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史跡・福沢諭吉青年期を過ごした旧邸地訪問

2014年07月01日 | 伊予松山歴史散策
6月23日、宇佐神宮参拝の後に福沢諭吉青年期を過ごした旧邸地訪問した。
「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して人たる品位を辱めざるもの、これを独立自尊の人という」「人は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」
福澤諭吉は、天保5年(1835)に大坂の中津藩蔵屋敷で、13石2人扶持の下級武士福澤百助の次男として生まれた。1歳6ヶ月の時父と死別し、母子6人で中津に帰郷。貧しくとも信念を持った少年時代を過ごし、14歳になって儒学者白石照山の塾に入門する。
安政元年(1854)、19歳の時蘭学を志して長崎に遊学、翌年からは大坂の緒方洪庵の適塾で猛勉強に励み、安政5年(1858)には、藩命により江戸の中津藩中屋敷に蘭学塾を開きこれが慶應義塾の始まりであった。
西洋の文物に触れたいと考えた諭吉は、万延元年(1860)「咸臨丸」に軍艦奉行の従者として乗り込み渡米し、文久2年には、幕府使節の一員としてヨーロッパ諸国も歴訪、議会や郵便制度、銀行、病院、学校等旺盛な好奇心を持って見分、その後これらの経験を元に「西洋事情」を著し、続けて「学問のすすめ」等を発表して、世界と隔絶されていた日本人を啓蒙して行った。

秋山好古は、16歳の時学問のすすめを読み、日本を近代化するには、先ずは子供の教育が必要であると感じ取り、人は生まれた時はみな同じ、三歳前後から両親の躾を受け、やがて学校で学び、ここで努力した者としなかった者とで差が出て来る。・・好古は此れを感じ教師の道を選んだ。
大阪に設立された大阪師範学校に入学し名古屋師範学校付属小学校の教師として教鞭を執った。好古の志を決定した福沢諭吉旧邸には是非行きたく今回二度目の訪問である。以前伺った時、記念館は無かった。


カーナビをセットして移動したが近くまで来て迷った。福沢諭吉の大きな立て看板が目に付いて現着する事が出来た。


福沢諭吉旧邸と、福沢諭吉記念館で、以前伺った時には記念館は無かった。広い駐車場も完備されていた。


天保5年、大坂(現大阪市)の中津藩蔵屋敷で生まれた福澤諭吉は、1歳6か月の時、父の死去により帰藩し、19歳までこの場所で過ごした。 諭吉は、近くに家塾を開いた中津藩儒官白石照山に師事して儒学を学んでいたが、兄の薦めで蘭学を学ぶために長崎へ旅立った。


正面入り口を入ると福沢諭吉の銅像があり、右手が福沢諭吉記念館で、左手が旧邸である。先ずは記念館に、中津城見学する場合は共通券を購入すると格安となるとの案内でその件を購入した。


中津市が掲示している説明版。


福沢諭吉記念館内部で、展示場は、1階と2階にある。


福沢諭吉旧居記念館内に展示されている『学問のすすめ』初版本で、今回私が見たかったのは、この「学問のすすめ」だあった。福沢諭吉の『学問のすすめ』の冒頭にある言葉。天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず。
人は生まれた時はみな同じ、三歳前後から両親の躾を受け、やがて学校で学び、ここで努力した者としなかった者とで差が出て来る。・・好古は此れを感じ教師の道を選んだ。秋山家は伊予松山藩下級武士徒歩目付家禄10石の家系で学校に行ける経済的な余裕はなかった。学費の要らぬ学校が出来た。それが大阪師範学校であった。そして名古屋師範学校付属小学校の教師となった。秋山好古が一番尊敬した人が、福沢諭吉であった。


福沢諭吉旧邸前に画像の石碑がある。


現在の福沢諭吉旧邸は、享和年(1803)築の木造茅葺平屋建で、福沢諭吉が青年期を過ごした家と説明がある。幼少期を過ごした福沢家は、旧邸近くに間取りを石組で平面復元している。現存する家は16歳の時に買って移り住んだもので、母屋の他、自らが改造して二階を勉学に使った土蔵が残っている。幼少の頃の家はすぐ前の土地にあった。諭吉は、幼少の頃の家の間取り図を自ら描いて、忘れないようにしようとした。


旧邸内部。


旧邸裏側で、木造瓦葺2階建の土蔵も残っていた。土蔵は自らが改造して二階を勉学に使ったそうだ。幼少の頃の家はすぐ前の土地にあったとある。
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