EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山市三津浜地区を散策

2012年09月15日 | 伊予松山歴史散策
9月11日、三津刈屋畑の激戦地散策後三津浜地区を散策した。
関ヶ原戦いは東軍の勝利となり、武勲を挙げた加藤嘉明は、徳川家康より伊豫国半分20万石の拝領を受けた。松前城が手狭となり慶長6年(1601)家康に新たな築城の具申をした。

築城場所は、第一候補地に天山、第二候補地に勝山、第三候補地に御幸山を揚げて上申したところ、家康からは第二候補地の勝山が許可されたとの説話がある。
翌7年(1602)1月15日の吉日に勝山城の工を起し、翌8年(1603)10月仮御殿が完成し嘉明は家臣及び松前の住民ともども居を新城下に移しここに松山という名称が公にされた。これが松山市の誕生である。その後松山城の完成までには26年の歳月が掛かった。

三津浜は鎌倉幕府時代から伊豫水軍の拠点の一つであったが寒村であった。松山城築城と同時に松山藩物流の拠点とする為三津浜の港を改修し特に松平の時世になると参勤交代が始まり町は栄、船手組や町奉行を置き御用船の本拠地として重要な町となった。藩所有の船は160隻程で、参勤交代の時は「藩船・豊寿丸」とお供船83隻の規模だったと記録されている。

参勤交代時に、藩主一行が三津浜で潮待ち、衣裳替え、食事、仮眠等々暫し休息所として施設を造った。それが「御茶屋」と呼ばれる別邸が出来た。飲料水確保のため井戸を掘るも海が近い為水は塩分を含んでおり飲料水にはならず各所に井戸を掘りやっと飲料水となる井戸を掘り当てた。其の井戸が現在松山市立三津浜小学校校庭内に現存し保存されている。

一般公開されて無いので学校の許可を得て撮影させて頂いた。この三津浜小学校は、元伊豫松山藩校「明教館」の三津浜分校であった。また明治時代近くに愛媛県女子師範学校があり付随して愛媛県女子師範学校附属小学校もあった。・・現在の愛媛県松山西警察署。

三津浜には、秋山好古揮毫の石碑もある。また全国でも珍しい公営の渡し船が現在も運航されている。海上に松山市道高浜2号線の一部80mを渡船2隻が交代で運行されている。
また、坂の上の雲の主人公「秋山好古・眞之・正岡子規」達も上京、帰省の時は三津浜から船に乗り降りした所である。・・
三津浜地区は戦災に遭ってない町なので路地が沢山残っている。また三津浜の名物「鯛めし」を食べられるお食事処で三津浜の私設歴史館としても公開しているので後日紹介する。


松山市立三津浜小学校、校庭に保存されている「お茶屋井戸」の記念石碑


伊豫松山藩第三代藩主、松平定行の時世に造られた御茶屋井戸、現在も手押しポンプで汲み上げた水は校庭の花壇に利用されている


御茶屋井戸全容


汲み上げた水は竹筒で花壇に散水


汲み上げた水は竹筒で花壇に散水、枠井は作り変えているが中は江戸時代そのまま


市立三津浜図書館近くにある「辻井戸」、松平定行が御船手組みの専用水として掘り、明治まで周辺の人々が生活用水として使われていた井戸


松山市営の「渡しの由来」説明板


全国でも珍しい「三津の渡船」対岸の港山間約80mを運行している
運行時間:午前7時から午後7時 随時運航、年中無休、無料


「三津の渡し」は別名、三津の人々は「洲崎(すさき)の渡し」と言い、港山の人々は「古深里(こぶかり)の渡し」と言っていて、現在、2隻の船名を「すさき丸」と「こぶかり丸」として運航している、対岸に人の姿が見えると船が来てくれる


松山市神田町1番7号 厳島神社にある、陸軍大将 秋山好古が揮毫した「表忠碑」日清・日露戦争に宮前地区、三津浜地区から出征し戦死、病死された方々の英霊をお祀りする石碑、碑石大きさ: 高さ・ 4m 63㎝ 横幅・ 2m 50㎝ 厚み・ 53㎝ある

松山西警察署裏にある、愛媛県女子師範学校と愛媛県女子師範学校附属小学校の記念碑


明治時代、秋山好古、秋山眞之、正岡子規、夏目漱石の著名人はもとより、松山から旅立つ方、松山に上陸する方々が船の乗り降りをした「汽船のりば」跡の記念碑
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 松山市宮前地区を散策・伊豫... | トップ | 台風16号 一過の雲 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

伊予松山歴史散策」カテゴリの最新記事