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秋山兄弟生誕地 開館11周年 その1

2016年01月18日 | 伊予松山歴史散策

平成17年1月18日完成した秋山兄弟生誕地。・・周囲の建物は省いている。
画像左の大きな建物は、秋山兄弟生誕地武道館で、生家は平屋の建物と秋山兄弟の銅像がある屋敷で、江戸時代伊予松山藩主から頂いた土地である。
なお、武道館は昭和24年愛媛県から寄贈され建築し、敷地は戦前松山同郷会が購入した。現在は、常盤同郷会が秋山兄弟生誕地と共に管理している。


1月19日、秋山兄弟生誕地開館11周年を迎えた。
秋山兄弟生誕地生家・兄弟の銅像は、武道場の修復は、全国の秋山兄弟生家復興にご理解のある皆様約1万人を超える方々から醵金を頂き此れを基金として平成15年12月9日から整備開始し、平成17年1月18日完成・翌19日から一般公開をいたしました。
本日19日が開館11年を迎え未だに全国の秋山好古・眞之の支援者が大勢全国からお越し頂いており秋山兄弟生誕地の関係者は大変感謝いたしております。
平成17年1月18日復興整備事業が完成し、この日、NHK朝のニュース「おはよう日本」で完成した生家をライブで放映し、事業の完成が全国に紹介されました。
なお、生家の概要は下記の通りであります。

1、所在地  松山市歩行町二丁目3番地6
       公益財団法人 常盤同郷会「管理運営母体」
2、敷地面積 829,74平方メートル(250,99坪)
3、生家   木造瓦葺平屋建 95,65平方メートル(28,93坪)
4、武道場  木造瓦葺平屋建 183,13平方メートル(55,39坪)

秋山の祖は、寛永12年(1635)第3代将軍徳川家光は、伊勢国桑名藩主松平定行を伊予松山藩主として15万石で転封の命を下した。(松平定行は、徳川家康の異父同母の弟の子供)この時、今治藩士であった秋山は、伊予松山藩士となり、現在の生誕地に居住したのは、藩政末期の天保年間(約179年前)といわれています。

好古が北豫中学校長時代に住んでいたのは、誕生当時の家に(4部屋と土間・台所の質素な家)若干手を加えただけのものだといわれています。当時の設計図は無く、秋山家の子孫の方から伝聞、特に好古が住んでいた当時度々訪問していた親戚の石井悦子さん(群馬県在住)や好古四女・米田治子さん(故人)から聞き取り調査及び当時の写真を参考にして建設しました。建物の位置は、銅像建設の為当時より北側に寄せて再建しています。

内部の調度品の内「甲冑」は、石井悦子さんが入り口の部屋に「鎧があって恐かった」との証言に基づき設置しております。
生家復興建築については、現行建築基準法に基づき厳しい制約のなか、出来る限り忠実に元に近い形と(秋山家親族の証言を参考に)して復興しております。

画像は、平成17年1月19日秋山兄弟生誕地一般公開当時からその間の画像です。


生誕生家内部、座敷と北の間。


生誕生家裏庭で、昭和20年7月26日、深夜から攻撃された松山大空襲にて旧松山市街は焼失、生誕地生家も全焼失、画像の石碑とその奥に見える井戸のみが残り大切に保存管理しています。井戸は江戸時代からの現存であります。この井戸の水を飲み秋山好古・眞之は育った。なお、好古・眞之には4人の兄弟がいました。
長男は、則久、次男・正矣、三男・好古、四男・道一、五男・眞之、長女・種、で長女種は3歳で逝去、次男、四男は、他家に養子に出る。長男、則久は家督を相続するが身体が弱く早く隠居をする為、三男好古が家督を継いだ。


生家の東側から好古騎馬像を見る。画像は一般公開前3日前。
好古は、生前家は要らぬ、覇かも造るな、石碑・銅像も造るなと言って亡くなった。
生前は、日清、日露戦争で優秀な騎兵隊員を戦死させた。残された家族の事を思うと悠々自適な生活など出来る分けがない・・とのおもいで出来るだけ簡素な質素な生活をして来た。大将になっても家は借家住まい、元帥に推薦されるも此れを辞退、北豫中学校校長就任時も、東京に奥さんと子供を置いて、一人で大正13年から昭和5年3月まで独身に近い質素な生活をした。この間、一日の休暇も取らず、登校は他の教師よりも早く出勤し、休んだ教師が居たならば自ら教壇に立ち、休講の無いように授業をした。大阪師範学校を卒業し、陸軍大学一期生で、フランスに留学した豊富な知識の持ち主であったから!!


好古騎馬像、好古は生前家族や関係者に、銅像・石碑・仰々しい墓など造るな、家は借家で結構であると言い、東京では借家生活であった。昭和11年松山の関係者は、この時代になれば好古さんも許しが出るだろうと、同年1月道後公園(中世の城跡・湯築城)に銅像を建造した。しかし残念に昭和18年、先の大東亜戦争時に、金属供出により潰されなくなった。この銅像は、レプリカが全国に4体現存しており、その一体が愛媛県立松山北高等学校(元、北豫中学校)の校長室にある騎馬像を元に復元したものです。


昭和11年1月11日、松山の関係者が建造した当時の秋山大将騎馬像(道後公園に建造)。現在生誕地に再建立された騎馬像は、県立松山北高等学校(旧北豫中学校)校長室のあるレプリカを元に、忠実に復元された騎馬像である。製作は、富山県高岡市の某会社製作。


秋山眞之の胸像も復元設置、尊敬する兄、好古と目線を合わせて背地位している。製作は好古騎馬像と同じ製作所。


本物の秋山眞之の胸像で、眞之像は先の大戦金属供出を免れ、現在は海上自衛隊幹部学校に大切に保管されている。画像は、平成17年5月12日、海自の許可を得て撮影した。秋山邸の眞之の胸像はこの胸像の複製である。
眞之の胸像は、戦前海軍が秋山家に返し、戦前戦中秋山家が大切に保管していた。戦後(昭和27年4月28日、発効されたサンフランシスコ講和条約、これ以降が本当の日本の戦後の始まり・・日本の主権が回復)秋山家は海上自衛隊に秋山眞之の胸像を返還した。


平成28年1月11日開催された、秋山好古生誕157年祭で、武道場で式典を終えて記念の餅つき風景。・・開館以来毎年1月第二日曜日に開催している。


平成27年3月20日開催された、秋山眞之生誕147年祭で、武道場での式典風景。式典後、毎年お茶会が開かれる。今年は、148年祭3月20日(日)午前9時30分から開催予定ですので是非お越し下さい。


画像は、平成17年7月31日、来館者2万人達成感謝日として、何方が該当者になるのか?関係者一同お越しをお持ちしておりました。同年7月31日午前10時59分名古屋市からお越しになったご家族が該当に決定し記念写真を撮らせて頂いた。


開館以来2万人目の名古屋からの来館者、記念のテープをカットして入館していただいた。秋山好古は、軍人になる前は、教師とし名古屋師範学校附属小学校の教員であったので名古屋から来られた方が2万人目の該当者になるとは縁は不思議なものである。!!


平成17年7月31日は、予想としては午前中に来館2万人達成記念日を迎えるのは間違いないので、松山の報道関係者にも案内をしていた。・・果たして2万人目の方はどちらから来られる方か関係者と、報道機関待ち詫びた。・・結果は名古屋市の方で記念の感謝状と花束を贈呈、該当者になられた方は、まさかこんな記念の日に来館出来て感激ですと、秋山兄弟は大好きです・・一生の思い出になりますと語られた。記念の花束贈呈。贈呈者は、秋山兄弟生誕地研究員、林 美和子研究員。

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