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伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 2 蒲生忠知

2010年11月02日 | 往年の名車 メグロ
伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 2 蒲生忠知

加藤嘉明が会津に転封した後、出羽国の上ノ山城主であった蒲生忠知(がもうただちか)が伊予松山藩主に封ぜられた。

忠知は、有名な蒲生氏郷の孫であって、氏郷の逝去の後その子の秀行(忠知の父)は会津60万石を領したことがあった。秀行の死後、その子の忠郷が家を継いだが、寛永4年(1627)1月に病死したので、翌2月その弟の忠知が後をうけて、伊予松山藩と近江日野の地を併せて24万石となる。(伊予松山20万石+近江日野の地4万石)


蒲生忠知が松山に異封してきた時城郭は殆ど完成しており、ただ二ノ丸が建築半ばで、此れを造り伊予松山城が完成した。
加藤嘉明から27年掛かっての城郭完成であった。

寛永11年(1634)8月忠知は参勤交代の途中、京都で病気にかかり年わずか30歳で逝去した。忠知には嗣子がなかったので、蒲生家は松山在城すること7年4ヵ月で断絶した。

城主を失った伊予松山は幕府の命令により、大洲藩主加藤泰興および山崎家治・川崎紀通らの預かるところとなった。
その間わずか11ヵ月であったが、此れを伊予松山城在番時代という。

その後、寛永12年(1635)7月伊勢国桑名城主の松平定行が伊予松山城主15万石に封ぜられ、明治維新まで松平(久松)15代の子孫が継承して行った。

次回からは、伊予松山藩松平(久松)15代を紹介していく。

画像は、松山城隠門で、加藤嘉明が築城した中で最古の乾櫓・野原櫓に次ぐ古い貴重な城門である。この門は本丸で一番大きい筒井門に迫る寄手の背後から急襲する策略が秘められていた。2階は筒井門続櫓と隠門続櫓とを結ぶ渡櫓となっている。
昭和10年5月13日国宝に指定されたが、昭和25年5月、文化財保護法の制定により重要文化財に指定された。
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