左から、秋山好古・清浦圭吾・新田長次郎
揮毫嫌いであった秋山好古は、大正14年、新田長次郎氏の招きで、元総理大臣清浦奎吾氏が伊予松山に来られた。滞在は僅か2日間であった。
各所の視察、歓迎会、講演会等々昼夜をとはず多忙で、筆を取る時間などなかったが、松山の諸方から揮毫を頼まれていた。
二日目の早朝に、道後の旅館に滞在している清浦奎吾氏を好古が訪ねてみると、一生懸命に、依頼された揮毫をひたすら書いている姿を見た好古は、新田長次郎氏に対し、「長さんそんなに年寄りを責めたらいかんぞな」・・といった。長さん曰く信さん「清浦伯は、日本の清浦伯ですよ、だから揮毫を請う者が多くあり、今朝など朝4時から起きて、厭な顔もせず書いて居られます。信さんも今は日本の秋山大将です。人は一代、名は末代と言いますから、家宝とするため揮毫を依頼する人には、書いてやって貰いたいものですな」と好古を口説いた。
「なるほど長さん分かったよ、これから俺も書くよ」と言ったので、新田長次郎氏は、大阪に帰ると早速画仙紙一反と、大きな硯と筆を、松山の好古に送った。翌年の春、新田氏が再び松山で好古に合った時、「長さん、今年は正月からもう数百枚も書いて方々へ送ったよ」と言った。
好古に揮毫依頼が多くなったが、約束の期日は決して遅らせなかった。以上が好古が揮毫を行いようになったきっかけである。
清浦奎吾氏来松の本来の目的は、大正12年松山高等商業学校(現 松山大学)の開校式の出席であったが、急な所用が出来、大正14年になったのである。大正12年であれば好古は北予中学校長として松山には赴任しておらず、清浦奎吾氏と出会っていないので、揮毫などしてなかっただろう。
秋山好古揮毫の石碑は、上記の様に新田長次郎氏からの指摘で揮毫し始めたので大正14年以降に揮毫した石碑や扁額が殆どで、大正14年以前に揮毫した石碑は8基だけであり、よほどの深い関係者からの依頼があっての揮毫である。当時好古の揮毫嫌いは有名であった。
何故かその理由は謎である。
それでは秋山好古揮毫石碑を訪ねてみましょう。
まず最初は、好古が揮毫し建立者も好古、現在発見されている好古が揮毫し建立されている一番古い石碑から訪ねて行きます。
なお現在好古が揮毫し石碑として建立されているものが全国に52基発見されています。
石碑を訪ねて 1、東京都世田谷区池尻・哀悼碑
[東京都世田谷区池尻四丁目にある・日清戦争騎兵隊戦没者の哀悼碑]
1.碑 文 : 征清之役戦死者哀悼碑
2.所 在 地: 東京都世田谷区池尻四丁目22番7号「官有地」児童遊園(見晴らし広場)
3.揮 毫 者: 騎兵第一聨隊長・陸軍中佐 秋山好古
4.建 立 者: 騎兵第一聨隊長 秋山好古
5.建立年月日: 明治29年6月30日
6.碑石大きさ: 高さ・ 1m 14㎝ 横幅・ 1m 71㎝ 厚み・ 8㎝
この石碑は現在発見されている中で一番古い石碑で、明治29年6月30日に建立された。揮毫は、勿論建立者も秋山好古自身で、現在全国に建立されている好古揮毫の石碑の原点となる碑で、日清戦争で戦死した部下の哀悼の碑である。
石碑裏面には、騎兵第一聯隊長秋山好古隊員が名誉の戦死をした隊員15人の名前、階級、戦死した場所、年月日が刻まれている。
この石碑の取材には苦労した。まず建立地が国有地で、土地の管理者は財務省関東財務局が管理している。ここに秋山好古が勝手に建立したもので、国は関知しないといっている。
現在は世田谷区役所に管理をさせているとの事で、区役所に連絡をした。
実はこの石碑は、文字の刻印が浅く、写真を撮っても文字を写し撮る事が難しく、文字に墨を入れ、浮きださせて撮る必要があった。区役所にこの事をお願いすると、担当職員立会いのもとが条件となった。区役所の指定する日時で了をえた。指定された日時は、平成18年10月6日午前10時に現地集合であった。この日は朝から大雨で、文字の墨入れは難儀をした。石碑にビニールを被せ作業を行い、不思議に写真撮影時は雨が止んだ。区役所職員ともども、今がシャッターチャンスと急ぎ早に撮った。撮り終わると、また雨が降り出した。
「これは好古さんのご加護ですよ」雨が止んだのは、皆がそう言った。
哀悼碑の裏面には名誉な戦死をされた隊員の当時の階級と氏名・戦死された日時・場所が克明に記載されている。
石碑裏面には下記の事項が刻まれている。
陸軍騎兵少尉 山口毅夫 明治二十八年二月十三日於廣島陸軍豫備病院
陸軍騎兵曹長 吉田四郎 明治二十八年二月八日 於老爺廟
豫備陸軍騎兵一等軍曹 藤堂立 明治二十七年十一月十七日於龍口戦死
陸軍騎兵一等軍曹 渡邉武松 明治二十八年二月八日 於二道河戦死
陸軍騎兵一等卒 西澤三十 明治二十八年二月二十四日於太平山戦死
陸軍騎兵一等卒 根本由之助 明治二十八年二月八日 於高刋戦死
陸軍騎兵一等卒 羽毛田安太郎 明治二十八年二月八日年 於老爺廟戦死
陸軍騎兵一等卒 添田賢次郎 明治二十八年二月八日 於二道河戦死
陸軍騎兵一等卒 内田與作 明治二十八年二月八日 於二道河戦死
陸軍騎兵一等卒 新井斧三郎 明治二十七年十一月十九日於龍口戦
豫備陸軍騎兵一等卒 小野田勝三郎 明治二十七年十一月十九日於龍口戦
陸軍騎兵一等卒 飯尾金彌 明治二十七年十一月十八日於土城子
陸軍騎兵一等卒 芝﨑章 明治二十八年二月二十二日於聶家堡子戦死
豫備陸軍騎兵一等卒 加瀬音吉 明治二十七年十二月三十日於蘇家屯病死
陸軍騎兵一等卒 蕪木夘八 明治二十八年一月三十一日於朱家旬子戦死
石碑裏面には、上記戦死した騎兵隊員15人の名前、階級、戦死した場所、年月日が刻まれている。その中程に、陸軍騎兵一等卒・添田賢二郎と陸軍騎兵一等卒内田與作の名前が刻まれている。
この二名の石碑が添田賢二郎出身地の神奈川県平塚市に、内田與作の出身地、長野県安曇野市に建立されているので後で述べることにする。内田與作の長野県安曇野市の石碑は平成28年5月31日取材を行い一番新しいく発見された石碑で、これ以降新しい石碑は発見されていない。
東京都世田谷区の許可を得て写真取材をした。
石碑裏面に添田賢二郎騎兵一等卒・内田與作騎兵一等卒両家も家族から揮毫を受け好古は最高の意を籠めて漢詩で表し添田家に送り、内田家は墓を建立に及び揮毫を依頼した。
石碑を訪ねて 2、添田賢二郎の顕彰碑・3、内田與作の墓石で紹介します。
所 在 地:東京都世田谷区池尻四丁目22番7号「官有地」児童遊園(見晴らし広場)経路説明
地下鉄半蔵門線が渋谷から東急田園都市線へ乗り入れています。
田園都市線で渋谷の次の駅、「池尻大橋駅」で下車して「西口」出口から地上へ出る。
目の前を首都高速道路が見えるのでそれに向かって右方向へ進むと30mほどで東京三菱UFJ銀行が見える。その角を右へ曲がる。後は道なりに約380m進むと交差点に出るので右へ曲がる。約130m進むと分かれ道に出る。そこが写真1の地点です。左前方向へ約120m進むと写真2の地点になる。階段の入り口には何も標識が無いが写真を参考にして階段を56段登って現地到着です。
この地図の緑色のルートは「池尻大橋駅」西口出口を出て30mほど右へ行った東京三菱UFJ銀行前の地点からの経路で、全距離は700m程度です。
画像は、石碑の所在地、東京都世田谷区池尻4丁目「官有地」児童遊園(見晴らし広場)入り口で小高い丘に建立されている。
この地は、元騎兵第一聯隊の跡地で現在国有地です。