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松山市内の銅像巡り15 加藤彰廉 像

2014年11月16日 | 伊予松山歴史散策
ワシリー・ボイスマン大佐は、ロシア帝国太平洋艦隊の戦艦ペレスヴェートの艦長像(松山のロシア兵墓地に建立されている。ボイスマン大佐像)から久しぶりに、15番目に、加藤彰廉の胸像を記載する事にした。
松山市と愛媛県は16日投票日である、市長・県知事選挙があり、期日前投票所である、松山大学に投票をしに行った。その時、加藤彰廉の胸像を撮って来た。
松山大学構内には、「三恩人」と言われている、新田長次郎、加藤恒忠、加藤彰廉の3人の胸像があり、投票が終わった後に加藤彰廉の胸像を撮って来た。
加藤 彰廉(かとう あきかど)、文久元年12月27日~ 昭和8年9月18日)は、政治家であり教育者である。
伊予松山藩士宮城正修の二男として江戸に生まれ、加藤彰の養子となった。明治17年、東京大学文学部を卒業。文部省御用掛、主税局御用掛、大蔵属を歴任し、明治21年、山口高等中学校教諭となり、明治27年に広島中学校の校長に就任した。明治28年に市立大阪商業学校(現在の大阪市立大学)教諭に招かれ、明治32年に校長となり、明治34年まで務めた。その後、大阪高等学校教諭を務め、明治42年から大正4年、第12回衆議院議員総選挙に大阪府から出馬し、当選した。
明治5年、愛媛県松山市の私立北豫中学校校長に就任。大正12年、松山高等商業学校(現在の松山大学)が創設されると初代校長となった。同年3月、秋山好古が私立北豫中学校校長に就任した。


学内中ほどにある学生会館東に建立されている加藤彰廉氏の胸像。
受付職員に聞くも、加藤彰廉と加藤恒忠とが混同しているのか、建立場所が分からない??次回は、加藤恒忠の像を探すことにする。


銅像には珍しく色が付いている。


胸像前に掲示されている、加藤彰廉初代校長先生の経歴が書かれている。
加藤彰廉先生
本学園三恩人の一人で、松山藩士宮城正脩の二男として生まれ、東京帝国大学文学部(現東京大学)に学び西欧の新思潮を身につけた。
卒業後は文部省、大蔵省在任の後教育界に入り、山口高等中学教諭を経て大阪高等商業学校長となった。
晩年、要請されて北予中学(現県立松山北高等学校)校長に就任し、高等商業学校設立をいちはやく加藤恒忠松山市長に提案するなど設立運動に尽力した。
松山高等商業学校創設に際しては、初代校長に就任し、第一回卒業式において「真実・実用・忠実」を説いた訓示は校訓「三実主義」に確立され、人間形成の伝統原理として今日に受け継がれている。・・と書かれている。


胸像台座裏面にも銅版が埋込まれている。
昭和38年11月9日、創立40年を記念して温山会が像を建立したとある。


胸像裏面には、何か刻印されている。彫刻家の名前かも?


学生会館で、此処で期日前投票が行われた。


期間は、11月12日~14日間。前回は正面玄関にある、温山会館であったが、学生会館に変更されていた。


旧制 松山高等商業学校(現、松山大学)西門。


西門入口には画像の様な選挙の旗が掲げてあった。


松山大学西門。


期日前投票所場所の変更掲示板。
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