昭和41年(1966年)に松山市、松山商工会議所、南海放送、愛媛新聞社の四者で主催した「松山おどり」がその始まりで、松山おどりの名称は昭和46年(1971年)の第6回まで、その後は松山まつりと称して開催継続中。
毎年は、8月11日から13日までの3日間行われ、野球拳おどりや野球サンバの連とチームが街を練り歩く。
11日は野球サンバ、12日は野球拳おどり(企業連)、13日は野球拳おどり(団体連)が演舞する。
今年は、「心を一つに、今出来る事は・・小さな事でもいい・・頑張ろう日本」を合言葉に松山まつりも東日本大震災の早期復興を祈念して、そして亡くなられた方々の追討鎮魂を祈りつつ。」・・今日の観覧者7万8千人の観衆一人一人の心にもその絆は宿っていたのでは。
野球サンバ参加チームは、二番町をスタートし千舟町を踊り観衆を魅了していた。
松山まつりの開幕を宣言する野志松山市長・・挨拶の中に「東日本大震災の早期復興に松山から元気を届けようと」言葉を付け加え松山まつりが開始した。
松山まつりの初日は、野球サンバから・・・気持ち、元気よく届け東北まで。
サンバのリズムを奏でる打楽器奏者たち。・・やはりサンバはこれが無くては始まらない。・・今年も元気よく奏でよう。
チームも個性のある衣裳で参加。
東北の皆さんに元気が届くように気持ちを篭めて踊ります。
毎年は、8月11日から13日までの3日間行われ、野球拳おどりや野球サンバの連とチームが街を練り歩く。
11日は野球サンバ、12日は野球拳おどり(企業連)、13日は野球拳おどり(団体連)が演舞する。
今年は、「心を一つに、今出来る事は・・小さな事でもいい・・頑張ろう日本」を合言葉に松山まつりも東日本大震災の早期復興を祈念して、そして亡くなられた方々の追討鎮魂を祈りつつ。」・・今日の観覧者7万8千人の観衆一人一人の心にもその絆は宿っていたのでは。
野球サンバ参加チームは、二番町をスタートし千舟町を踊り観衆を魅了していた。
松山まつりの開幕を宣言する野志松山市長・・挨拶の中に「東日本大震災の早期復興に松山から元気を届けようと」言葉を付け加え松山まつりが開始した。
松山まつりの初日は、野球サンバから・・・気持ち、元気よく届け東北まで。
サンバのリズムを奏でる打楽器奏者たち。・・やはりサンバはこれが無くては始まらない。・・今年も元気よく奏でよう。
チームも個性のある衣裳で参加。
東北の皆さんに元気が届くように気持ちを篭めて踊ります。