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大阪市立栄小学校(旧・有隣尋常小学校)

2017年05月24日 | 伊予松山歴史散策

新田長次郎が創設した私立有隣尋常小学校は、現在、大阪市立栄小学校となっている。

新田長次郎が18歳(明治8年)、秋山信三郎(好古)が16歳の時、二人は松山の城下町で出会った。長次郎は、伊予松山藩温泉郡山西村18番地、新田喜惣次の次男として出生した。生家は農家であったが、代々新田姓を名乗り、南北朝時代、足利尊氏に敗れ各地に分散した新田氏の流れをくんでいた。

熱心に読書をしていた信三郎の光景を見た長次郎は、信さん何の本を読んどるんぞな、と尋ねると、福沢諭吉さんの「学問のすすめ」よ、この本は凄い本ぞな、長さんも読んでみんかな・・と言われ読むことにした。その後二人は長さん、信さんと呼ぶ親しい間柄になった。

この本が切っ掛けで、信三郎は、教師を志、大阪師範学校に入学、名古屋師範学校の付属小学校の教師となる。(その後、郷里の先輩、名古屋付属小学校の教務官、和久正辰、名古屋鎮台の法務官、山本忠彰の強い勧めで軍人に転身する。伊予松山藩(親藩)から出た最初の軍人となる。)

長次郎は、大阪に出て会社を興し、信さんが教師になるのであれば、私は学校を造る事を志として努力した。二人の座右の銘は「独立自尊」であった。

これから画像で紹介する学校は、新田長次郎が創設した「有隣小学校」現在の大阪市立栄小学校である。

その後、長次郎は、郷里の松山に、松山高等商業学校(現、松山大学)を大正12年に創設、そして生まれ故郷の、温泉郡味生尋常小学校(現、松山市立味生小学校)校舎増築に際し多額の寄付を行い青少年の教育に寄与した。

新田長次郎が創設し、現在は、大阪市立栄小学校となっている学校を是非一度見てみたいと以前から思っていた。今回の旅の最後に伺ったのです。

新田長次郎、   安政4年5月29日生まれ

秋山信三郎好古、 安政6年1月 7日生まれ

 注1:秋山信三郎、後の秋山好古で日本の騎兵を創設し育て上げ、陸軍大将で、故郷の青少年の育成にと、地元からの強い要請を受け、北豫中学校長(大正13年2月~昭和5年3月)に就任した。北豫中学校は現在、愛媛県立松山北高等学校である。(大正12年3月31日、陸軍大将予備役、昭和4年4月1日、退役となる。)

 注2:新田長次郎は、秋山好古の奨めを受けて革ベルト製造会社を興し日本初の伝動用革ベルトの製造に成功。「東洋一のベルト王」と言われた。新田帯革製造所の創業者で、現在の「ニッタ株式会社」である。青少年の育成の為に学校創設に尽力した。(信さんと共に愛読した学問のすすめが根底にあった。)

また、日本で本格的にベニヤ板製造を開始したのも新田長次郎であった。

ニッタ株式会社は、秋山兄弟生誕地再建事業(平成17年1月18日完成)に際しては、多額の寄付を行っている。また揮毫嫌いであった秋山好古は、新田長次郎の強い勧めがあり大正14年以降に揮毫を始めた。大正14年以前に揮毫した好古の書は、大変貴重な物である。

 

新田長次郎が創設した「有隣尋常小学校・現在は、大阪市立栄小学校」で

平成29年5月10日、伺った画像で、校舎は想像していた建物とは大違いで、学校とは思えないおしゃれな建物でした。

JR大阪環状線、橋原駅から約300m程の大きな街道沿いにあった。

大阪難波に私立有隣尋常小学校を開校(現在の大阪市立栄小学校)設立時、教職員や学校運営の一切の経費を負担し、その上に、生徒の学用品、衣服、履物まで支給して教育に尽くした。・・好古と読み交わした「福沢諭吉の学問のすすめ」に共感しての事だった。

伊予松山藩は、朝敵とされ明治維新後は、大変な苦境の中、子供達はその苦難を味わい育った。二人は「福沢諭吉の学問のすすめ」を読み、人間生まれた時はみな一緒、後は、どれだけ勉強し努力するかで人間形成が構築される。二人は教育の大切さを感じ取り、志を決めたと私は思う。凄い二人です。

画像右の引き戸が正門だと思いますが、通用門には、注意書が掲示してあった。

注意書で、伺う前には、大きな門柱があり少し位は校庭に入れると思っていましたが思いは叶えなられなかった。

前もって理由書を付けて許可願を提出しておけば見学が許されたかもです。?

新田帯革製造所が軌道に乗り長次郎は、青少年の育成の為に学校開設行う。明治44年、地元の難波警察署の要請を受け、大阪難波に私立有隣尋常小学校を開校(現在の大阪市立栄小学校)した。その後大阪市は、民間人一人に負担をさせてはいけないと考えた。12年間経営し、大正11年、大阪市に施設・基金を付けて寄贈し、市立有隣小学校となる。

正門横に掲示されている、校名版。「大阪市立栄小学校」があった。

 

新田長次郎18歳、秋山好古は16歳の時、福沢諭吉の学問のすすめを読み、日本を近代化するには、先ずは子供の教育が必要であると感じ取り、自分の志を決めた書物であった。

秋山好古は教師となり、新田長次郎は、信さん(好古)が先生になるのであれば私は(長次郎)会社をお興し、その財をもって学校を作ると決めたのであった。二人の座右の銘は「独立自尊」であった。「福沢諭吉の学問のすすめに出て来る。」

新田長次郎が志した学校建設の思いが、現在もここ栄小学校に受け継がれていると私は感じた。その学校は、学校とは思えない現代的な建物に変貌、長さんもビックリしている事でしょう。

大正12年に新田長次郎が創設した松山大学で、当時は、松山高等商業学校と言い、全国で3番目の私立高等商業学校として開校した。これも郷里伊予松山の発展のため教育を通じて社会に貢献したいとの考によるものであった。

松山大学(松山市文京町)正門右に建立されている「新田長次郎」の胸像。

東洋一の「革ベルト王」と呼ばれた新田本社工場。昭和12年頃の画像。

画像は、西尾典祐氏著の「至誠」評伝・新田長次郎から引用。

大正14年、松山高等商業学校開設のお祝いに、元内閣総理大臣、清浦圭吾さんが来られ、大山祇神社(愛媛県今治市大三島町宮浦)を参拝した時の記念写真。

右から「新田長次郎・元内閣総理大臣・清浦圭吾・秋山好古」。

画像は、秋山兄弟生誕地所蔵

昭和5年3月、秋山好古は北豫中学校を辞任し、東京に帰る途中、同年5月、大阪の新田長次郎さんを訪ね一晩語り明かした。同年11月4日、東京の陸軍軍医学校病院で逝去、享年72歳。この事を知った長次郎さんは、あの時、信さん(秋山好古)は、私に別れの挨拶に来てくれたのであった。もっと色んな話をしたかったと号泣されたそうです。右が秋山好古、左が新田長次郎。

画像は、西尾典祐氏著の「至誠」評伝・新田長次郎から引用。

 「新田長次郎と秋山好古とは暫く会う事がなかったが、公務で大阪に出かけて時、好古の方から新田長次郎を訪ねた。長次郎は信さんが好古と改名したことを知らなかった。最後に大阪の新田長次郎を訪ねた時も信さん・長さんと呼び合って一晩を過ごした。新田長次郎さんの最も親交が深かった人が秋山好古であった。」

和歌山県海南市にある、新田長次郎が創園した「琴ノ浦 温山荘園」主屋座敷にある秋山好古が揮毫した扁額。この扁額は、昭和5年5月、新田長次郎さんを訪ねた時に揮毫したのでは?

平成24年3月14日、秋山兄弟生誕地研究員13名が研修に行った時許可を得て撮影した。

和歌山県海南市にある、新田長次郎が創園した「琴ノ浦 温山荘園」主屋座敷にある、内閣総理大臣、桂太郎が揮毫した扁額。

平成24年3月14日、秋山兄弟生誕地研究員達が研修に行った時許可を得て撮影した。

和歌山県海南市にある、新田長次郎が創園した「琴ノ浦 温山荘園」主屋座敷にある東郷平八郎が揮毫した扁額。琴ノ浦 温山荘の命名は、元帥・東郷平八郎である。

平成24年3月14日、秋山兄弟生誕地研究員達が研修に行った時許可を得て撮影した。

和歌山県海南市にある、新田長次郎が創園した「琴ノ浦 温山荘園」の主屋玄関に「温山荘」の扁額がある。揮毫は元帥・東郷平八郎である。

平成24年3月14日、撮影。

和歌山県海南市にある、新田長次郎が創園した「琴ノ浦 温山荘園」の入口で、新田長次郎の立像が建立してある。温山荘園は、大正初期から昭和初期に掛けて造園された。温山は、新田長次郎の雅号で、海軍元帥・東郷平八郎が「琴ノ浦温山荘」と命名した。

平成24年3月14日、撮影。

新田長次郎の故郷、愛媛県松山市立味生小学校、校長室に掲げてある。

平成25年6月4日、許可を得て撮影。

新田長次郎の故郷、愛媛県温泉郡味生尋常小学校本館が完成、大正13年落成式に参列された皆さんと記念の写真。前列右から4人目が、秋山好古・元内閣総理大臣、清浦圭吾・新田長次郎。

新田長次郎は、味生尋常小学校本館建設には多額の寄付を行っている。

元総理大臣清浦奎吾氏が、大正13年、味生尋常小学校本館落成式に参列された時に揮毫された扁額で、現在は、松山市立味生小学校で、体育館に掲示されている。

平成25年6月4日、許可を得て撮影。

新田長次郎が、大正13年、味生尋常小学校本館落成式に参列された時に揮毫された扁額で、現在は、松山市立味生小学校で、体育館に掲示されている。揮毫者は「温山」と書かれている。温山は、新田長次郎の雅号である。

平成25年6月4日、許可を得て撮影。

 

 

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1 コメント

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内容の訂正 (久光)
2017-06-22 14:08:06
はじめまして。私立有隣尋常小学校を検索していてこのページを拝見しました。新田長次郎の足跡研究をしたことがある者です。本文の参考に西尾典祐氏の「至誠」を利用されていますが、あの本はフィクションを交えて書かれた作品で、その中でも一番事実とかけ離れているのが秋山好古氏と新田長次郎の出会いの時期です。とてもドラマチックに描かれているので印象に残りやすく、これを事実のように語られる方も増えて来ていますが、秋山氏と長次郎の初対面は明治30年頃、秋山氏の大尉時代です。このことは新田長次郎本人が書き残した書籍「回顧七十有余年」の中に記されています。
フィクションがノンフィクションかのように広まるのがしのびなく、一言ご報告させていただきます。
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