松山市城南地区歴史散策11 星の岡古戦場
星の岡古戦場は、鎌倉時代の末期幕府の力が弱まってきたころ、後醍醐天皇はもう一度、天皇が政治を行なう為に実権を取りもどそうと討幕を計画し王政復古の戦いを起こした。
伊予国でも幕府方と宮方に分かれて激しい戦いが行なわれた。河野一族の土居(どい)通増(みちます)と得能(とくのう)通綱(みちつな)は、宮方につき宇都宮氏は幕府方についた。 瀬戸内の宮方の取り締まりに長府に長門探題が置かれ長官職に北条(ほうじょう)時直(ときなお)がいた。
1333年2月2日幕府方の北条時直は今治市近見に上陸し宇都宮氏とともに土居氏・得能氏と戦い共に敗退し1ヶ月後、北条時直は再び幕府軍を立て直して宮方の中心である石井に攻め込んだ。
北条時直は七千余の軍船を率いて第一軍を今出に第二軍を三津浜に上陸し伊予の反幕府軍制圧に星の岡城を占領し拠点とした。
1333年3月12日壮大な合戦が宮方の土居氏館から2Kmはなれた星の岡を中心に石井・久米・小野といいた広範で戦いがあり、伊予の宮方軍が勝利する。(東温市下林の築島神社境内に古戦の塚がある)
此れが全国に波及して同年暮れに鎌倉幕府は滅亡した。畿内では楠木正成、新田義貞が宮方軍として奮戦した。
松山市星岡町にある「星の岡山頂・薬師堂」標高75,4m横に土居氏・得能氏の功績をたたえて、明治17年5月、陸軍大学校一期生の仙波太郎(後の陸軍中将)が中心となり「星岡表忠之碑」が建立された。
なお、土居氏の館跡は、松山市土居町・土居遊園地に土居兵庫守霊廟・供養塔・五輪基・記念碑等が建立されている。
土居氏の館跡
場所:松山市土居町・土居遊園地「萬福寺西」
星の岡古戦場「記念碑」
場所:松山市星岡一丁目1番8号「雲門寺」の山頂
古戦の塚
場所:東温市下林甲2616番地「築島神社」
土居氏の家系によれば河野通成はこの地に住み土居を以って氏とするとある。
(通成は、通継の庶子で、通継は通信の六男である。)通成の子、土居通増は、周桑郡丹原得能の得能通綱と意気投合し後醍醐天皇を助け伊予の宮方軍勤皇の旗頭として君臨する。西条市丹原町常石山山頂に得能通綱の忠魂碑が建立されている。揮毫は秋山好古である。
※得能通綱は、河野通信の子通俊の孫である。
※参考事項:明治政府は、陸軍の将来を担う陸軍大学校を創設一期生は、明治16年4月に選抜で19名が入学、伊予松山から、秋山好古・仙波太郎の二人がいた。卒業できたのは10名で(秋山好古・仙波太郎も卒業)主席で卒業したのは東条英教(東条英機の父親)とある。
※騎兵科出身は好古のみであった。これは、将来の日本騎兵は好古がひっぱっていくということを暗示しており、事実そうなった。昭和5年11月没 72歳
仙波太郎は、福音寺の庄屋の長男で裕福な中で育ち三輪田米山に就いて漢学、習字を学んだ。維新後家運衰え独学にて勉学に励み陸軍大学校一期生として入学、卒業後陸軍の三太郎(桂太郎・宇都宮太郎)として活躍した。退役後岐阜県から衆議議員として活躍特に社会教育の基盤を作った。
趣味に文墨があり風林と号した。昭和2年2月没75歳
画像は、松山市星岡一丁目1番8号「雲門寺」の山頂に、仙波太郎が建立した星の岡古戦場記念碑「星岡表忠之碑」である。
星の岡古戦場は、鎌倉時代の末期幕府の力が弱まってきたころ、後醍醐天皇はもう一度、天皇が政治を行なう為に実権を取りもどそうと討幕を計画し王政復古の戦いを起こした。
伊予国でも幕府方と宮方に分かれて激しい戦いが行なわれた。河野一族の土居(どい)通増(みちます)と得能(とくのう)通綱(みちつな)は、宮方につき宇都宮氏は幕府方についた。 瀬戸内の宮方の取り締まりに長府に長門探題が置かれ長官職に北条(ほうじょう)時直(ときなお)がいた。
1333年2月2日幕府方の北条時直は今治市近見に上陸し宇都宮氏とともに土居氏・得能氏と戦い共に敗退し1ヶ月後、北条時直は再び幕府軍を立て直して宮方の中心である石井に攻め込んだ。
北条時直は七千余の軍船を率いて第一軍を今出に第二軍を三津浜に上陸し伊予の反幕府軍制圧に星の岡城を占領し拠点とした。
1333年3月12日壮大な合戦が宮方の土居氏館から2Kmはなれた星の岡を中心に石井・久米・小野といいた広範で戦いがあり、伊予の宮方軍が勝利する。(東温市下林の築島神社境内に古戦の塚がある)
此れが全国に波及して同年暮れに鎌倉幕府は滅亡した。畿内では楠木正成、新田義貞が宮方軍として奮戦した。
松山市星岡町にある「星の岡山頂・薬師堂」標高75,4m横に土居氏・得能氏の功績をたたえて、明治17年5月、陸軍大学校一期生の仙波太郎(後の陸軍中将)が中心となり「星岡表忠之碑」が建立された。
なお、土居氏の館跡は、松山市土居町・土居遊園地に土居兵庫守霊廟・供養塔・五輪基・記念碑等が建立されている。
土居氏の館跡
場所:松山市土居町・土居遊園地「萬福寺西」
星の岡古戦場「記念碑」
場所:松山市星岡一丁目1番8号「雲門寺」の山頂
古戦の塚
場所:東温市下林甲2616番地「築島神社」
土居氏の家系によれば河野通成はこの地に住み土居を以って氏とするとある。
(通成は、通継の庶子で、通継は通信の六男である。)通成の子、土居通増は、周桑郡丹原得能の得能通綱と意気投合し後醍醐天皇を助け伊予の宮方軍勤皇の旗頭として君臨する。西条市丹原町常石山山頂に得能通綱の忠魂碑が建立されている。揮毫は秋山好古である。
※得能通綱は、河野通信の子通俊の孫である。
※参考事項:明治政府は、陸軍の将来を担う陸軍大学校を創設一期生は、明治16年4月に選抜で19名が入学、伊予松山から、秋山好古・仙波太郎の二人がいた。卒業できたのは10名で(秋山好古・仙波太郎も卒業)主席で卒業したのは東条英教(東条英機の父親)とある。
※騎兵科出身は好古のみであった。これは、将来の日本騎兵は好古がひっぱっていくということを暗示しており、事実そうなった。昭和5年11月没 72歳
仙波太郎は、福音寺の庄屋の長男で裕福な中で育ち三輪田米山に就いて漢学、習字を学んだ。維新後家運衰え独学にて勉学に励み陸軍大学校一期生として入学、卒業後陸軍の三太郎(桂太郎・宇都宮太郎)として活躍した。退役後岐阜県から衆議議員として活躍特に社会教育の基盤を作った。
趣味に文墨があり風林と号した。昭和2年2月没75歳
画像は、松山市星岡一丁目1番8号「雲門寺」の山頂に、仙波太郎が建立した星の岡古戦場記念碑「星岡表忠之碑」である。
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