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新伊予松山紀行 松山八社八幡 1番社 伊佐神社本殿

2013年01月02日 | 伊予松山歴史散策
伊佐爾波神社は、松山八社八幡の一番社として鎮座。

社伝によれば、335年、仲哀天皇と神功皇后が道後温泉に来湯した際の行宮跡に創建されたという。旧鎮座地は「伊佐爾波岡」と呼ばれていた場所で、現在の湯築城跡とされる。祭神は、仲哀天皇・慶神天皇・神功皇后・三柱姫大神である。
平安時代中期の『延喜式神名帳』には「伊予国温泉郡 伊佐尓波神社」と記載され、式内社に列しており、神仏習合の時代には、宝厳寺と石手寺は、共に伊佐爾波神社の別当寺であったとされる。

1338年伊予国守護・河野氏による湯築城の築城に際し、現在の地に移転した。その後、伊豫松山藩の藩主となった加藤嘉明は、松山城の固めとして松山八社八幡を定め、伊佐爾波は「湯月八幡宮」として一番社とされた。
弓の名手といわれた伊豫松山三代藩主松平定長は、将軍家(家綱)より江戸城内において弓の競射(流鏑馬)を命じられた際、湯月八幡宮へ必中祈願をした。寛文4年(1664)6月、定長は、将軍家の御前で弓を無事に射ることができ、祈願成就の御礼として社殿の造替に着手した。

寛文7年(1667)5月15日、飛騨の工匠を招き大工697人、延べ人数69,017人を要し新社殿が完成。松平家より代参として家老竹内家が参拝し、遷宮式が挙行された。新社殿は石清水八幡宮を模したとされる八幡造で、宇佐八幡宮とあわせて全国に3例しかない八幡造である。
神社の宝物として、重要文化財の太刀(銘 国行)がある。その他に全国的にも珍しい算額22面がある。算額とは、和算の事で、日本独自で発達した数学で関孝和が有名。22面が一社に残されているのは非常に珍しいことである。・・神社の回廊に展示してある。

そして昭和になり、神社の大改修が下記の通り行われた。
昭和31年(1956)6月、本殿が国の重要文化財に指定。
昭和42年(1967)6月、申殿及び廊下、楼門、廻廊が重要文化財に追加指定。
昭和45年(1970)から3年間にわたり、本格的な復元解体修理。
平成12年(2000)から2年間にわたり、総工事費約2億6千万円をかけ、屋根(檜皮)の葺き替え工事、丹朱塗他塗装工事、破損個所の補修、その他修復工事。
参道前の社号碑は、出雲大社第82代出雲国造千家尊統の書である。

註:松山八社八幡とは、「一番社:伊佐爾波神社・二番社:桑原八幡神社・三番社:日尾八幡神社・四番社:雄郡神社・五番社:日招八幡神社・六番社:朝日八幡神社・七番社:還熊八幡神社・八番社:阿沼美神社」


伊佐爾波神社正面で、場所は道後温泉南東方向の山麓にあり徒歩5分程で参拝出来る。


画像は、12月29日に撮影、神子さん達が新年の準備をしていた。


伊佐爾波神社拝殿で、本殿は、昭和31年6月28日、国指定重要文化財に指定された。


これが八幡造りと言われ、二棟の建物を前後に連結させて一つの社殿になったもの。八幡造りの代表は、宇佐神宮・岩清水八幡宮・伊佐爾波神社でこれを日本三大八幡造りと呼ばれ、伊佐爾波神社は、岩清水八幡宮を模して造営された。


構造は、切妻造りの二つの建物、前殿・後殿を前後に連結させ中間に一間の相の間が付く。前殿を外殿・礼殿といい、後殿を内殿とも呼ぶ。
神様は、昼間は前殿にお出になり、夜は後殿に移動される。
画像は、後方から撮り手前が後殿、奥が前殿。


回廊には、沢山の絵馬が奉納され展示してある。


回廊に見える神輿は、10月6日道後温泉駅前で八対の神輿の鉢合わせが行われるが、宮出はこの神社からでる。その神輿三体が常設展示されている。


全国でも珍しい算額が回廊に展示してある。


回廊に算額22面が展示してあるが、一社に22面が残されているのは珍しいとされる。


神社に参るにはこの石段を登ってこなくてはならない。左奥に見える丘が松山城で、石段をおり真っ直ぐ伸びる参道の突き当りに道後温泉駅がある。


神社にある国指定の重文の太刀。
昭和55年私が撮った写真である。刀を撮るのは難しいです。
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