EEKの紀行 春夏秋冬

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伊豫松山、土亀山に正岡子規の句碑建立 除幕式

2018年04月17日 | 伊予松山歴史散策

正岡子規の句

「凩に はひつくばるや 土亀山」 明治25年 冬の終わりに詠んだ句

「しくるるや 右は亀山 星が岡」明治28年に詠んだ句

 俳句の街、文学の街、坂の上の雲の街松山に子規の句碑が新しく建立誕生した。

場所は、松山市福音寺町753番地12にある土亀山(伊予三山の一つ)で、句は、正岡子

規が詠んだ「凩に這いつくばるや土亀山」・「しくるるや 右は亀山 星が岡」の二つの句が揮毫され、4月13日(大安)に松山市、松山子規会、福音寺町川付地区の自治会、町内会、福音寺町土地改良区の代表と地元住民が参列し、日尾八幡神社三輪田宮司の神事の下厳かに除幕式が行われた。

句碑建立は、正岡子規生誕150周年記念と松山市美しい街並み賑わい創出事業の一環として福音寺町川付自治会が建立した。

1、      句   碑:正岡子規生誕150周年記念

2、      碑   文:凩に はひつくばるや 土亀山  明治25年

              しくるるや 右は亀山 星が岡   明治28年

3、      建 立 者:松山市福音寺町川付自治会

4、      所 在 地:松山市福音寺町753番地12「土亀山」

5、      建立年月日:平成30年3月吉日

6、      碑の大きさは:高さ1m16cm 横幅1m20cm 厚さ27cm

7、      石   材:花崗岩

 この句碑は、明治25年、冬の終わりに正岡子規が詠んだ「凩に はひつくばるや 土亀山」句だが、この時子規は東京大学の学生で松山には居なかった。上京する前にこの地区を吟行した時を思い出して詠んだのではなかろうか?

「しくるるや 右は亀山 星が岡」この句は、明治28年に詠んだものである。

子規は明治25年10月東京大学を中退し、同年12月、新聞「日本」の記者となり、明治28年4月近衛師団所属の従軍記者として清国に渡り、帰国の船中で喀血した。須磨療養所で保養してその後松山に帰り、夏目漱石の下宿先である、愚陀仏庵で52間居候する。同年10月東京に帰るその途中古都奈良に立ち寄り詠んだ句が有名な「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」である。

「しくるるや 右は亀山 星が岡」この句は、明治28年に詠んだ句であるので、漱石と一緒に土亀山に来たのではないでしょうか?・・星が岡は古戦場があった所で、土亀山の直ぐ近く南に位置する標高75mの山である。

(伊予三山:天山・51m・土亀山・50m・星岡山・75m)。

子規は、34年11か月の生涯を終えるが、その間約2万4千の句を詠んだと言われている。

その中の一句が「凩に はひつくばるや 土亀山」である。

画像は、松山平野中心部に点在する山で土亀山は下記の通りである。

山  名:土亀山(どがめやま)

   種別等級:四等三角点

   所在地:松山市福音寺町753番地12

   緯度:33°49′24.6832

   経度:132°46′56.7406

   標高:50.47m

伊予三山と呼ばれる山は、石鎚山・瓶ヶ森・笹ヶ峰とは別に、天山・土亀山・星岡山も「伊予三山」と呼ばれている。

松山平野中心部に点在する四つの山を別名、伊予三山と呼び、三山に、天山・東山・星岡山と呼ぶ人と、天山・土亀山・星岡山と呼ぶ人がいる。

三角点は、土亀山・星岡山にあるが、天山・東山には存在しない。

上空から見た土亀山の位置。

此れからの画像は、4月13日(大安)午前11時から行われた、正岡子規生誕150周年記念句碑「凩に はひつくばるや 土亀山」明治25年 冬の終わりに詠んだ句と、「しくるるや 右は亀山 星が岡」明治28年に詠んだ句碑の除幕式の様子である。

句碑は、標高50.47mの土亀山の南面麓に建立され,画像で分かるように、土亀山の南面は福音寺町川付地区の墓所となっており、その一番下部に建立された。

この墓所には、陸軍中将仙波太郎の墓がある。

除幕式は、日尾八幡神社、三輪田宮司の祝詞から始まった。

三輪田宮司は厳かに且つ丁寧にお祓いをした。

参列者に対しても丁寧なお祓いがあった。

神事を繰り広げる三輪田宮司。

 無事神事も終わり除幕である。

 愛媛新聞、愛媛ケーブルテレビも取材に来ていた。

 愛媛新聞は4月17日付のページ8に掲載されている。

三輪田日尾八幡神社の宮司の神事が終わり、各関係の体表者によりいよいよ除幕である。

除幕された正岡子規生誕150周年記念句碑の全容が現れた。

 句碑は珍しく2つの句が揮毫されていた。

 殆どの句碑は、1句のみであるが、珍しい句碑である。

 正岡子規は、土亀山を2つ詠んでくれたので、2つとも1つの碑にした。

数日前の天気予報では雨天であったが、画像の様に雲一つない好天でいい除幕式が行われた。

正岡子規の句碑の裏面で

2句が揮毫してある。

「五月雨の中に天山星が岡」明治26年と「毒茸の下や誰が骨星が岡」明治25年である。 

そして、星岡懐古の様を漢詩で詠まれそれが揮毫されている。

1基の句碑に、4句と、10の漢詩が揮毫され欲張りな句碑である。

下部に「この句碑は、松山子規会・松山市美しい街並み賑わい創出事業補助金と福音寺町川付自治会の寄付金により、正岡子規生誕150周年を記念として、ここ土亀山に平成30年3月吉日に建立する。と揮毫されている。

 

除幕式が終わり参列した住民たちが句碑を見る。

明治25年・明治28年、正岡子規がこの地を訪れてくれたのか、今から123年前の事、その当時はどんな情景であったのか?思いを馳せていた。

正岡子規の句碑

「凩に はひつくばるや 土亀山」

「しくるるや 右は亀山 星が岡」

句碑の下に2枚の説明版が設置された。

説明版その1

陸軍中将仙波太郎の説明版は、句碑の右下に設置された。

仙波太郎に付いては、この後詳しく紹介する事にする。

土亀山の南面には、福音寺町川付地区の墓所がり、その一角に仙波太郎の墓と仙波家祖先の墓がある。

 

説明版その2

正岡子規が詠んだ句の背景や解説は松山子規会が協力した。

「凩に はひつくばるや 土亀山」明治25年 冬の終わりの句

「しくるるや 右は亀山 星が岡」明治28年に詠んだ句

についての説明版で、この中に星岡古戦場の事も記載されている。

正岡子規が詠んだ句に、「凩に はひつくばるや 土亀山」に付随して天山・星岡山が出て来る。

天山は、奈良県橿原市にある天の香久山との姉妹山として、また加藤嘉明が松山城築城時に一番候補地として徳川家康に具申したと言われている山で有名である。

星岡山は、鎌倉時代後期宮方と幕府方の戦いがあった古戦場の山である。

土亀山は、陸軍中将、仙波太郎の墓所があり、正岡子規、夏目漱石が吟行に来たのではないかと思われる山である。

そして伊予三山「天山・星岡山・土亀山」に出て来る山の一つである。

正岡子規生誕150周年記念句碑が建てられた少し上に仙波太郎の墓がある。

仙波太郎の墓と祖先の墓。

仙波太郎の墓所で、7基の先祖の墓石が並んでいる。

墓所の入口には、「福音寺庄旧里正 仙波家墓所」と揮毫された石碑が建立されている

仙波太郎、陸軍中将正三位勲一等功三級について。
写真は、昭和46年4月1日、私が福音寺公民館に掲示してあった写真を複写し、パネルに仕上げて、陸上自衛隊松山駐屯地に寄贈、駐屯地の資料館に展示してある写しである。

仙波太郎は安政2年(1855)4月21日に、久米郡福音寺(現・愛媛県松山市福音寺町)に生まれ、幼名を惣太郎といった。父は、旧和気郡馬木村の庄屋田所与惣右衛門の弟で、仙波家の養子となった。その資性は、世俗のわずらわしさを気にしないのびのびしており、まじめでおごそかで、どっしりしており、また書が達者であった。仙波家は、福音寺村の庄屋であったが、太郎の幼少時に家計の不如意から、家産は次第に減少したようである。(私の曽祖父、仙波友十郎と幼友達で、沢山の書簡が届いていた。それを大切に保存し、屏風に仕立てていた。)

少年時代から三津浜で魚類を買って、松山で行商したり、小野村の駄馬に行って、入会林で切り取った木の枝を刈り、これを町へ売り歩いたりしながら、僅かな賃金を得て家計を助けた。父が病床に臥せってから、母と二人で苦労を重ねたが、この間に処して母は貧しいなかにも太郎を激励し、その薫陶に全力を傾け激しい労働のかたわら、僅かな時間を惜しんで南久米の三輪田塾に学び、直接米山の教えを受け明治7年の秋(20歳)の時陸軍教導団に合格、病床にあった父は彼を激励、意を決し上京、叔父の松田通博の学友河東坤(碧梧桐の父)の援助を受けた。

その後陸軍士官学校に入学、明治11年12月卒業、同12年2月歩兵少尉、同16年に中尉となった。太郎は、故郷星岡山に土居通増・得能通綱らの奮闘の生涯を永遠に伝えるために松田通博・吉田格堂・鈴木安職らの有志と謀って土居・得能氏の古戦場に「星岡表忠之碑」を建立した。

同16年4月創設された陸軍大学第1期生として入学同期生に秋山好古がいた。

その後陸軍大学教官、ドイツ留学その時射撃術を習得帰国後、射撃術の優秀な部隊に名誉旗を授与するようになったのは、彼がドイツで行なわれていた制度をわが国に採用させた結果である・・中略

陸軍士官学校教官を経て大佐に昇進第三師団(名古屋)の参謀長、このころ、陸軍の三太郎「宇都宮太郎・桂太郎、後の内閣総理大臣・仙波太郎」のひとりと呼ばれた。その後福岡歩兵第24連隊長となり、第二旅団長を経て明治43年11月30日、陸軍中将・・中略・・かねてから永住の地を岐阜県加納町に決定していた。

退役後夫人、矢野タマの出身地である加納町に居住した。

大正9年5月衆議院議員に当選、わが国の社会教育に貢献、彼は質実剛健で正義の士あって真に軍人の典型的であり、しかも単なる軍人に終わった人でなく常に豊富な学識と社会的常識とを保持し、正確な判断と処理となし得た立派な社会人でもあった。・・秋山好古は、

仙波太郎中将は良く働いたとの談話がある。

仙波太郎と久米村との関係は、大正7年に御下賜金を受けた時、これを直ちに岐阜県教育委員会と久米村青年団とに匿名で寄贈した。また昭和2年(1927年)に生誕地福音寺の屋敷跡に村民のために「公正会堂」を建て寄付し、村の社会教育のために努力した。その跡地は現在集合住宅となっている。

 昭和4年2月19日、逝去 75歳。(文献:久米村誌)

参考1:陸軍大学校は明治16年参謀将校の育成と軍事研究等を主任務として創設され、第1期生は、選抜された19名が入学、その中に伊予松山から秋山好古と仙波太郎がいた。卒業できたのは10名で、主席で卒業したのは、東条英教(東条英機の父)で秋山好古は7番目、仙波太郎は3番目の優秀な成績で二人とも卒業出来た。教育期間は、歩兵・騎兵が3年、砲兵・工兵は2年であった。
参考2:陸軍士官学校の教育期間は、歩兵・騎兵が3年、砲兵・工兵は4年であった。

参考3:旧伊予松山藩主、久松定謨がフランス留学の時、同伴役として依頼を受けた太郎は「私は、藩主久松定謨様には世話になってない、庄屋として多くの年貢を献上してお世話をした方である。よって断わる。」と言った。それで秋山好古が行くことになった。

参考4:仙波太郎は、退役後、岐阜市から慕われて衆議議員に選ばれ社会教育の振興に寄与した。

 仙波太郎陸軍中将、大佐時代の仙波太郎(45歳)右は、少佐時代の仙波太郎(38歳)
田所氏所蔵。

久松定謨伯爵近衛歩兵第一連隊長を挟んで、右に、仙波太郎第一師団長、左に秋山好古近衛師団長が写っている。そして秋山眞之がいる。

大正時代の一時期、朝敵とされた伊予松山藩出身3名は、首都東京都と皇居を、秋山・仙波・久松が守護した。

写真は秋山兄弟生誕地所蔵。

註:久松定謨伯爵は、旧伊予松山藩15万石の藩主である久松家第16代当主で、妻、貞子は島津忠義公爵の娘である。

画像は、久松家の法要で伊予松山出身の名士が参列して行われた時の貴重な写真である。

画像は、左から、秋山好古(近衛師団長)・久松定謨(近衛第1連隊長)・仙波太郎(歩兵第1師団長)

久松定を支えた仙波太郎陸軍中将

「星岡表忠之碑」
揮毫は、二品伏見宮貞愛親王
石碑は、明治16年に中尉となった仙波太郎は、故郷の星岡山に土居通増・得能通綱らの奮闘の生涯を永遠に伝えるために松田通博・吉田格堂・鈴木安職らの有志と謀って土居・得能氏の古戦場に「星岡表忠之碑」を建立した。
参考:二品伏見宮貞愛親王・安政5年4月28日~大正12年2月4日は、日本の皇族、陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将大勲位功二級内大臣。

所在地:松山市星岡町薬師山乙240番地・薬師山(75m)山頂に建立されている。

松山市・松山市教育委員会が設置している「星岡古戦場」の説明版。

愛媛新聞、平成30年4月17日付で掲載、土亀山に正岡子規の句碑建立除幕式の記事。

 

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