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秋山好古揮毫石碑紀行 36 伊予郡松前町筒井の碑

2016年01月17日 | 伊予松山歴史散策

1.碑  文 :  松前城碑
2.所 在 地:  伊予郡松前町筒井・官有地 松前城跡
3.揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古「題額」を揮毫
4.建 立 者:  記載無し
5.建立年月日:  大正14年10月 
6.碑石大きさ:  高さ:2m33㎝ 横幅:1m90㎝ 厚み:8㎝
参考資料:慶長5年(1600)9月15日、関ガ原の戦いに加藤嘉明はこの地から兵300人を連れて出陣し、武勲を揚げ徳川家康に伊予国、20万石を拝領した。
家康の許可を得て、慶長7年(1602)1月15日、勝山に城の工を起こし慶長8年(1603)10月に嘉明は家臣及び住民とともに居を新城下に移した。
そして、この地を松山という名称が公にされた。・・松山の誕生・以後伊予松山藩となる。
明治以降、松山は市政を実施現在は、中四国で3番目に大きい自治体に発展して来た。
(広島市・岡山市・松山市)また、藩政時代は、松山と言う藩が5藩あった。
それは、山形県飽海郡松山町に存した藩・出羽松山藩、埼玉県比企郡吉に存した藩・武蔵松山藩、奈良県宇陀郡大宇町に存した藩・宇田松山藩、岡山県高梁市に存した藩・備中松山藩、愛媛県松山市に存した藩・伊予松山藩で、伊予松山藩が一番大きい藩であった。

なお、松山城の筒井門と乾櫓は、松前城にあったものを解体し移築した建造物である。
但し、筒井門は昭和24年狂人の放火により焼失、現在の筒井門は昭和45年復元されたもの。




秋山好古は、題額「松前城碑」の揮毫をした。
大正14年に揮毫したもので、新田長次郎さんに揮毫を勧められた直後のもの。
松前城跡は、明治42年の耕地整理により松前城跡の面影は無くなり、一部の土を用いて盛土としたのが現在の跡である。唯一残っていた松の木も倒壊して、松前城を偲ぶものが無くなり、大正14年10月「松前城碑」を建立した。



題額「松前城碑」の揮毫をした秋山好古の名前が刻印されている。


「松前城碑」の前にももう一つ記念碑がある。・・これは好古が揮毫したものではない。
松前城は、安土桃山時代は、正木城と言っていた。


松前城跡の一部で、松前町が管理している。
松前町は、愛媛県伊予郡松前町と言う自治体で、平成の大合併の時、どの自治体とも合併せず、単独の自治体として行政を行っている。また、松前町は、山間部が無く全て平野で、特に裸麦の生産が日本一である。


松前町教育委員会が設置した松前城の説明板。


松前城跡の前は、現在東レ愛媛工場があり、ここでボーイング社の飛行機787型機に使われている、炭素繊維を製造している。


東レ愛媛工場で造られた炭素繊維を使い出来上がったボーイング社の787型機、いち早く松山空港に飛来した。
東レは、淡水化装置も世界的水準を誇る技術で生産している。




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