平成19年1月10日、伊吹文部科学大臣が来県、中村時広愛媛県知事がご案内され秋山兄弟生誕地に来られました。
秋山兄弟生誕地を管理する常盤会同郷会は、平成22年4月1日、愛媛県教育委員会所管の中で愛媛県第1番目に認定された公益財団法人なので此れの視察を兼ねての訪問であったのかもしれないです。
公益財団法人常盤同郷会の主な目的・事業は「育英奨学」で、秋山兄弟生誕地では合気道・柔道を介して青少年の育成と、心身の鍛錬、秋山好古・眞之兄弟の生涯と生きて来た経緯を次世代に伝えていく事、東京都東久留米市にある、常盤学舎は明治20年伊予松山藩主・久松定謨が、松山の子どもたちが学問をするため上京、その時の寄宿舎として創設した常盤学舎の管理をする事です。
画像は、平成19年1月10日、秋山兄弟生誕地に伊吹文部科学大臣が来られた時の様子です。
伊吹文部科学大臣に秋山兄弟生誕地をご案内する、中村時広愛媛県知事。
伊吹文科大臣と中村時広愛媛県知事。
此処で兄弟は生活され、成人されて立派な活躍をされたのですね、幼少時ご両親の躾が素晴らしかったのでしょう。・・と知事と会話をされていた。
秋山兄弟生誕地の見学も終わり訪問記念に署名をされる伊吹文部科学大臣。
平成19年1月10日、秋山兄弟生誕地のご署名簿に記載された伊吹文科大臣。
所定の見聞を終え秋山兄弟生誕地を後にされる伊吹文部科学大臣。
秋山眞之が海軍兵学校1期生の時、夏休みを利用して薩摩(鹿児島県)で行われている青少年の文武両道の教育を見聞に行った。・・郷中教育見学である。・・いい教育であると感じ取った。
この教育があって西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀、そうそうたる人物が生まれたのであろうと思った。眞之は自分の目で確認しないと気が済まない性分であったので薩摩に行ったのである。
伊予松山でも青少年の育成に何かをしなければならないと考えた。
明治21年薩摩の郷中教育を参考にして設立されたのが、松山同郷会である。その後松山同郷会は、江戸末期東京に伊予松山藩主・久松定謨設立した、常盤会と昭和28年合併し、現在は、公益財団法人常盤同郷会として活動している。
画像は、秋山眞之が興した「松山同郷会」の名残として今も行っている合気道・柔道を介しての青少年の健全な育成と心身の鍛錬・・文武の武の教育の一つである。
松山市立味生小学校6年生120名が秋山兄弟生誕地で校外学習をした様子です。
松山市内の小・中・高校生が生誕地に訪れ、秋山好古・眞之兄弟の生涯と生きて来た経緯を勉強している。文武の文の分野です。
武道場に上った松山市立味生小学校6年生120名の生徒さんの靴、見事に整然と脱ぎ置いてあった。先生の良き指導が伺えます。・・お見事です。
武道場でお話を聞き、これから秋山兄弟生誕地を見学、お話をする山崎常務理事、現在は理事長で、元愛媛県立松山北高等学校の教諭(前身は、秋山好古が校長を務めた、北豫中学校)である。
各班に分かれて秋山兄弟の研究員が説明しました。
説明を聞き自分たちが見分したい処を真剣に見学、時折質問がありました。
秋山好古の騎馬像をみて、好古さん凄いな・・との声が!!
秋山眞之の胸像に集まる生徒さん、一人の男子生徒さんが言った言葉が、「先日、愛光学園中学校の入学試験に合格するようにお願いに来たら、合格しましたと嬉しそうに私に話してくれました。」・・おめでとう・・🎊の言葉を送りました。即有難うございの言葉が返って来ました。
また、4年前に、東京の女子高生三人が、秋山眞之生誕祭に(生誕祭は毎年3月20日か21日に開催している。)やって来て東大、早稲田、津田塾に合格いたしますようにと眞之の胸像に祈願に来ました。
すると三人の女子高生は、志望大学に合格、翌年の生誕祭にわざわざ東京からお礼に来ました。
今や、松山のパワースポットになっている眞之の胸像、眞之の手は皆さんが触って帰るからピカピカに光っています。海軍兵学校首席で卒業した秀才です。
画像は、現在の常盤学舎で、東京都東久留米市中央町四丁目18番17号にある。
常盤学舎は、伊予松山藩主・久松定謨が、松山の子どもたちが学問をするため上京、その時の寄宿舎として創設した学生の学舎で、一時期秋山好古も舎監を務めた。正岡子規・勝田主計(大蔵大臣・文部大臣を歴任)・桜井忠温など多くの人材を輩出している。
なお、秋山眞之は常盤学舎に入舎せず、兄好古が間借りをしていた旧旗本佐久間家の兄の許に置かれ兄の監督の許厳しい躾を受け帝国大学を目指し東京大学予備門で勉学に励んだ。だが帝国大学をあきらめ海軍兵学校に進んだ。東京大学予備門時代の同級生に夏目漱石がいた。
眞之が東京大学に進学しなかったのは、兄好古に経済的な負担を掛けてはいかぬとの思いで断念し、・・兄を説得して海軍兵学校に入学するのである。海軍兵学校を首席で卒業している。
東京都文京区本郷四丁目10番13号に設置されている常盤会跡の説明版が設置されている。
東京都東久留米市中央町に移転する前はこの地にあった。東大が近く立地条件のいい場所であった。