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山頭火命日・松山市一草庵で法要と検定開催

2014年10月11日 | 伊予松山歴史散策
松山を愛して、松山を終焉の住処とした放浪漂泊の自由律俳人・種田山頭火は、昭和15年10月11日、「一草庵」にて、好きなお酒を飲んでコロリ往生した。
今日(10月11日)、山頭火没後75年を記念して、「一草庵」で法要と愛媛大学・松山大学の落研倶楽部の寄席と漫才が開催され、東隣の護国神社、みゆき会館で第5回「山頭火検定」が実施され検定試験を受けて来た。
歳を重ねると記憶力が低下し何も知識として脳裏に残らず問題60問中何問正解であったか定かではない。
山頭火とはどんな人物だったのあろうか。
その人生はまるでドラマをみているようです。母の衝撃的な自殺、父の放蕩、家業の破産、家庭の崩壊等、彼が青少年時代に失ったものは計り知れない。彼の苦悩は、酒なしでは耐えられるものではなかったのか?、早稲田大学に進学するも神経衰弱で退学、再び上京し一橋図書館に勤務するも関東大震災に遭遇し熊本に帰郷、人生の後半42歳の時に、熊本で泥酔して市電を止める大事件を起こし、これを機に、曹洞宗報恩寺で参禅生活を送り、出家得度し「耕畝(こうほ)」として仏の道を歩みはじめる。
大正15年、一笠一鉢の托鉢の旅立ち、しかし、考えた末かその後、俳句一筋の道を選び放浪の旅に出た。終焉の地は、気候風土が良く、人情味深く尊敬する俳人野村朱燐洞が眠る松山と決め、そしてコロリ往生を望んだその通りで没した。

山頭火の代表句:
         分け入っても分け入っても青い山
       ※ 鉄鉢の中へも霰
         ここまでを来し水を飲んで去る
       ※ 春風の鉢の子一つ
         うしろすがたのしぐれてゆくか
       ※ 濁れる水のなかれつつ澄む・・山頭火が逝去する一か月前に詠んだ
         焼かれて死ぬる蟲のにおひのかんばしく・・山頭火の絶筆
※印は、「一草庵」に句碑として建立されている。


明治15年12月3日、山口県防府市で生まれ、昭和15年10月11日松山で亡くなった自由律の俳人種田山頭火。


平成21年松山市が整備した種田山頭火終焉の地「一草庵」山頭火は全国を俳句行脚したが、山頭火を愛し山頭火の記念の館があるのは松山市だけである。


山頭火の命日であるため普段よりも賑やかな「一草庵」。


床の間には、お供え物が沢山置かれていた。


山頭火没後75周年とあって俳句行脚に使った鉄鉢を特別に子規記念博物館が貸し出した。
許可を得て撮らせて頂いた。


10月11日は山頭火の命日、山頭火一草庵で寄席が開かれた。


山頭火の命日、山頭火一草庵まつりのポスター。


特設席で山頭火一草庵まつりの寄席を演じる、愛媛大学落研倶楽部員、演目は、創作寄席「山頭火」を演じた。


寄席・漫才を演じた愛媛大学・松山大学の落研倶楽部員。


一草庵管理団体の許可を得て撮らせて頂いた貴重な写真。


一草庵管理団体の許可を得て撮らせて頂いた貴重な写真。左は、種田山頭火の長男、健さん。


昭和27年改築当初の一草庵。


当時の一草庵の間取り。6畳の間で句会が開かれており、山頭火は句会に参加せず3畳の間で心臓麻痺で亡くなった。句会に参加した人たちは、山頭火が無くなったのは知らず、唯疲れて寝ていたものと思い、翌早朝に高橋一洵さんが訪れると亡くなっていた。
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