4月8日今治市小島にある、芸予要塞跡歴史見聞をした後、伊予水軍料理で昼食を取って、今日の午後の研修地である、今治城を散策した。
今治城散策の目的は、伊予松山城では見られない石垣と櫓に大砲狭間がある事そして海城である事、特に石垣は、穴太積みで一部の石は石灰岩を使っている。
今治城の概要は、1600年9月の関ヶ原の戦いで武勲を挙げた、藤堂高虎は、徳川家康から伊予国半分20万石を拝領、拠点を今治に措き、当時初めての創建となる「層塔型」の五層天守を建設した。外堀は海水を取り入れた海に通じるもので物流にも大変便利な仕掛けであった。その他城門、櫓、犬走りを要した石積み、高虎が考案した近代的な造りの築城が完成した。同じく徳川家康から伊予国半分20万石を拝領した、加藤嘉明も松山城を築城中で、高虎の城造りを偵察に行ったと逸話があるほど高虎の築城技術は卓越していた。
高虎の今治藩主としての在藩は、8年間で1608年伊勢国伊賀に転封となり、この時天守を解体し徳川家康に寄進、丹波亀山城天守に移築されたと伝わる。
この時今治には、2万石の飛び地が出来、その城代として高虎の養子、高吉が2万石の城代が誕生するが、1635年第3代将軍徳川家光は、藤堂高吉を伊勢国名張に転封、この時一家臣であった秋山好古・眞之の祖先である秋山子助太夫久信も伊勢国名張に移るが、間もなく今治に帰り、直ぐ伊予松山に移り伊予松山第3代藩主、松平定行の家臣として使えこの時から秋山家は代々徒歩目付けの家系で維新を迎える。
徳川家光は、今治藩に長島藩7000石、松平定房に3万石を与え、家光は兄の伊予松山藩主松平定行を補佐せよとの配慮によるものであった。
今治城天守は、高虎が解体して以来天守の存在はなく、現在の天守は、今治市制60周年を記念して、昭和55年5層6階の天守が築城されたが、残念ながら藤堂高虎が創建した層塔型でなく、望楼型天守が建てられた。なぜ層塔型にしなかったのか謎である。よって現在の今治城天守は模擬天守である。
平成18年今治城開城40年記念事業として、鉄御門と穴太積みの石垣が復元された。特に石垣は、全国唯一、穴太衆が積む「穴太積み」技法を継承する滋賀県大津市坂本に在する「粟田建設」が施行したものである。

鉄御門からみた大手通りで、まだ桜が咲いていた。

大手から見た鉄御門。

鉄御門の前に大手門(高麗形式)があったがこれは復元されてない。
正面の石垣が滋賀県大津市坂本に在する穴太衆の技術を継承し積んだ穴太積み「粟田建設」が、平成18年に今治城開城400年記念事業として平成19年に完成した石垣。
中央の大きな石は、勘兵衛石と呼ばれ、今治城の築城奉行であった渡辺勘兵衛に由来する。城内に置かれていたものを枡形石垣復元時に本来の位置に戻された。白く見える石は石灰岩。

画像は、粟田建設が、平成18年に着手、19年完成した鉄御門石垣。
粟田建設・主な工事経歴書(古式特技法穴太流穴太衆石積技法)
粟田建設の祖先は、穴太衆として三百数十年つづく粟田家で初代は、阿波屋 喜兵衛、阿波国の石工であった。
天正14年(1586)に蜂須賀小六の城として徳島城を豊臣政権の天下普請として築城がはじまり、小早川隆景や長宗我部元親、比叡山の僧徒にも手伝いが命じられた。「比叡山の僧徒とは、穴太法師、すなわち穴太衆のこと」
粟田家初代・喜兵衛は12,13歳のころ見習い職人としてその普請に係わり、その後穴太衆と共に坂本に移り住んだと伝えられる。
平成21年5月大津市坂本に見聞に行った際、穴太衆積第14代石工 粟田純司さん直筆署名の本を購入した。「忘(ぼ)己(こ)利他(りた)」・「己(おのれ)を忘れて(わすれて)他(た)を利する(りする)」この言葉は宗祖「伝教大師」の教えのひとつであり、自分の事は次に置き、他人の為に尽くしなさいと言う意味だそうです。
粟田家の家訓である「石の声を聴け」との関連から私が好きな言葉の一つであり、その意味で書かせて頂きました。・・と穴太衆積14代 粟田純司さんは書かれた。現代は第15代粟田純徳(すみのり)がその匠技術を受け継いでいる。

鉄御門正面、今治市史談会の菅氏の説明を聞きながら入城。

鉄御門の城内側。

鉄御門を入ると正面に、天守と藤堂高虎公の騎馬像が見に入る。
藤堂高虎公の騎馬像は今治城開城400年記念として平成18年建立された。

では、天守に登城、天守正面で、今治市制60周年を記念して昭和55年模擬天守として復興された。内部は博物館となっており、今治市立今治城博物館である。
天守台の石垣は打ち込み接ぎであった。

天守最上階から西北の方向で、今治港、奥に来島大橋、来島海峡、芸予要塞「小島」も遠望出来る。

下に見える建物は吹揚神社で、藤堂高虎が築城した層塔型5層6階の天守があった場所。

南西方向の画像で山里櫓と続塀、内堀(幅30間・55m)を見る事が出来る。
堀の水は海水で、鯛、鰡等海の魚が泳いでいる。

東南方向で、内堀の石垣に犬走りが施されている。犬走りは堀を渡り攻めて来る敵を犬走りに降りて防戦するのと、高い石垣を補強する事も兼ね合わせた工法である。

西南方向からみた天守。ここら見る天守が一番。
城門下の石垣は、野面積みでなく、打ち込み接ぎ。
今治城散策の目的は、伊予松山城では見られない石垣と櫓に大砲狭間がある事そして海城である事、特に石垣は、穴太積みで一部の石は石灰岩を使っている。
今治城の概要は、1600年9月の関ヶ原の戦いで武勲を挙げた、藤堂高虎は、徳川家康から伊予国半分20万石を拝領、拠点を今治に措き、当時初めての創建となる「層塔型」の五層天守を建設した。外堀は海水を取り入れた海に通じるもので物流にも大変便利な仕掛けであった。その他城門、櫓、犬走りを要した石積み、高虎が考案した近代的な造りの築城が完成した。同じく徳川家康から伊予国半分20万石を拝領した、加藤嘉明も松山城を築城中で、高虎の城造りを偵察に行ったと逸話があるほど高虎の築城技術は卓越していた。
高虎の今治藩主としての在藩は、8年間で1608年伊勢国伊賀に転封となり、この時天守を解体し徳川家康に寄進、丹波亀山城天守に移築されたと伝わる。
この時今治には、2万石の飛び地が出来、その城代として高虎の養子、高吉が2万石の城代が誕生するが、1635年第3代将軍徳川家光は、藤堂高吉を伊勢国名張に転封、この時一家臣であった秋山好古・眞之の祖先である秋山子助太夫久信も伊勢国名張に移るが、間もなく今治に帰り、直ぐ伊予松山に移り伊予松山第3代藩主、松平定行の家臣として使えこの時から秋山家は代々徒歩目付けの家系で維新を迎える。
徳川家光は、今治藩に長島藩7000石、松平定房に3万石を与え、家光は兄の伊予松山藩主松平定行を補佐せよとの配慮によるものであった。
今治城天守は、高虎が解体して以来天守の存在はなく、現在の天守は、今治市制60周年を記念して、昭和55年5層6階の天守が築城されたが、残念ながら藤堂高虎が創建した層塔型でなく、望楼型天守が建てられた。なぜ層塔型にしなかったのか謎である。よって現在の今治城天守は模擬天守である。
平成18年今治城開城40年記念事業として、鉄御門と穴太積みの石垣が復元された。特に石垣は、全国唯一、穴太衆が積む「穴太積み」技法を継承する滋賀県大津市坂本に在する「粟田建設」が施行したものである。

鉄御門からみた大手通りで、まだ桜が咲いていた。

大手から見た鉄御門。

鉄御門の前に大手門(高麗形式)があったがこれは復元されてない。
正面の石垣が滋賀県大津市坂本に在する穴太衆の技術を継承し積んだ穴太積み「粟田建設」が、平成18年に今治城開城400年記念事業として平成19年に完成した石垣。
中央の大きな石は、勘兵衛石と呼ばれ、今治城の築城奉行であった渡辺勘兵衛に由来する。城内に置かれていたものを枡形石垣復元時に本来の位置に戻された。白く見える石は石灰岩。

画像は、粟田建設が、平成18年に着手、19年完成した鉄御門石垣。
粟田建設・主な工事経歴書(古式特技法穴太流穴太衆石積技法)
粟田建設の祖先は、穴太衆として三百数十年つづく粟田家で初代は、阿波屋 喜兵衛、阿波国の石工であった。
天正14年(1586)に蜂須賀小六の城として徳島城を豊臣政権の天下普請として築城がはじまり、小早川隆景や長宗我部元親、比叡山の僧徒にも手伝いが命じられた。「比叡山の僧徒とは、穴太法師、すなわち穴太衆のこと」
粟田家初代・喜兵衛は12,13歳のころ見習い職人としてその普請に係わり、その後穴太衆と共に坂本に移り住んだと伝えられる。
平成21年5月大津市坂本に見聞に行った際、穴太衆積第14代石工 粟田純司さん直筆署名の本を購入した。「忘(ぼ)己(こ)利他(りた)」・「己(おのれ)を忘れて(わすれて)他(た)を利する(りする)」この言葉は宗祖「伝教大師」の教えのひとつであり、自分の事は次に置き、他人の為に尽くしなさいと言う意味だそうです。
粟田家の家訓である「石の声を聴け」との関連から私が好きな言葉の一つであり、その意味で書かせて頂きました。・・と穴太衆積14代 粟田純司さんは書かれた。現代は第15代粟田純徳(すみのり)がその匠技術を受け継いでいる。

鉄御門正面、今治市史談会の菅氏の説明を聞きながら入城。

鉄御門の城内側。

鉄御門を入ると正面に、天守と藤堂高虎公の騎馬像が見に入る。
藤堂高虎公の騎馬像は今治城開城400年記念として平成18年建立された。

では、天守に登城、天守正面で、今治市制60周年を記念して昭和55年模擬天守として復興された。内部は博物館となっており、今治市立今治城博物館である。
天守台の石垣は打ち込み接ぎであった。

天守最上階から西北の方向で、今治港、奥に来島大橋、来島海峡、芸予要塞「小島」も遠望出来る。

下に見える建物は吹揚神社で、藤堂高虎が築城した層塔型5層6階の天守があった場所。

南西方向の画像で山里櫓と続塀、内堀(幅30間・55m)を見る事が出来る。
堀の水は海水で、鯛、鰡等海の魚が泳いでいる。

東南方向で、内堀の石垣に犬走りが施されている。犬走りは堀を渡り攻めて来る敵を犬走りに降りて防戦するのと、高い石垣を補強する事も兼ね合わせた工法である。

西南方向からみた天守。ここら見る天守が一番。
城門下の石垣は、野面積みでなく、打ち込み接ぎ。
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