長野県安曇野市豊科に秋山好古揮毫の石碑(石塔)が新たに発見され、5月31日に取材に行って来た事については、6月3日付けのブログで紹介しましたが、内田與作の石塔は、明治29年6月30日、秋山好古が建立した、東京都世田谷区池尻四丁目にある石碑「哀悼碑」と深い関係がある。
世田谷区の石碑哀悼碑裏面には、日清戦争で第一騎兵連隊隊員が祖国防衛の為戦死し後世に伝えるために好古は、15名の戦死者の階級と氏名、戦死した場所と、その年月日までが刻印されている。
好古がこの事を書面として書き残して居たら、民の目に触れることなく現在の防衛省の資料室の片隅に置かれていただろうが、好古は屋外に哀悼碑として出した。
52基発見されている石碑で好古が揮毫し自身が自費で建立した石碑はこの石碑のみである。石碑として外に出した事が後に繋がることになる。
所在地は、東京都世田谷区池尻四丁目見晴らし広場の官有地で、騎兵第一連隊があった場所である。
石碑の裏面には、戦死した騎兵隊員の階級と氏名が書かれておりこの中に、神奈川県平塚市の添田賢次郎隊員と、長野県安曇野市の内田與作隊員の名前が奇しくも並んで書かれており、階級も戦死した場所も年月日も同じである。
添田賢次郎隊員の石碑が平成25年3月に発見され、内田與作隊員の石碑が平成27年9月11日に発見された。
安曇野市の石碑は神奈川県平塚市の添田さんから連絡があったので5月31日に取材に伺った。
この石碑が内田與作の石塔と添田賢次郎隊員の石碑発見の基となった石碑である。
この石碑は凄い、好古が名誉な戦死をし、残された家族の事を思い後世に残す思いで自分が碑文を考え自身が建立した唯一の石碑で一番古い石碑である。
総務省曰く「国有地に好古が勝手に建立した、国は関知しないとの由、撤去命令が出た時は、秋山兄弟生誕地に引取る旨世田谷区に公文書で譲渡請願書を提出してある。
石碑の由来:明治27年8月、日清戦争勃発。明治28年4月、日清講和条約調印し終戦を迎えたが、この役で戦死した騎兵隊員氏名を碑石裏面に記載し後世に伝えるため騎兵第一聨隊長秋山好古が直筆で謹記した。
碑石の管理は世田谷区役所が行っている。
記念碑は、文字の刻印が浅く通常の状態では撮影しても文字が見えず世田谷区役所の許可を得て担当吏員立会いの下平成18年10月6日、文字に墨入れをして撮影した。
秋山好古揮毫の石碑写真集P6に掲載してある。
平成18年10月6日写真取材に行った。
1.碑 文 : 征清之役戦死者哀悼碑
2.所 在 地 : 東京都世田谷区池尻4丁目
3.揮 毫 者 : 騎兵第一聨隊長 秋山好古
4.建 立 者 : 騎兵第一聨隊長 秋山好古
5.建立年月日 : 明治29年6月30日
6.石碑大きさ : 高さ・1m14㎝ 横幅・1m71㎝ 厚み・8㎝
石碑裏面でここに戦死した騎兵隊隊員の階級・氏名・戦死年月日・戦死した場所が記載されている。
哀悼碑の裏面。
中程に、内田與作隊員と添田賢次郎隊員の名前が見える。
戦死年月日・戦死した場所が記載されている。
哀悼碑の裏面に書かれている戦没者氏名他が記載されている。
参考までに:添田賢次郎隊員の出生地、神奈川県平塚市に建立されている添田賢次郎隊員の名誉な戦死に対して秋山好古が揮毫し、実父である添田保吉が建立した石碑で、撰文・篆額(義烈)全て秋山好古が揮毫した。
添田賢次郎隊員の出生地、神奈川県平塚市に建立されている添田賢次郎隊員の名誉な戦死に対して秋山好古が揮毫し、実父である添田保吉が建立した石碑で、撰文・篆額(義烈)全て秋山好古が揮毫した。
添田賢次郎の氏名も東京都世田谷区の石碑裏面に書かれている。
1.篆 額 : 義 烈
2.碑 文 : 鐡馬奮闘 蹴雪衝風 斃而後止 惟義惟忠
3.所 在 地: 神奈川県平塚市広川・広川八幡神社
4.揮 毫 者: 陸軍騎兵大佐 秋山好古
5.建 立 者: 添田保吉(賢次郎・実父6.建立年月日: 明治31年10月吉日
7.碑石大きさ: 高さ・1m 70cm 横幅・1m 23cm 厚さ・24cm
8.石碑の由来:
添田賢次郎氏は、神奈川県大住郡金目村字広川(現 平塚市広川)で保吉氏の長男として生まれた。明治26年12月第一師団騎兵第一大隊第二中隊に入隊し、その後騎兵一等卒に進み馬術・銃鎗の技を修め本体に属し戦地に赴く。斥候の任務に服し蓋平の戦いに於いて勇ましく戦い、二道溝栄口に敵を迎え撃つも激戦の末名誉な戦死をした。
御国より戦功を追償し、金若千を賜りまた別に遺族を扶助する金を賜る。騎兵隊員、添田賢次郎の実父添田保吉は、息子の名誉な戦死を添田家の後世に伝えたく秋山好古に揮毫を依頼し石碑を建立した。
現在、好古揮毫の石碑は全国に50基発見されているが、名誉な戦死をした優秀な騎兵隊員について漢詩で撰文した石碑は2基のみである。(1基は千葉県道野辺神社三分割され18年間眠っている)よって建立されているのはこの石碑のみである。
石碑の情報提供者は、添田保吉氏から4代目に当たる、吉則氏の妻、添田敬子氏が遠路はるばる神奈川県平塚市から平成24年4月18日、秋山邸に石碑に関する資料を持参してお越しになり判明した。東京世田谷区にある石碑「日清戦争で戦死した哀悼碑」の裏面に、好古は14名の隊員の氏名を自筆で刻印しているが、騎兵一等卒添田賢次郎氏の名前を好古は忘れることなく揮毫している。平塚市の石碑は、2番目に古い貴重な石碑である。
平成24年5月23日現地平塚市に伺い写真取材をした。
この事が今回この石碑が発見され、好古が哀悼の意を篭めて建立した思いが116年経過したいま実ったのである。・・「高が石碑、然れども碑」である。
篆額(てんがく): 石碑などの上部に篆書体で書かれた題字
平成24年5月23日:神奈川県平塚市取材
秋山好古揮毫石碑専任調査員:仙 波 満 夫・文責
石碑に揮毫者、秋山好古の名前が見える。
世田谷区の石碑哀悼碑裏面には、日清戦争で第一騎兵連隊隊員が祖国防衛の為戦死し後世に伝えるために好古は、15名の戦死者の階級と氏名、戦死した場所と、その年月日までが刻印されている。
好古がこの事を書面として書き残して居たら、民の目に触れることなく現在の防衛省の資料室の片隅に置かれていただろうが、好古は屋外に哀悼碑として出した。
52基発見されている石碑で好古が揮毫し自身が自費で建立した石碑はこの石碑のみである。石碑として外に出した事が後に繋がることになる。
所在地は、東京都世田谷区池尻四丁目見晴らし広場の官有地で、騎兵第一連隊があった場所である。
石碑の裏面には、戦死した騎兵隊員の階級と氏名が書かれておりこの中に、神奈川県平塚市の添田賢次郎隊員と、長野県安曇野市の内田與作隊員の名前が奇しくも並んで書かれており、階級も戦死した場所も年月日も同じである。
添田賢次郎隊員の石碑が平成25年3月に発見され、内田與作隊員の石碑が平成27年9月11日に発見された。
安曇野市の石碑は神奈川県平塚市の添田さんから連絡があったので5月31日に取材に伺った。
この石碑が内田與作の石塔と添田賢次郎隊員の石碑発見の基となった石碑である。
この石碑は凄い、好古が名誉な戦死をし、残された家族の事を思い後世に残す思いで自分が碑文を考え自身が建立した唯一の石碑で一番古い石碑である。
総務省曰く「国有地に好古が勝手に建立した、国は関知しないとの由、撤去命令が出た時は、秋山兄弟生誕地に引取る旨世田谷区に公文書で譲渡請願書を提出してある。
石碑の由来:明治27年8月、日清戦争勃発。明治28年4月、日清講和条約調印し終戦を迎えたが、この役で戦死した騎兵隊員氏名を碑石裏面に記載し後世に伝えるため騎兵第一聨隊長秋山好古が直筆で謹記した。
碑石の管理は世田谷区役所が行っている。
記念碑は、文字の刻印が浅く通常の状態では撮影しても文字が見えず世田谷区役所の許可を得て担当吏員立会いの下平成18年10月6日、文字に墨入れをして撮影した。
秋山好古揮毫の石碑写真集P6に掲載してある。
平成18年10月6日写真取材に行った。
1.碑 文 : 征清之役戦死者哀悼碑
2.所 在 地 : 東京都世田谷区池尻4丁目
3.揮 毫 者 : 騎兵第一聨隊長 秋山好古
4.建 立 者 : 騎兵第一聨隊長 秋山好古
5.建立年月日 : 明治29年6月30日
6.石碑大きさ : 高さ・1m14㎝ 横幅・1m71㎝ 厚み・8㎝
石碑裏面でここに戦死した騎兵隊隊員の階級・氏名・戦死年月日・戦死した場所が記載されている。
哀悼碑の裏面。
中程に、内田與作隊員と添田賢次郎隊員の名前が見える。
戦死年月日・戦死した場所が記載されている。
哀悼碑の裏面に書かれている戦没者氏名他が記載されている。
参考までに:添田賢次郎隊員の出生地、神奈川県平塚市に建立されている添田賢次郎隊員の名誉な戦死に対して秋山好古が揮毫し、実父である添田保吉が建立した石碑で、撰文・篆額(義烈)全て秋山好古が揮毫した。
添田賢次郎隊員の出生地、神奈川県平塚市に建立されている添田賢次郎隊員の名誉な戦死に対して秋山好古が揮毫し、実父である添田保吉が建立した石碑で、撰文・篆額(義烈)全て秋山好古が揮毫した。
添田賢次郎の氏名も東京都世田谷区の石碑裏面に書かれている。
1.篆 額 : 義 烈
2.碑 文 : 鐡馬奮闘 蹴雪衝風 斃而後止 惟義惟忠
3.所 在 地: 神奈川県平塚市広川・広川八幡神社
4.揮 毫 者: 陸軍騎兵大佐 秋山好古
5.建 立 者: 添田保吉(賢次郎・実父6.建立年月日: 明治31年10月吉日
7.碑石大きさ: 高さ・1m 70cm 横幅・1m 23cm 厚さ・24cm
8.石碑の由来:
添田賢次郎氏は、神奈川県大住郡金目村字広川(現 平塚市広川)で保吉氏の長男として生まれた。明治26年12月第一師団騎兵第一大隊第二中隊に入隊し、その後騎兵一等卒に進み馬術・銃鎗の技を修め本体に属し戦地に赴く。斥候の任務に服し蓋平の戦いに於いて勇ましく戦い、二道溝栄口に敵を迎え撃つも激戦の末名誉な戦死をした。
御国より戦功を追償し、金若千を賜りまた別に遺族を扶助する金を賜る。騎兵隊員、添田賢次郎の実父添田保吉は、息子の名誉な戦死を添田家の後世に伝えたく秋山好古に揮毫を依頼し石碑を建立した。
現在、好古揮毫の石碑は全国に50基発見されているが、名誉な戦死をした優秀な騎兵隊員について漢詩で撰文した石碑は2基のみである。(1基は千葉県道野辺神社三分割され18年間眠っている)よって建立されているのはこの石碑のみである。
石碑の情報提供者は、添田保吉氏から4代目に当たる、吉則氏の妻、添田敬子氏が遠路はるばる神奈川県平塚市から平成24年4月18日、秋山邸に石碑に関する資料を持参してお越しになり判明した。東京世田谷区にある石碑「日清戦争で戦死した哀悼碑」の裏面に、好古は14名の隊員の氏名を自筆で刻印しているが、騎兵一等卒添田賢次郎氏の名前を好古は忘れることなく揮毫している。平塚市の石碑は、2番目に古い貴重な石碑である。
平成24年5月23日現地平塚市に伺い写真取材をした。
この事が今回この石碑が発見され、好古が哀悼の意を篭めて建立した思いが116年経過したいま実ったのである。・・「高が石碑、然れども碑」である。
篆額(てんがく): 石碑などの上部に篆書体で書かれた題字
平成24年5月23日:神奈川県平塚市取材
秋山好古揮毫石碑専任調査員:仙 波 満 夫・文責
石碑に揮毫者、秋山好古の名前が見える。
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