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子規庵・大龍寺・羽二重団子・愚陀仏庵 その2 大龍寺(鎌倉霊園・青山霊園・鷺谷墓地含む)

2018年05月11日 | 伊予松山歴史散策

東京都北区田端四丁目にある眞言律宗の寺「大龍寺」で、正岡子規の墓碑があるので別名子規寺と呼ばれている。画像は、大龍寺山門。

 正岡子規は、慶応3年10月14日、伊予国温泉郡藤原町、現、愛媛県松山市花園町で、伊予松山15万石の藩士、馬廻り役の正岡隼太常尚と八重の長男として出生した。母八重は、松山藩の儒学者大原観山有恒の長女である。

慶応3年と言えば坂本龍馬が11月15日、近江屋事件で襲撃され亡くなった年で、昨年が、正岡子規生誕150年の年であった。

明治23年、帝国大学哲学科、現東京大学に入学、しかし文学に興味を持ち同年24年国文科に編入、この頃から子規と号して俳作に熱中する事になる。

明治25年10月、大学を退学、同年12月叔父の加藤恒忠(拓川)の友人、新聞日本の社主、陸(くが)羯(かつ)南(なん)を頼り新聞日本に入社、記者となり俳句の革新運動を開始する。

明治27年日清戦争が始まり、幼馴染の秋山眞之が御国の為に命を掛けて従軍している様を見て、わが身に出来る事は従軍記者として他になしの思いを抱き羯(かつ)南(なん)に願い出る。

体の弱い子規を案じた新聞日本社長、陸 羯南は猛反対するもそれを押し切り、近衛師団付の従軍記者として清国遼東半島に渡った。

この時子規は、清国に渡る前広島から故郷松山に帰り父の墓参りをしている。そしてこの時詠んだ句が

「春や昔15万石の城下哉」である。もしかして故郷に帰れないかもの思いがあったのか? これが今生の松山の見納めになるのではとの思いでこの句を詠んだのか?

広島から近衛師団付の記者として従軍、その帰路船中で喀血、神戸の須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷したのが、明治28年8月27日で、そして10月17日までの52日間身を寄せた先が、夏目漱石の下宿先である愚陀仏庵であった。

松山から東京に帰るため、漱石から10円を借りその途中、同年10月26日から29日の4日間、奈良に滞在した。この時詠んだ有名な句が「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」である。

そして奈良から東京に帰る途中、この頃から腰に痛みが生じ病魔が始まったのである。

子規庵で病を押しての壮烈な近代俳句活動が始まり子規は、近代俳句の祖と呼ばれる事になる。

愚陀仏庵で夏目漱石と別れて、明治35年9月19日死去するまでの7年間が子規の一番充実した日々であった。

海軍艦隊勤務で多忙の身であった幼馴染の秋山眞之が子規庵に子規を見舞いに行っている。

子規は、幼少時代からの親友である秋山眞之に「淳さん忙しいのによう来てくれた(だんだん)わしは家の外にはよう出れんけんど、床で俳句と頑張るぞな。・・と言った。すると眞之は升(のぼさん)そんな弱音を言ったらいかんぞなと言い返したそうだ。

そしてやがて9月19日がやって来た。

子規は生前、「静かな寺に葬って欲しい」と言っていたとされており、それで大龍寺に埋葬した。秋山眞之は艦隊勤務であったため、子規の葬儀には参列できず、大龍寺に眠る子規を訪ねている。

その眞之も大正7年2月4日、享年49歳の若さで逝去、東京予備門時代の同級生夏目漱石も、大正5年12月9日、享年49歳の若さで世を去った。

秋山眞之の辞世の句に「不生不滅 明けて鴉の 三羽かな」がある。三羽かなは、大きな志を抱き、朝敵とされた伊予松山から帝国大学(東京大学)を目指し共に東京大学予備門に通った清水則遠、正岡子規、秋山眞之の事だと言われている。

清水則遠は、明治19年4月、東京大学予備門時代に脚気がもとで逝去する。墓所は何処にあるのか不明である。

秋山眞之の墓所は、昭和62年まで、兄の好古と共に東京青山霊園にあったが、昭和62年6月、鎌倉霊園に移転する。

夏目漱石の墓碑は、雑司ヶ谷霊園にある。

漱石が子規に送った手紙に書かれた句に「鳴くならば 満月になけ ほととぎす」がる。

註:淳さんとは、秋山眞之の幼少期の名前で、秋山淳五郎、元服して眞之となる。

正式には、秋山淳五郎眞之である。

 だんだんとは、伊予松山の方言で「ありがとう」の意味。

 子規と眞之は、大人になっても「淳(じゅん)さん、升(のぼ)さん」と呼び合った。

 なお、書籍その他の資料には、秋山眞之を「真之」と記載されているが、「眞之」と書くのが本当である。戸籍、秋山兄弟生誕地には、全て「眞之」と記載されている。

 秋山眞之は今年が、生誕150年である。

大龍寺山門の左に正岡子規の墓碑が建立されている。

大龍寺は別名、子規寺と言われるが、それだけ子規の存在の大きさが分かる。

大龍寺本堂裏手に墓地があり、その一角に正岡子規、母八重、妹律の墓碑があり子規碑がある。

正岡子規の墓碑を中心に、右側に母、八重の墓碑、左に正岡家の墓碑があり妹律が眠っている。

正岡家の墓石の左に、平成19年1月、新しい子規碑が建立された。

子規碑は、昭和9年9月、33回忌に子規碑が建立された当時の子規碑を写真で製版して新しい子規碑の右側に掲示されている。

大龍寺の案内板で、徳川家との関係は説明されてない。

大龍寺の本殿でご本尊は大日如来。

大龍寺の本殿の扉には徳川家の三つ葉葵の家紋が配されている。

本殿の軒瓦にも徳川家の三つ葉葵の家紋が配されている。

大龍寺と徳川家とはどんな関係があるのでしょうか?、東京都北区観光課と北区図書館参考業務係に照会した。

大龍寺と徳川家に付いて、東京都北区観光課に照会しましたところ、地域振興部産業振興課から下記の回答がありました。

回答文、「慶長年間(1596~1615)の創建。もと新義真言宗に属し、不動院浄仙寺と称したが、天明年間(1781~89)光顕律師が中興して霊雲寺派に帰属せしめ、そのとき大龍寺と改称した。

本山霊雲寺は、元禄4年(1691)柳沢吉保を通じ、5代将軍綱吉の命により国家安寧・将軍家の武運長久の祈願寺として創建された。」・・でした。

5月12日、北区立中央図書館長名で照会に付いて回答がありました。

結果は、いろんな資料で検索しても確実なところは不明とありました。

『北区史 民俗編2』では少し詳しく触れられており、江戸時代の五代将軍徳川綱吉の命によって創建された将軍家の祈願寺で、関八州の真言律宗の総本山です。こうしたことを考えると、この霊雲寺が関係しているのかも知れませんが、確実なところはわかりません。
ただ、昭和28年(1953)に撮影された大龍寺の本堂の写真を見ますと、現在あるような三つ葉葵の紋は確認できません。と北区図書館からの回答でした。

鎌倉霊園にある秋山眞之の墓碑で、昭和62年6月、東京青山霊園から鎌倉霊園に移した。

秋山眞之が尊敬する兄、好古は生前、簡単明瞭質素倹約が信条で、家は要らぬ、仰々しい墓は建陸軍大将従二位勲一等功二級 秋山好古と言った仰々しい墓碑を建立するなと言い残したのだろう。

弟、眞之も秋山家の墓碑を建立し家族と一緒に眠っている。

墓碑の裏面に墓誌として氏名と没年が揮毫されていが、生前の功績など一切書かれていない。

墓碑の正面だけでは、海軍中将、従四位勲二等功三級、秋山眞之の墓とは分からない。

神奈川県鎌倉市十二所にある鎌倉霊園で、画像の様に広大な霊園なので、目指す墓を訪ねるには前もって番号を調べて訪れないと探すのは大変である。

昭和62年6月まで青山霊園にあった秋山眞之と妻季子の墓碑。

画像は、秋山兄弟生誕地所蔵。

雑司ヶ谷霊園にある夏目漱石の墓碑で、形は安楽椅子を模った墓碑となっている。

清水則遠、正岡子規、秋山眞之の3名が大きな志を抱き目指した帝国大学(東京大学)の赤門。

赤門は、文政10年(1827)加賀藩第13代藩主前田斉泰に嫁いだ第11代将軍徳川家斉の息女溶姫のために建てられた朱塗りの御守殿門で、門は、薬医門形式で、切妻造本瓦葺、昭和45年国指定の重要文化財に指定されている。

東京大学の通称「赤門」。

赤門を潜ると正面に安田講堂記念館が見えて来る。

東大は、いま東京大学中央食堂にあった有名人の絵画の廃棄処分で騒がれている。

東大キャンパス内にある「三四郎池」。

夏目漱石の名作三四郎は、ここを舞台としたため、三四郎池と呼ばれるようになった。

三四郎池の説明版。

ここからは参考までに、

画像の石碑・墓碑は、昭和7年、秋山好古没後3回忌に鷺谷墓地に有志が建立した。

秋山好古の墓碑は、東京都港区の青山霊園にあるが、松山市祝谷東町にある松山市営鷺谷墓地にもある。この墓地には秋山家の祖先の墓地があり、好古、眞之の両親の墓碑もある。

秋山好古は、簡単明瞭質素倹約を信条に、母の教えである「大人になったら世の為、人の為、故郷の為に尽くせる人となるように」と教えられて育った。

最後の仕事が残っていた。

それは、朝敵となった故郷伊予松山から有能な人物を育てて、御国のため郷里のために尽くせる事が出来る人づくりであった。秋山好古の最後の御奉公は、北豫中学校の校長としての教育者であった。

大阪師範学校を卒業、名古屋師範学校付属小学校の教員となったが、故郷の先輩、和久正辰教務官の強い勧めで明治10年、陸軍士官学校に入学、後に陸軍大学校第1期生として卒業、日本の騎兵隊を創設、陸軍の組織に身を置き大将まで上り詰め、大正12年、元帥に推薦されるもこれを辞退する。

この事に驚かれた大元帥(大正天皇)は特旨として、官位従二位を与え、此れは辞退するなよと言われたとある。

大正13年4月、故郷伊予松山から北豫中学校の校長にと強く要請され、妻子を東京に残して単身で松山の実家に6年間一日も休まず登校し、生徒を見守る姿は街中に知れ渡り、何時も正確な時間に教師よりも早く登校した。そして教師たちにも無言の教訓を与えた。

昭和5年11月4日、陸軍軍医学校病院にて逝去享年72歳であった。

秋山好古の絶筆となった書が千葉県船橋市薬円台三丁目、陸上自衛隊習志野駐屯地構内に「軍馬慰霊之碑」と揮毫された大きな記念碑がある。

好古は、昭和5年3月に北豫中学校長を辞任し、7月に東京に帰る途中大阪の新田長次郎氏を訪問している。東京に帰ると体調を崩し、同年10月15日、陸軍軍医学校病院に入院、昭和5年11月4日、陸軍軍医学校病院にて逝去享年72歳であった。

絶筆となった書「軍馬慰霊之碑」は、入院直前の昭和5年10月5日の筆で絶筆となった。

鷺谷墓地に建立された「永仰遺光(えいごういこう)」の石碑は、昭和7年、秋山好古没後3回忌に松山在郷有志達が設立したもので、その時、東京の秋山宗家の了承を得て青山霊園から分骨して墓碑も建立した。

墓所は、地元の人によって何時もきれいに清掃がされている。

註:永仰遺光(えいごういこう)の石碑は、秋山好古を永遠に敬意と尊敬の念を示し、その功績を未来に伝えたいとの思いで建立した。

秋山好古の絶筆となった書が千葉県船橋市薬円台三丁目、陸上自衛隊習志野駐屯地構内に「軍馬慰霊之碑」と揮毫された大きな記念碑がある。

好古は、昭和5年3月に北豫中学校長を辞任し、7月に東京に帰る途中大阪の新田長次郎氏を訪問している。東京に帰ると体調を崩し、同年10月15日、陸軍軍医学校病院に入院、同年11月4日、陸軍軍医学校病院にて逝去享年72歳であった。

「軍馬慰霊之碑」は、入院直前の昭和5年10月5日の筆で絶筆となった。

「軍馬慰霊之碑」の建立は、昭和5年11月で好古が逝去以降に除幕された。

昭和11年、秋山好古大将伝記刊行会、代表者、櫻井眞清から「秋山好古」が発行された。その背文字「秋山好古」は、昭和5年10月5日揮毫した軍馬慰霊之碑の肩書の秋山好古を使ったものである。

 

東京都港区の青山霊園にある秋山家宗家の墓所で、医学博士、男爵北里柴三郎の直ぐ西隣にある。

秋山好古は、秋山宗家第8代目で、第7代目までは青山霊園にあり、第6代目から以前の墓碑は松山市の鷺谷墓地にある。

青山霊園にある秋山宗家の墓所にある墓誌。

偉人の墓碑には、墓誌としてその経歴が書かれているが、好古の経歴など一切書かれていない。

只、氏名と逝去された年月日のみである。そして墓碑は小さく墓碑銘は、秋山家とだけ揮毫されている。

好古は生前、家は要らぬ、墓は作るな、銅像も記念になる石碑も作るなと言って逝去した。家は、大将になっても借家住まいであった。

秋山兄弟生誕地にある騎馬像・石碑も、昭和12年に、そろそろ建立しても好古さんは許してくれるだろうとの勝手な考えで井上要氏が中心になって建立したものである。

当時の騎馬像は、湯築城跡(現道後公園)にあったが、大東亜戦争時の金属供出により潰された。

秋山兄弟生誕地にある騎馬像は、平成17年1月18日、復元した銅像である。

昭和62年6月秋山宗家第10代秋山哲兒氏は、墓碑を新しく改装され、その時名刺受を作られた。

画像は、伊予松山15万石の城下町の夜景で、現在は、人口51万4千人の城下町おして発展した。

明治27年日清戦争が始まり、幼馴染の秋山眞之が御国の為に命を掛けて従軍している様を見て、わが身に出来る事は記者として他になしの思いで事を起こすが、体の弱い子規を案じた新聞日本社長、陸 羯南は猛反対するもそれを押し切り、近衛師団付の従軍記者として清国遼東半島に渡った。

この時子規は、清国に渡る前広島から故郷松山に帰り父の墓参りをしている。そしてこの時詠んだ句が

「春や昔15万石の城下哉」である。

 

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