EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

坂の上の雲の主人公達が歩んだ街・松山今昔

2011年08月01日 | 伊予松山歴史散策
慶応4年(1868)9月8日明治に改元、明治2年(1869)6月18日旧松山藩主、久松勝成が新政府から松山藩知事に任命、8月4日松山藩庁が開庁された。
明治4年(1871)7月14日廃藩置県により松山藩を廃し松山県が置かれ、同年11月15日に松山・今治・小松・西条の4県を統合して松山県とし県庁を堀之内(現松山城三之丸)に置いた。

明治5年松山県は石鉄(いしづち)県に改称、県庁を今治に移す。
明治6年2月20日石鉄県と神山県の両県を廃し「愛媛県」とし県庁を松山城三之丸に置いた・・愛媛県の誕生である。
明治4年11月~同6年9月までの長期、岩倉具視が特命全権大使として欧米視察し帰国後これを参考にその後日本の政治経済が大きく変貌し生活様式も西洋文化を取り入れ社会が急激変化していった。

画像は、坂の上の雲の主人公「秋山好古・眞之・正岡子規」が過ごした松山、「明治・大正・昭和戦前、戦後」の様子である。


画像は、松山城、北の郭・・現在は取壊され現存せず。
慶長5年9月14日関ヶ原の戦い前夜、伊予の守護大名河野氏の旧家臣村上水軍一族が伊予国を奪回に襲来、藩主加藤嘉明が関ヶ原の戦いに出陣中、留守を預かっていた筆頭家老、佃一成がこれを撃退し守った。その功績で加藤嘉明は松山城築城に際し北の郭を造営し佃家老の屋敷として与えた。


二番町にあった県立松山中学で、明治28年4月夏目漱石が赴任した。
松山中学の前は、伊予松山藩校「明教館」があった。


大正時代の東堀端で奥が松山城、右の建物は県立松山中学、秋山眞之、正岡子規もここで勉学した。


二番町にあった夏目漱石の下宿先「愚陀佛庵」ここで正岡子規が居候として移り住み夏目漱石は52日間(明治28年8月28日~10月19日まで2階に漱石・1階に子規が居を共にした)過ごした。・・この生活がなかったならば文豪夏目漱石の誕生はなかった。・・建物は松山大空襲で焼失した。
いま松山では再建された愚陀佛が、昨年豪雨山崩れで倒壊したその再建地選定で議論白熱している。


大正時代一番町にあった裁判所で、奥に萬翠荘(旧伊予松山藩主久松定謨の松山の別邸)その左の建物は「愛松亭・夏目漱石が松山中学に赴任した時最初に下宿した場所・明治28年4月」


大正12年9月1日発生した関東大震災により松山市から支援物資を送るため荷車に物資を積込み出発前の風景・・場所は湊町商店街。・現在の銀天街。


画像の撮影時期は不明・・松山城北の歩兵第22連隊練兵場。
ここで正岡子規は東京から帰郷すると子供達を集め野球を教えた。
松山の野球が盛んなのは子規が指導した賜物である。


大正12年元帥を辞退した秋山好古、大元帥(大正天皇)は驚き特旨として好古に官位従二位を与えた。翌年故郷の北豫中学校校長として松山に単身で赴任、学校は、松山城北の歩兵第22連隊練兵場西隣にあった。・・山は、松山城で、
手前の大きな建物は、好古校長が建てた講堂で現在も現存している。・・北豫中学校、現在は愛媛県立松山北高等学校である。


画像撮影時期は不明で松山城二之丸及び三之丸に造営された歩兵第22連隊の兵舎施設。昭和20年11月からはGHQに接収され米英軍の兵舎となる。


昭和18年時代で奥に県庁舎、手前は日本赤十字社愛媛支部病院(昭和18年に松山赤十字病院に改称)


昭和20年11月米・英軍が松山に進駐、進駐軍の本部となった県立図書館、手前は松山市役所庁舎、真ん中が図書館でGHQ本部その前に米国(星条旗)と英国(ユニオン・ジャック)の国旗が掲揚。奥は日本銀行松山支店。


昭和20年11月、歩兵第22連隊の施設はGHQに接収された。バグパイプを演奏しながら隊列を作り正門から出る英国軍隊。・・正門は西堀端側にあった。


昭和30年代の東堀端で中央に県庁舎、左側、松山城山麓に見える建物は、松山市立城東中学校。・・昭和25年開校し昭和58年閉校した。・・同年御幸中学と統合され松山東中学となり現在に至る。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする