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伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 1加藤嘉明

2010年11月02日 | 往年の名車 メグロ
伊予松山藩歴代藩主の家系を見る 1加藤嘉明

伊予松山城を語るには先ずは、加藤嘉明を語らなければならない。
嘉明は、永禄6年(1563)に三河の国幡豆郡永良郷に誕生、父の広明は徳川譜代に武士であったが翌7年(1564)徳川氏に反抗した一向宗徒の一揆に組したため郷里をすてて尾張国に逃避した。

父は死亡し嘉明は孤児となり近江長浜の馬喰の下僕していた。15歳の時羽柴秀吉の家臣、加藤影泰に認められ、その推挙によって秀吉に仕え、天正10年(1582)6月山崎の合戦で明智光秀を討ち、翌11年4月柴田勝家軍と賤ヵ岳の戦い、七本槍の一人として武勲をたて、文禄の役には、瀬戸内海の水軍を率いて功績をあげ、慶長の役では、名軍に包囲された加藤清正を救助し戦功により10万石を拝した。

秀吉の死後、慶長5年(1600)9月、関ヶ原の戦いでは東軍に組し、戦功を認められ所領を20万石に増加せれた嘉明は、手狭となった正木城(松前城)から居城を現在の松山に移した。慶長7年(1602)1月15日徳川家康の許可をえて築城開始し、同8年(1603)10月、正木城から新たな城に居を移し、この地を松山とすると公に称した。此れが現在の松山市の基となった。

嘉明は松山城完成1年前に寛永4年(1627)幕命により会津藩に命ぜられ40万石の大名になったが本人は、本意ない移封ではなかった。
なぜなら、命を掛けて築城した松山城は未完であったし老齢化した嘉明は寒冷地には行きたくなかったのである。江戸屋敷で寛永8年(1631)9月12日に死去した。享年69。伊予加藤家は一代で終わる。

嘉明の死後、家督は嫡男の加藤明成が継いだが、明成が暗愚なために家中で堀主水立ち退き事件が起こって幕府の介入を招き、減封、嗣子を立てて家名存続との裁定となるが、明成が正室をはばかって子息はないと頑固に主張したため改易され、庶子の加藤明友に近江水口藩2万石に減移封されることで名跡が保たれた。
その後、溝口 政親(みぞぐち まさちか、承応2年(1653) 元禄6年7月19日(1693年8月20日))は、越後沢海藩の第4代(最後)の藩主。加藤明友の次男。

天和3年(1683年)、養父で先代藩主の溝口政良の死去により後を継ぐ。しかし暗愚で酒乱の気があったため、家臣団にその行状を兄の加藤明英や幕府に訴えられて貞享4年(1687年)に改易されてしまった。政親自身は兄の預かりとなってその屋敷に押し込められ、終身500俵扶持の身となった。

註:伊予松山と越後新潟との関係は、近世江戸時代は加藤家と越後沢海藩、近代明治時代、秋山好古が新潟高田第13師団長として赴任、揮毫「忠魂碑」、現代平成になって、新潟市の新井満さんが、松山市の曲「この街で」を作曲松山市に提供・・新潟と伊予松山は、長い線で結ばれている不思議なご縁である。

画像で、伊予松山藩主加藤嘉明が創建した櫓、城門、続塀が国指定の重要文化財として現存しているものを紹介していく。

画像は、慶長年間に嘉明が創建した戸無し門で、国指定の重要文化財として現存している。全国の城門で戸が無い門は非常に珍しい。建築年は、寛永年間(1624)と推定で此れを過ぎると筒井門、隠門の防衛線に達する。

昭和10年5月13日国宝に指定されたが、昭和25年5月、文化財保護法の制定により重要文化財に指定された。
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