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令和 元年12月 9日、秋山眞之の銅像移設される

2020年02月22日 | 伊予松山歴史散策

松山市梅津寺町見晴山山麓にあった秋山眞之の銅像が見晴山入口の小高い丘にある秋山好古銅像の傍に移設され、好古・眞之兄弟が並んで建つことになった。

兄弟の銅像が並んで建っているのは全国でも非常に珍しいことだと思う。

これからの画像は、移設された秋山眞之の銅像と、それに関連した事項を画像で記してみた。

なお、銅像が移設された理由は下記の通りである。

平成30年7月西日本豪雨により銅像が建立してある付近が土砂崩れに会い、観光に来られた方々が秋山眞之銅像の場所に行けないので銅像の位置を変更移設した。


令和元年12月9日設置された秋山好古・秋山眞之銅像の案内板。

電車は伊予鉄道高浜線で、伊予鉄道梅津寺駅から徒歩3分の所にある。

案内板の通りに歩くと秋山兄弟の銅像に行くことが出来る。

兄・秋山好古は、日露戦争の激戦地であった奉天を向いて建っている。

弟・秋山眞之は、日露戦争の時、帝国ロシア海軍太平洋第二艦隊・第三艦隊(通称・バルチック艦隊)との激戦地である日本海対馬海峡を向いて建っている。

令和元年12月9日設置された秋山好古・秋山眞之銅像の案内板。

令和元年12月9日移設された新しい場所に立つ秋山眞之銅像で、日本海対馬海峡を向いて建っている。

画像は、移設される前の秋山眞之の銅像で、松山市梅津寺見晴山の山麓にあったが、土砂崩れのため、令和元年12月9日秋山好古の銅像がある梅津寺見晴山登山道の入口に移転移設された。

なお、

移設された秋山眞之の銅像は、昭和38年(1963)四国88ヶ所第51番札所、石手寺に再建されたものである。

日本経済の発展に伴い歩き遍路から車での遍路になり駐車場整備の必要性から石手寺は、秋山眞之の銅像が邪魔になったのである。

ある観光関係のウエーブサイトに書かれている言葉に「石手寺から銅像を移設する際、一部の人から「軍人の銅像など要らぬ、潰してしまえと言う声があった。」と書かれている。

石手寺から移転する際、受け入れ先がなく伊予鉄道が管理する松山市梅津寺見晴山山麓に昭和43年(1968)9月に移された画像である。

秋山眞之の銅像台座正面には、元帥・伯爵、東郷平八郎が揮毫した「智謀如湧」の四文字と戦艦三笠のリレーフが埋め込まれている。

智謀如湧と戦艦三笠のリレーフは、昭和6年(1931年)、松山市道後公園内に建立された時のものである。

令和元年12月9日再び移設され新しく造った秋山眞之の説明版。

令和元年12月9日、秋山好古の銅像がある梅津寺見晴山登山道の入口に移転移設され、秋山眞之の銅像は、帝国ロシア海軍太平洋第二艦隊・第三艦隊、通称「バルチック艦隊」と戦った「日本海海戦の地」対馬海峡を望むように移設されており、兄・秋山好古の銅像は、日露戦争の激戦地である「奉天」を望むように建立されている。

後姿の二人の銅像。

秋山眞之の銅像は、帝国ロシア海軍太平洋第二艦隊・第三艦隊、通称「バルチック艦隊」と戦った「日本海海戦の地」対馬海峡を望むように移設されており、兄・秋山好古の銅像は、日露戦争の激戦地である「奉天」を望むように建立されている。

 

秋山眞之の銅像の台座裏面には、砥部焼で造られた「秋山眞之銅像建設関係者の署名」版が埋め込まれている。

銘板は、昭和38年石手寺の再建された時に造られたものである。

台座上部「芳名者」を大きくして開示。

台座下部を大きくして開示してみた。

秋山眞之の銅像の台座側面に埋め込まれている標版で、この銅製の標板は、昭和6年(1931年)、松山市道後公園内に建立された時のもので、銅像台座正面の元帥伯爵・東郷平八郎が揮毫した「智謀湧如」の四文字と戦艦三笠のリレーフとこの銘板は、昭和6年8月6日、に建立された時に使われた当時の本物である。(関係者が金属供出に出さず保管していた)

秋山好古の銅像。

好古は生前、家は要らぬ、墓も仰々しい物を作るな、銅像、石碑等々建立せぬようにと言って逝去したが、好古大将死後高徳を慕うあまり、井上要が銅像建委員長となり関係者たちは、昭和11年1月11日、道後公園「中世の城跡・湯築城」内に騎馬像が建立された。

しかし銅像は、先の大戦中に金属供出で鋳つぶされた。

 

画像の銅像は、梅津寺公園の見晴山に建っている秋山好古の銅像で、昭和45年1月に、篤志家の募金により建立されたものである。

台座裏面には、昭和11年道後公園に建立された当時陸軍大将、川島義之が揮毫した好古の経歴銘板が設置されている。 題字は、陸軍大臣川島義之書・・と書かれている。

川島義之は2,26事件当時の陸軍大臣で伊予松山出身・秋山好古の後輩、陸軍大学校20期生である。

秋山好古は、陸軍大学校10期生である。

銅像横に設置されている秋山好古の経歴説明版。

道後公園に建立されていた秋山眞之の銅像と元帥・伯爵・東郷平八郎の揮毫による「智謀如湧」、戦艦三笠のリレーフ、碑文。

昭和6年、眞之の13回忌と日本海海戦25周年に当たるのを記念して郷里の人々に顕彰運動が起り、井上要、岩崎一高、新田長次郎、山下亀三郎、各位多くの有志が発起人となり寄付金を募り道後公園内に建立された。
眞之が連合艦隊先任参謀として、三笠艦上にあったときの軍装姿であった。

銅像の台座正面には元帥・東郷平八郎の揮毫による「智謀如湧」の四文字の銅板がはめられた。

銅像本体は大東亜戦争時に金属回収されたが、東郷平八郎の揮毫による「智謀如湧」、戦艦三笠のリレーフ、碑文の三点は関係者たちが大切に保存していた。

道後公園に建立されていた秋山眞之の銅像で大東亜戦争時に金属回収により潰される前の銅像。

昭和6年、眞之の13回忌と日本海海戦25周年に当たるのを記念して郷里の人々に顕彰運動が起り、井上要、岩崎一高、新田長次郎、山下亀三郎、各位多くの有志が発起人となり寄付金を募り道後公園内に建立された。
眞之が連合艦隊先任参謀として、三笠艦上にあったときの軍装姿であった。
銅像の正面には、元帥、伯爵である東郷平八郎の揮毫による「智謀如湧」の四文字の銅板がはめられていた。
先の大戦中に本体の銅像は、金属供出で鋳つぶされた。しかし「智謀如湧」、「戦艦三笠のリレーフ」「碑文」の三点は関係者が残し、昭和38年に四国88ヵ所札所51番石手寺に再建された時に使われた。

平成23年4月30日、秋山兄弟生誕地事務局が作成した資料の一部です。

好古は生前、家は要らぬ、墓も仰々しい物を作るな、銅像、石碑等々建立せぬようにと言って逝去したが、好古大将死後高徳を慕うあまり、井上要が銅像建委員長となり関係者たちは、昭和11年1月11日、道後公園「中世の城跡・湯築城」内に騎馬像を建立した。

しかし銅像は、先の大戦中に金属供出で鋳つぶされた。

兄である好古が弟眞之を「淳、お前はお国の為に良く働いた。」・・と称えている姿に見える。

註:淳とは、秋山眞之の幼名が淳五郎で、元服して眞之と改名する。

  正岡子規も、淳さんと呼んでいた。

現在、秋山眞之の銅像は三体現存している。

その一つが東京目黒にある海上自衛隊目黒基地幹部学校4階のフロアー展示されている。

画像の銅像がその銅像である。
海上自衛隊幹部学校に安置されている秋山眞之の胸像は、海軍大学校教官時代の教え子達が醵金を募り(約900円)「当時イタリア大使館に勤務していた教え子の一人の武官が」ローマ在住の彫刻家・マリォ・リナルディに依頼して作った胸像の本物で、東京目黒にある海自衛隊幹部学校に安置されている。
画像は、平成17年5月12日海上自衛隊の許可を得て私が撮影した。

胸像は、

大正14年、イタリアから横浜港に着いた胸像は、教え子から眞之未亡人、季子さんに贈呈され、未亡人は即海軍大学校へ寄贈した。
先の大戦で連合軍による没収を恐れ一時期秋山家に返納された。
戦後現在の海上自衛隊幹部学校(目黒基地)に秋山家は返納し安置されている。

室内用に創られたので台座は木製である。


二つ目が、松山市歩行町にある秋山兄弟生誕地の胸像である。

東京目黒にある海上自衛隊幹部学校(目黒基地)の銅像を基に防衛省の許可を得てある大手の自動車企業の設計部門がコンピューターで設計図を作成し富山県高岡市の製作所で平成17年1月18日複製した。

屋外に創られたので台座は花崗岩製である。

秋山兄弟生誕地の眞之の胸像に立つ「本木雅弘さん」。
NHK坂の上の雲のロケが始まる前に秋山眞之を演ずるにあたり勉強に来ましたのでよろしくお願いしますと丁寧な挨拶をされた。本木雅弘さんにお願いして写真を撮らせて頂きました。

本木さんは、物腰の低い・言葉遣いが丁寧で・偉そうなそぶりは一切しない・字が綺麗(書道7段)

素晴らしい俳優さんでした。
義母である、樹木希林さんがきちんとした俳優とした躾をされたのでしょう。

三体目の銅像が、今回移転移設した松山市梅津寺町の見晴山入口にある銅像である。

 

参考までに

大東亜戦争で戦局が悪化し武器生産の不足を補うために、官民所有の金属類回収の勅令が昭和18年8月12日制定され二宮金次郎やお寺の鐘楼・有名人の銅像等々が供出された。

その時、東京に建立してある三体の銅像が対象外として回収されなかった。

その銅像は、

上野にある「西郷隆盛」の銅像。

靖国神社にある「大村益次郎」の銅像。

皇居外苑にある「楠木正成」の騎馬像。

三人の銅像に付いては次回記載する事とする。

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