goo blog サービス終了のお知らせ 

EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

天 山 1

2010年11月19日 | 往年の名車 メグロ
天 山 1
 
天山について
風土記 日本古典文学体系 岩波書店
風土記逸文・伊予の国
その中に「天山」がある。下記の通り。

 風土記は、和銅6年(713年)元明天皇が諸国に命じて地名の由来や物産、伝承を報告させたが、完全に現存するのは出雲国のものだけ。
 不完全ながら残っているものに常陸・播磨・豊後・肥前などがある。
 伊予の場合は「逸文」としてごく一部が伝わっている。
 伊豫(いよ)の国の風土記に曰(い)はく、伊与(いよ)の郡(こほり)。郡(こほり)の家(みやけ)より東北(うしとら)のかたに天山(あめやま)あり。

天山(あめやま)と名づく由(ゆゑ)は、倭(やまと)に天香具山(あまのかぐやま)あり。
天(あめ)より天降(あも)りし時、二つに分(わか)れて、片端(かたはし)は倭(やまと)の国に天降(あまくだ)り、片端(かたはし)は此の土(くに)に天降(あまくだ)りき。因(よ)りて天山(あめやま)と謂(い)ふ。本(ことのもと)なり。(其の御影(みかげ)を敬礼(ゐやま)ひて久米寺(くめでら)に奉(まつ)れり。)
注 天山
伊与の郡・・・凡そ愛媛県伊予市と伊予郡の地にあたる。
天  山・・・温泉郡石井村天山(あまやま)にある孤立丘。
       旧久米郡内。もと伊予郡に属していた。・・現在は松山市天山町
天山香具山・・大和三山の一つ。香具山
神代紀口訣に「風土記、天上有レ山、分墜レ地。一片伊予国天山。一片大和国香具山」とあるのは本条の記事を要記したもの。
其の御影云々・・・・以下は後人の附記と認められる。
天山の姿を絵図に描いたもの(御影)天山は久米氏所管の久米郡にある故にその本居の大和の久米寺(橿原市内)に祀ったことをいうか。


画像は、松山城天守最上階160mから撮影した、現在の天山である。
小高い山が四つあるがその内の一つ。「通称伊予四山と呼ぶ」
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大和三山 「天香久山」

2010年11月19日 | 往年の名車 メグロ
大和三山 「天香久山」
 
このたび(11月15日・16日)日本100名城紀行「松阪城・高取城・千早城紀行」をして来たが
途中、奈良県橿原市にある、天香久山を見てきた。・・以前から是非行きたい所であった。

我が家のすぐ近くに香久山と縁のある「天山」がある関係で。

画像は、高取城の途中で撮影した「天香久山」で大和三山では、香久山だけが「天」の字を冠することからも、天から降ってきた山との伝承がある。

愛媛県松山市には

 「伊豫国風土記逸文」
 『伊与の郡、東北の方に天山あり、天山と名づくる由は倭に天加具山あり、天より天降りし時、二つに分かれて、片端は倭の国に天降り、片端はこの土に天降りき。よりて天山と謂ふ。 』

古事記や日本書紀の高天原神話にも、香具山は登場します。このように香久山は、大和三山の内でも最も神秘的な要素を持っている。

春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山
という歌がある。

註:「天香久山」と「天香具山」の二通りあるが、国土地理院の地図や橿原市では「天香久山」又は「香久山」を公式に使用しているが、あえてここでは「天香久山」と標記する。・・風土記は、香具山と標記してある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本100名城紀行 千早城 2

2010年11月19日 | 往年の名車 メグロ
日本100名城紀行 千早城 2
 
画像は、日本100名城第55番指定の「千早城」急勾配の階段8合目付近に建立されている楠木公の石碑である。

千早城の麓に「まつまさ食堂」がありこの駐車場に車を置き(有料)食事をすると2時間まで無料。

100名城スタンプは、此処においてある。食堂の方から登りは、裏山から下りは石段を降りるよう案内してもらった。

前回に記載したように詳しい説明版と指針となる表示版を設置してほしい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本100名城紀行 千早城 1

2010年11月19日 | 往年の名車 メグロ
日本100名城紀行 千早城 1
 
松阪城を見て高取城経由して千早城を見た。今回最後の城紀行。
日本100名城第55番 千早城で、私は第75番目の紀行である。

先ほどの高取城でも書いたが、この千早城も案内板が完全ではない。
なぜ管理者は、詳しい案内板を設置しないのか??
初めていく者の気持ちになって案内板を出してほしい。

千早城といえば、後醍醐天皇が、楠木正成に対して、「正成今の言葉は、朕は聞かなかった事にする」・・これは正成が後醍醐天皇に対して、比叡山に一度退却し足利尊氏を都に引き入れこれを撃つ戦略を提案したのに対しての言葉。

正成は、これで足利尊氏を撃つ計画はダメになり湊川で尊氏を迎え撃つ、命を懸けて戦った。

その楠木正成の千早城に行ってきた。平成22年11月16日に。
行ってみてびっくり山全体が要塞で急勾配の城を攻めるには大変であったろう。

千早城は、楠木正成が南北朝時代元弘2年(1332)に築いた山城で、少ない軍兵で、強大な幕府軍と互角に戦った事で有名な城である。

現地を訪れてその意味がよく判った。
管理者にお願い:千早神社の標識はあるが、本丸跡の標識を出して欲しい。
急な階段を上がった所と、千早神社と山の家の分岐点に詳しい案内板の設置をお願いしたい。

私の日本100名城紀行は、新潟県・長野県から西の城は全部終わった。(沖縄県は別)残りは25城、関東(小田原、江戸、佐倉は済)東北(弘前は済)、北海道、沖縄、である。

 次回の計画は、来春に茨城県水戸市に行く。
「桜田門の映画撮影用の大規模なセットが3月末まで公開との由・・これを見学して第14番・水戸城に行く計画である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本100名城紀行 大和高取城 

2010年11月19日 | 往年の名車 メグロ
日本100名城紀行 大和高取城 
 

日本100名城第61番高取城で、私は第74番目の紀行城である。

先ず、高取城を管理している奈良県高市郡高取町に物申す。
高取城に行く道路案内板がなってない。日本100名城に指定されたならばもっと詳しい道路に標識を出してもらいたい。不整備もはなはだしい。

日本100名城今回74番目であるが城に行くのにこんなに苦労した城は始めてである。・・登城が困難でなく・・道案内がなく困難である。・・100名城指定を辞退してもらいたい。

私は、小さく出ている高取城への看板をみて細い道に迷い込み方向転換も出来ない道に入り非常に困った。「例 この道は車走行不可・・徒歩のみ・・とか掲示してほしい」

うたい文句に、日本一の山城・・高取城であれば全国から多くのお城を愛好する人々が見学に来るのだから。
高取城に付いては何も書きたくない。

画像は、夢創舘でもらった「土佐街道散策マップ」車で行かれる方は最初に出てくる「高取城」行きの看板に惑わされないように。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする