
明治11年2月25日、松根権六(司法官・旧宇和島藩城代家老・松根図書の長男)、母敏子(旧宇和島藩主伊達宗城の次女)の次男として東京築地に生まれた。本名は豊次郎。東京築地の文海学校・伊予大洲小学校・松山中学・一校・東大を経て、明治38年京都帝国大学法学部(仏)卒業、その間、松山中学で一年下に安部能成がいた。5年の時、夏目漱石が英語科教師として同校に赴任、漱石との繋がりはこのときから始まる。明治39年宮内庁に入り、式武官、また、帝室会計審査官を歴任、大正8年9月退官した。41歳であった。一高在学中、19歳の東洋城は熊本五校の漱石に俳句の指導を受け、また、子規庵にも出入りし明治33年はじめて「東洋城」と号した。
子規没後、碧梧桐が非定形型の句に走ったのに対して、明治39年3月より、虚子らと「俳諧散心」と称する「定型俳句を守る会」を度々開いたりしたが、のち東洋城は、「写生」一筋の立場に飽き足らず「子規より芭蕉へ」心が傾き、大正4年、38歳の東洋城は俳誌「渋柿」を創刊し、俳諧一筋の道を進む事とになった。表紙の「渋柿」の文字は漱石の揮毫である。虚子との関係でホトトギスにも関与していたが、「感有り」と題して「怒る事知ってあれども水温む」の句を作って「ホトトギス」とも袂を分った。東洋城は伝統的品格を重んじ、折り目正しい人であった。俳諧を究めつくした偉大な芭蕉の心を行じた人で、難行道を行じる事によって自然一体となる東洋城が主宰する「渋柿」にはそれが溢れていた。・・とある。
昭和27年、75歳の東洋城は、隠退を声明その後を「国民俳壇」以来の誠実な弟子、野村喜舟が継いだ。昭和29年77歳で芸術院会員となり、一生妻帯せず、独身、清貧のうち一生を終えた。墓は、宇和島市和津町・金剛山、大隆寺にある。昭和39年10月28日、逝去86歳であった。

松山市和気1丁目182番地、四国霊場第53番 円明寺にある句碑。
句は、「鶴飛久や丹頂雲越やぶりつゝ」
東洋城が母校松山中学校より求められて詠んだ句。前途ある若者へ贈るにふさわしい勢いのある句で、晩秋、シベリア方面から渡ってきた鶴は、冬を越し春になって北へ帰る。季語は「引鶴」。この句碑も殆ど字は見ない、句碑の説明板があるから東洋城の句と分かるが墨を入れ句が良く分かるようにしてほしい。

四国霊場第53番 円明寺山門左側に建立されている。

四国霊場第52番霊場の納経所の前にある句碑。
句は「春雨や王朝能詩タ今昔」
句碑は、太山寺参道の中ほどに納経所がある、その前の小高いところにある。句碑に使われた石は、渋柿派の句会が太山寺本堂で催された時に境内で見つけたものだという。春雨には明るい華やぎがあり、読まれる和歌も優美に聞こえたのであろう。俳句に対して大変厳しかった東洋城であるが、こんなに柔らかく優しい句もある。

「春雨や王朝能詩タ今昔」の句碑の裏面で、昭和25年、松山渋柿同人会とある。

四国霊場第52番札所霊場太山寺の納経所で、句碑はこの前にある参道の高台にある。

画像は、一畳庵(いちじょうあん)、東温市の惣河内(そうこうち)神社にある。門人で惣河内神社神職・佐伯巨星塔の好意により、社務所の一隅に昭和25年から27年にかけて延べ15ヶ月滞在し、「渋柿」門人への指導、編集の場ともなった。(東温市河之内4876番地)、玄関には、一畳庵の扁額がある。
一畳庵の内部には、松根東洋城が俳句の指導、食事などに使用していた机等々が現在も当時のものが置いてある。

画像は、東温市の惣河内神社、一畳庵前にある四季桜で(平成22年10月19日撮影)昭和25年から27年に掛けて滞在した時に、四季桜を見て次の句を詠んでいる。
「春秋冬 冬を百日 桜かな」四季桜を百日桜と詠んでいる。
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