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スペシャルドラマ「坂の上の雲」回顧録 8、 藤本隆弘さん

2018年10月06日 | 伊予松山歴史散策

平成19年10月11日、秋山兄弟生誕地に本木雅弘さんが来られ、平成20年2月12日、竹下景子さんが来られました。

そして平成20年8月30日、藤本隆弘が来られました。藤本さんもNHK坂の上の雲ロケに入る前の準備の一環として、親友であった秋山眞之の生家を訪ねる事であった。

藤本さんが演じられたのは、海軍中佐・広瀬武夫の役でした。

広瀬武夫は、秋山眞之の海軍兵学校二期先輩の第15期生で、秋山眞之は、第17期生、眞之は、伊予松山藩出身者と言う事で、長州出身の先輩達に苛められた。(理由は、伊予松山藩は親藩で、長州討伐に幕府の命を受け先発隊として二回攻め込んだ、それで長州の先輩に苛めを受けた。)

これを庇ってくれたのが広瀬武夫であった。卒業後も親友として交際があり、旅順港閉塞作戦に従事し撤退時に広瀬は、杉野孫七上等兵曹がいない事に気づき杉野を助けるため一人沈み行く福井丸に三度も戻り、船内を捜索したが発見できずやむを得ず救命ボートに乗り移ろうとした直後、頭部にロシア軍砲弾の直撃をけ戦死した。享年36歳であった。

その後軍神となり銅像が、岐阜県高山市の城山公園に胸像を、東京の旧万世橋駅前に立像を、誕生地大分県竹田市には胸像が建てられた。(万世橋駅前の広瀬武夫と杉野孫七の銅像は、昭和22年7月21日撤去された。)
さて、藤本隆宏さん来館には、あらかじめ連絡があったので研究員達も心して待機していた。

お越しになられた第一印象は、元オリンピック水泳個人メドレー日本代表選手(昭和63年ソウル五輪200m・400m個人メドレーに出場・平成4年のバルセロナオリンピックで2大会連続のオリンピック出場を果たすと400m個人メドレーで8位入賞、同種目で日本人初の決勝進出を果たした。)として活躍されたスポーツ選手ですが、その経歴は表に出さず、気さくで明るい性格の方で、そして礼儀正しい中にも、気軽に話しかけられる雰囲気を持つ俳優さんでした。
NHKスタジオパークに出演された時、アカペラで歌を披露されましたがお上手でした。

※ 平成30年3月、廣瀬武夫生誕150年記念として「廣瀬武夫からの絵はがき」が廣瀬武夫生誕150年祭事業実行委員会から刊行され、編集は笹本玲央奈で、161ページの立派な書籍です。

画像は、平成20年8月30日に秋山兄弟生誕地に来られた藤本隆宏さんです。

 

藤本隆宏さん、先ずは最初に秋山眞之の胸像に行かれました。
無言で暫く佇んでおられました。役柄の言葉では、「秋山、広瀬だ来たぞ・・と心の中で叫ばれたのでは?」そして、武夫を演ずる藤本さんとしては「広瀬武夫役を演じます藤本です・・と言われたのでは?」ないでしょうか。

秋山兄弟生誕地の研究員の説明を聞かれる藤本隆宏さん。

NHKスペシャルドラマ坂の上の雲ので、広瀬武夫を演じる藤本隆宏さん演出の一助になればとの思いか熱心に研究員の説明を聞いておられました。

見学に来ていた観光者も、まさか藤本隆宏さんに会えると思わず喜んでおられた。

生家裏にある両将遺邸の石碑の碑文を研究員から説明を聞かれる藤本隆宏さん。

無事予定の見学研修も終わり、広瀬武夫役を演じられる藤本隆弘さん、本木雅弘さんが書かれた色紙の前で、藤本隆弘さんも記念にと、色紙に言葉を書かれた。

秋山兄弟生誕地の研究員と記念の写真撮影。

女性研究員も大変な喜び、一緒に写真を撮らせて頂きました。

さーいよいよ藤本隆弘さんお帰りです。

予定の行事も終わり、藤本さんのお帰り、一人一人にお礼の握手をされて秋山兄弟生誕地を後にされました。
本当に気さくな素敵な方でした。
秋山兄弟生誕地に来て頂き有り難うございました。
何時までもお元気でご活躍下さい。

松山市梅津寺にある、秋山眞之の立像で、手前の石は旅順港閉塞作戦に使われ福井丸に積まれていた石で大分県竹田市にある「広瀬武雄神社」から贈られた「護国の石」です。

明治37年、日露戦争が勃発、日本海軍は、旅順港口の狭い入口に船を沈めて、帝国ロシア海軍太平洋第一艦隊(旅順艦隊)の軍艦が出入り出来ない様にする非常に危険な「旅順港閉塞作戦」を決行した。

広瀬は、志願して第1回目の作戦で「報国丸」を指揮して出撃。入り口の最も近い場所に船を自沈させて無事帰還した。第2回目の作戦は、明治37年3月27日に決行。広瀬は再び志願して「福井丸」の指揮官で出撃。船を沈めて帰えろうとしたが、 部下の杉野兵曹長がいないので船内をくまなく3度も探したが見つからず、やむを得ずボートに乗り移った瞬間、ロシア海軍の直撃弾を頭部に受けて即死。日本海軍は、広瀬武夫の武勇や部下を思う心と壮烈な戦死をたたえ、軍神第1号としてあがめ、中佐に特進させた。 眞之は、広瀬武夫が第2回目に出陣する直前の3月24日、「福井丸」に広瀬を訪ね無事帰還を願ったが、最後の別れとなった。
自沈させた福井丸はその後引き上げられ、バラストとして積まれていた石が広瀬中佐の故郷である竹田に運ばれ、現在の広瀬神社の戦没者慰霊碑の礎石として使われている。

そのうちの一つが松山市に贈られ秋山眞之の立像の前に置かれている。画像はその石(護国の石)である。

 

廣瀬神社大鳥居の前に建立されている、廣瀬武夫の胸像。

廣瀬神社境内に行くには長い石段を登らなくてはならない。

石段は二段階になっている。

石段を上がると「縣社廣瀬神社」の社号碑が建立されている。

境内には廣瀬武夫記念館竣工記念碑。

廣瀬神社拝殿。(昭和10年5月25日創建)

廣瀬神社創建50周年を記念し、昭和61年5月建てられた「廣瀬武夫記念館」

神社境内に「文武の誉れ高い 廣瀬武夫像の銘板がある

 『廣瀬中佐』の歌の碑で上部には、文部省唱歌・廣瀬中佐 大正元年發表と揮毫されており

 楽譜と歌詞が書かれ、石碑下に、宗教法人 廣瀬神社 日本唱歌保存愛唱會と揮毫されている。

 轟く砲音(つつおと)、飛来る弾丸(だんがん)。
荒波洗ふ デッキの上に、
闇を貫く 中佐の叫び。
「杉野は何処(いずこ)、杉野は居ずや」。

  1. 船内隈なく 尋ぬる三度(みたび)、
    呼べど答へず、さがせど見へず、
    船は次第に 波間に沈み、
    敵弾いよいよあたりに繁し。
  2. 今はとボートに 移れる中佐、
    飛来る弾丸(たま)に 忽ち失せて、
    旅順港外 恨みぞ深き、
    軍神廣瀬と その名残れど

東京都港区南青山にある青山霊園に、兄の廣瀬勝比古と並んで眠っている廣瀬武夫の墓。

平成30年3月、廣瀬武夫生誕150年記念として「廣瀬武夫からの絵はがき」が廣瀬武夫生誕150年祭事業実行委員会から刊行され、編集は笹本玲央奈で、161ページの立派な書籍でその表表紙です。

明治34年7月4日、兄・勝比古に宛てた絵はがき。

宛名面:軍艦笠置  海軍中佐 廣瀬勝比古殿

文 面:市創立七百年記念の産業博覧会開設をきっかけに、昨年視察した地ですが、ちょっと「サンクトペテルブルグ」より出掛けております。例によって絵葉書を送ります。雪中の景色で、多少(日本の)猛暑をはらうことができれば、この上なく幸いです。

武夫  「リガ」市にて 七月四日

廣瀬武夫生誕150年記念として刊行された「廣瀬武夫からの絵はがき」P94に掲載されている。

 

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