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松山市の路地 その2道後町

2012年07月06日 | 伊予松山歴史散策
松山の爆撃は、先の持田町に記載したと通りで、道後町も戦災に遭ってない。
米軍の松山爆撃は、道後温泉地区、松山城、陸軍病院を攻撃から除外していたとあるが、松山城は焼夷弾が投下された。・・間違って投下したのか??

昭和20年8月15日無条件降伏をし、日本の統治者(主権者)が天皇から、連合軍西南太平洋方面総司令官として太平洋戦争を指揮したダグラス・マッカーサーに代わったことである。
日本歴史上はじめて外国人によって統治されることになったという事実である。

そして日本本土進駐が始まり、松山には昭和20年10月22日にアメリカ第24師団の将兵約1万人が松山市梅津寺海岸などに上陸、いよいよ松山市への米軍の駐留がはじまり、占領軍による四国統治がつづけられることとなった。

松山市に進駐したアメリカ占領軍は、焼け残った愛媛県立図書館と市庁舎の一部に司令部を置くとともに、旧海軍航空隊基地(現松山空港)、旧陸軍堀之内兵営(現堀之内公園)、城北練兵場(現愛媛大学・松山大学・松山北高)、新田中学(現新田高校)、久松別邸(現万翆荘)、鮒屋(現ふなや)、大和屋などを接収し、道後公会堂とともに、道後温泉霊之湯や神之湯(女湯)も一時期接収された。

一般客は残された養生湯に殺到し大混雑するといった事態が発生していた。昭和25年に、松山市民の念願であった道後温泉の返還が実現したが、松山市はその代償として、司令官レイ少佐の希望により将校専用の浴場として「しらさぎ湯」を新たに建設した。表示はわかりやすくせよとの指令で「DOGO HOT SPRING」の赤いネオンが鮮やかに灯った。

また、昭和21年12月21日の南海大地震により、温泉の湧出がストップ、3000年の歴史を誇った日本最古の温泉は、歴史上最大の危機に瀕することとなった。
だが、幸いにして1年後の昭和22年1月28日、第1源泉で湧出の兆候が現れたのをかわきりに、3月にかけて各源泉が再び自噴をはじめたため、危機を脱出することができ、同年3月20日から再開された。それを記念して同日から3日間、道後温泉復興祭が開催され(この間戦災者は入浴が無料となった)、以後この日は、湯祈祷の日と定められ、2度と再び温泉が止まらないことを湯神社に祈願する温泉祭りが実施された。・・これが現在も行われている。


昭和23年11月道後湯之町独立期成同志会が結成され、昭和19年4月1日の松山市編入は強行されたもので町民の本意でなかったので、7月10日交付の地方自治法の一部改正を機会に従来の道後湯之町区域を松山市から分離したい。そうすることが町民の利益であると主張した。
翌24年1月22日分離の是非をめぐって道後町民の投票を行い、有権者7,289人、投票数5,625票、無効36票、を除いて分離賛成3,148票、反対2,441票、という結果がでたが、終局的な判断を仰いだ4月臨時県議会で分離問題は承認されなかった。

このような空気を察知した松山市は、グランド工事、上水道工事、道後小学校諸工事、公会堂修繕、公園補修、母子寮、保育所、の各種補助など道後地区に対して積極的な施策につとめ緩和をはかった。「松山市発行 道後温泉より引用」

道後町の沿革を見てみると、温泉郡道後村⇒明治22年12月15日に温泉郡道後村大字道後⇒大正12年4月1日に温泉郡道後湯之町大字道後⇒昭和19年4月1日松山市大字道後に⇒昭和39年7月1日道後地区の名称変更(松山市第一次住居表示実施に伴い)現在14の公称町名に区割りされた。

今回はこんな事情のあった旧道後湯之町の路地を散策した。

明治27年道後温泉本館落成時の画像・・伊佐庭如矢が100年後の道後発展の基盤として計画した・・・住民の猛反対を押し切り建築・・現在国指定の重要文化財


大正13年本館は改築され正面入口を西側に唐破風棟が建設された・・現在の入口


唐破風棟に掲げられた「道後温泉」の扁額は、昭和25年6月5日に獅子文六の小説、愛媛県津島町を舞台にした「てんやわんや」の映画ロケの際、道後温泉の証しとなるものがなく映画会社からの提案で松山市出身の村田英鳳画伯によって製作され掲示された・現在の扁額は、額に傷みが生じたため、昭和61年に村田画伯により2代目の扁額として作成し掛替えられた


撮影時代は不明、道後駅駅舎の奥が「冠山」、左に道後温泉本館「振鷺閣」が見える


現在の道後温泉駅と坊ちゃん列車1号


画像は、昭和22年2月に着手して翌年3月20日竣工した「新温泉」建物は二階建てで224坪、場所は子規記念博物館入り口にあったが、経営振わず、昭和39年から休業、子規記念博物館建設に伴い取壊された。


昭和25年に松山市民の念願であった道後温泉の返還が実現したが、松山市はその代償として、司令官レイ少佐の希望により将校専用浴場として「しらさぎ湯」を新たに建設した。表示はわかりやすくせよとの指令で「DOGO HOT SPRING」の赤いネオンが鮮やかに灯った。・・しかし少数の将校が利用するだけで殆ど空いていて経営は赤字、司令官レイ少佐は日本人にも開放して経営の成り立つようにと提案、日本人専用の家族風呂としたが昭和43年閉鎖さ、子規記念博物館建設時に取壊された。


現在の道後温泉本館で、画像上は某ホテル屋上にNHK松山局の固定カメラが設置してある、道後温泉界隈の画像がTVで放映されるのはこのカメラから・・撮影は、冠山から


某ホテル屋上にNHK松山局の固定カメラが設置してある、許可をもらってその場所から撮影、路地散策はこの周辺を中心に


道後商店街から少し入るとこんな路地も


此処は元遊郭のあった松ヶ枝町、撮影は平成14年11月28日で当時はネオン街と呼ばれていたが、現在は上人町と呼んでいる、建物もだいぶん壊され少なくなっている・・画像左の建物は元遊郭「朝日楼」で現在は取壊され宝厳寺の駐車場となり、道後商店街組合・旅館組合関係者は、この地に愚陀仏庵の再建を市に要望している


道後温泉駅裏にある路地で、伊予鉄道の市電の引込み線がある・・写真を撮っていると坊ちゃん列車が方向転換をしていた


道後地区も戦災に遭ってないから画像のような狭い路地がある場所はホテル街の裏手で、左の建物は椿湯


この路地は住宅街で幅員1,6m、こんな路地が残っている


道後温泉地区は裏手が直ぐ山で道路拡張も困難
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