EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

俳句の街松山の句碑巡り 19 正岡子規の一番新しい句碑

2018年04月26日 | 伊予松山歴史散策

伊予松山を紹介する時「いで湯と城と文学の街」と紹介しておりましたが、最近は「坂の上の雲の街」が新たに付け加えられ「いで湯と城と文学の街と坂の上の雲の街」と紹介されるようになりました。

中村時広愛媛県知事が、松山市長時代に、司馬遼太郎さんが書かれた小説「坂の上の雲」を基調とした街づくりを推進、坂の上の雲ミュージアムを建設、これを中心に松山城、秋山兄弟生誕地、子規堂など、小説ゆかりの史跡・施設など、まち全体を屋根のない博物館として、来松された皆さんに観光して頂こうと言う構想です。

その一つとして俳句が盛んな土地柄、句碑は郵便ポストの数よりも沢山建立されています。

句碑を見て解句し、お城を訪ね、坂の上の雲縁の地を訪れ、疲れた身体をゆっくりと道後温泉で癒して下さい。

 さて、私は俳句の嗜みは全く無い者ですが、平成25年9月19日、子規の祥月命日に松山子規会主催の法要と記念講演会が子規の遺髪を埋葬した松山市正宗禅寺で開催されました。

講演は、子規会副会長和田克司先生が行い、正岡家の最新情報を織り込まれた素晴らしい内容でした。

和田先生の講話を聞き、松山ゆかりの代表的な俳人の句碑を巡って見たい気持ちに駆り立てられ、カメラ持参で数回に区切り独断と偏見で巡り歩く事にしました。

松山ゆかりの代表的な俳人は、正岡子規・高浜虚子・河東碧梧桐・夏目漱石・種田山頭火・野村朱燐洞・石田波郷・中村草田男・篠原梵・柳原極堂でありますがその他多くの俳人の句碑もあります。

句碑は、松山市内に約500基位建立されているそうで、子規の句碑だけでも55基あるそうですから・・全部巡るのは大変です。

先ず始めに、句碑と言えば何をさておいても、一番は、「春や昔十五万石の城下哉」JR松山駅前にある松山を代表する句であります。

この句の句碑は、松山市内4カ所に建立されております。

そして、私が松山の句碑巡りを始めたのが平成25年9月26日から、同年11月7日、村上霽月の句碑で終わっています。

この度、新しく正岡子規の句碑が建立されました。

平成30年4月13日現在松山市内で一番新しい句碑です。

除幕式の詳細は、4月17日付のブログ(伊豫松山、土亀山に正岡子規の句碑建立除幕式)に記載しています。

参考までにその1

坂の上の雲ミュージアムは、平成19年4月28日、松山のまち全体を屋根のない博物館とする『坂の上の雲』フィールドミュージアム構想の中核施設として開館しました。

小説『坂の上の雲』は、松山出身の秋山好古、秋山眞之兄弟と正岡子規の3人の生涯を描いた小説です。

NHKは、歴史に残るドラマとして「スペシャルドラマ・坂の上の雲」を企画した。

当時の海老沢会長は、原作者の許可を得て製作し、平成11年11月29日から平成23年12月25日の3年間かけて全13回で放映されました。

そして再放送が、平成26年10月5日から平成27年3月29日、BSプレミアムで26回に分けて放映されました。

 参考までにその2

「春や昔十五万石の城下哉」句碑4カ所画像で掲示しておきますのでご覧ください。

碑に揮毫されている句は

寒山落木巻1 明治25年(1892)終わりの冬 天文地理の中の一句。季語(凩 冬)にあります。

「凩に はひつくばるや 土亀山」 明治25年 冬の終わりに詠んだ句

「しくるるや 右は亀山 星が岡」 明治28年に詠んだ句

一つの石碑に二句が揮毫されている句碑は珍しいものです。

では、その二句を紹介します。

句の説明は、松山子規会が解句したものの引用です。

「凩に はひつくばるや 土亀山」

解句:「激しく吹きつける寒い凩に向かって、はいつくばっているよ、土亀山は、明治22年歩兵第22連隊が測量した「松山近傍図」によれば、当時土亀山のあたりは人家もまばらでひろびろと田畑が広がっていた。標高は約50mであるが、福音寺や土佐街道(国道33号線)から眺めるとまるで亀がはっているように愛らしく見えた。子規は明治25年の12月、東京八王子などを旅行し、紀行文を書いている。

そのおり、明治22年冬に帰省したとき、散策して見た土亀山の情景を思い出して、詠んだものか。

石手寺、興居島、内川などの句とともに記されている。またこの年に11月、子規は母と妹を呼びよせて、東京永住を決意している。望郷の念の一入強い中での作と言えよう。

この句には、故郷の風土に共感する子規の姿がうかがわれる。・・と松山子規会は解句している。

説明版に記載されている句の説明文。

そしてもう一句は

寒山落木巻4 明治28年(1895)冬の句

「しくるるや 右は亀山 星が岡」

句の説明:「しくるるや」は、しぐれる雨の事で、突然強く吹いたり、やんでは、また吹く雨風のことで、土亀山より星岡山に向かって吹く戌亥(北西の風)風雨のことであり、土亀山を東側から詠んだ句と言える。

石鎚山や東温アルプスに雪が積もると暖かい松山でも寒くなって来る。

子規さんが、土亀山を舞台に二句詠んでいることを考えると故郷を愛し「養痾雑記」に(世に故郷程こひしきはあらじ)と記している。

最後の帰省の際にも、石手、城北、城南、道後、今出を吟行して、「散策集」を書いている。

句碑の前に説明版が設置してある句の説明は、松山子規会にお願いして解句を書いて頂いた。

説明版に記載されている句の説明文。

句碑の裏面。

句碑表裏全体の説明版。

句碑裏面の説明。

参考までに「春や昔十五万石の城下哉」句碑4カ所画像で紹介します。

初代「春や昔十五万石の城下哉」句碑で、俳句の聖地「愛媛・松山」を象徴する句であり、正岡子規の代表句である。

昭和24年4月に小さな句碑が、戦後いち早く国鉄(JR)松山駅前に建立されたものの、昭和28年松山市駅前へ移設。昭和52年城山公園野球場前に移動、のち松山市立子規記念博物館横へと移され現在に至っている。

句碑の大きさは「高さ80cm、奥行43cm、前幅110cm」と小さい。

 

2基目の「春や昔十五万石の城下哉」の句碑。

松山のシンボルともなっている句ということで、昭和37年5月、巨大なこの句碑がJR松山駅前中央広場に建てられたが、昭和55年8月、駅前広場改造工事のため、西北隅に移動した経緯がある。

句碑は、松山市内に約500基位建立されていて子規の句碑だけでも55基あるそうですが、その中でも最大級の句碑です。

3番目の「春や昔十五万石の城下哉」の句碑。

建立場所は、松山市勝岡町の松山発電所記念公園にある。

この場所は、松山火力発電所として昭和33年に建設され、高度成長期の四国の電力安定供給に貢献した。発電所としての役目を終えた後、発電所の開発・運転に長年にわたりご支援・ご協力いただいた地域の皆さまに感謝の意を込めて、跡地の一部を芝生広場・スポーツ施設としてご利用いただくことといたしました。開園は、平成15年9月18日とある。

発電所記念公園に「春や昔十五万石の城下哉」の句碑を設置した理由を担当職員に伺ったが、分からないとの返答であった。

4基目の「春や昔十五万石の城下哉」の句碑。

句碑は、道後温泉のホテル宝荘玄関に造園した小さな子規庭園の中にあった。

子規が生誕した松山市に、子規の庭と題した小規模の庭が数カ所造園されている。そのうちの一つが、道後温泉街にある、ホテル宝荘の玄関を入ると正面に扁額があり、その左側に平成27年3月に造園された「子規の庭」がある。そしてその象徴として「春や昔十五万石の城下哉」の句碑が建立されていました。

なお、ホテル宝荘は、現在解体し新築工事中で平成30年5月25日、新装開館し名称が「道後(どうご)御湯(みゆ)」と改名するそうです。「春や昔十五万石の城下哉」の句碑は何処に再建立されるのでしょうか。

 

コメント (1)
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