撮影されてものと言われている。画像中心に軍服姿が久松定謨で向かって左が、秋山好古(当時近衛師団長)、向かって右が仙波太郎(当時第一師団長)である。
後列向かって左から5番目が秋山眞之(当時海軍少将)。その右が加藤恒忠(正岡子規の叔父)中列左端が白川義則(当時陸軍少将)。


大正11年11月15日、昭和天皇が摂政宮の時、陸海軍の大演習が松山市高浜沖で行われ荒神山から観閲された。
その時の様子を報じた、大正11年11月17日付の海南新聞(現 愛媛新聞)
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