Peanut scale.....fly above the rest!

伝説のピーナッツ・スケール
原始的?もしかしてハイテク?な、ゴム動力スケールモデル

Pegna P.C.1 No.4

2021-01-28 | PEANUT SCALE MODELS
忘れた頃に「ピアッジョ・ペーニャ」参上!
しばらく格納庫を温めておりました。その間数機が完成して飛び立って行きましたが、このイタリア機は居心地が良いのかずっと居座っていました。





それでは主翼組み立てから再開します。
前縁と後縁のラミネートが完成したらちょっと気が抜けた感は否めません、ここからはいつもの作業に戻ります。角材を敷き詰めたらスパーをその上に乗せ、そのまた上にリブを接着したら完成! 文字で書くと何と早いこと。
矩形翼じゃありませんからこの一連の作業も図面上で一本一本カミソリで長さを微調整しながら慎重に進めます、切り過ぎたらボツ。
リブの位置が少しズレているのは図面が左右対称ではなかったので赤線の位置に修正しました。





スパーとリブを乗せた状態です。サンディング前ですからかなりの重量感です、翼の剛性も前縁で持ってる雰囲気、削って細くなった時ヘナヘナにならなければ良いんですがちょっと心配。





外周をサンディングしてみました。前縁はまだしっかりしていますが後縁は薄くなった分かなりひ弱になっています。





サンディング中に破壊の事故もなく完成しました。リブを壊さなかったのはバルをいつもより厚くしたのが良かったのかも・・・ いつも必ずどこか引っ掛けて壊すんです。





ねじれも無く出来上がったんですが、後縁とリブの接着部分がこのままでは不安です。紙貼り後にここの接着が剥がれると翼自体が途端に弱くなります。そんなときは裏側からカッターで切り込みを入れて極薄の瞬間を流したりしますが、そんな事故を防ぐためにも最近は殆どの翼にガセット(三角材)を保険で付けています。
紙貼り後はかなりの力で紙が収縮しますから色んな所に負荷がかかります、翼が反る、ねじれる、薄いリブを使うと波打つ。紙に負けない元気なバルサを使う、これは機体が重くなる(イコール=飛行性能低下)方向でペケ! 軽い(イコール=弱い)バルサでも紙を適度に収縮させるような貼り方をすれば回避できる訳ですから、そのあたりの訓練をすれば翼が暴れることは防ぐことが出来ます。
理想を言えば適度に紙のテンションがあり、シワも出来ずに、翼に反りやネジレも無く、修正には敏感に反応し、最終的に軽い翼!!!! そんな翼は欲が深い・・・





主翼が仕上がったので今度はあまり気乗りのしない胴体の加工に戻ります。
前回はここで終わっていました。





折角苦労して取り付けた胴体上面のストリンガーをぶった切ります。理由は主翼が差し込めない!コックピットが作れない!


てなわけで三ケ所の角材を切り取ってバルサシートを埋め込みました、本当はしたくないけど・・・


そしてこの機体一番の本丸?かなり面倒で嫌いな作業、主翼を差し込むべき穴をくり抜きます。迎え角を2度から3度位必要かと思います。一度に大きく切り取らずに微調整しながら進めます。まるでトンネルを掘るように接触する箇所をマーキングしたら主翼を抜いてそこを削りもう一度差し込む・・・という作業を繰り返し前進して行きます。





主翼もリブのままじゃ「面」がはっきりしませんからプランクしました。これで中心まで進めたら一応成功ということにします。





バルサの反り返りで若干の隙間は出来ますが、これは紙を貼って抑えつければ問題ありません。
問題は主翼の迎え角でしょうか・・・ねじり下げとの兼ね合いでなんとかなると甘い考えを持っています。





必要部分だけを残してプランクを切り取ります。接着は仮付けなので簡単に切り取る事ができます。





もう一度差し込んでみます。所々引っかかりますがなんとか安住の地まで・・・ 神経使います!





全体像が見えてきました。





スピンナーも取り付けて・・・  空気を切り裂くシャープなイメージ。





後ろ姿も艶やか!





と、堪能したところで測ってみました。

流石に重いけど掛け2で7グラム、ちょっとご祝儀で7.5グラムってところでしょうか・・・

タイヤ付けないのが救い???? 水上機ですもん!!!!





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Farewell Bill Hannan No.2

2021-01-19 | PEANUT SCALE MODELS



1993. Magalia CA



1980年代にピーナッツを始めて数年後にハンナンさんとは今で言う「スネール・メール」の文通が始まりました。1980年代といえばパソコン通信が確立されて間もない頃で、1990年代にやっと今のようなインターネットがスタートしました。「アメリカン・オンライン」なんかが幅を利かせていた頃でしょうか。アメリカに住む友人からパソコンで「アメリカン・オンライン」の設定用フロッピーディスクが送られてきたのもこの頃です。悲しいかな当時はやっとワープロからIBMの「アプティバ」というパソコンに買い替えた頃でしたからパソコン通信なんて全く未知の世界で右も左もわかりません。ですからその後もスメールメールでのやり取りは続きました。
パソコンの電子メールに対してスネール(カタツムリ)メール、いわゆる国際郵便はアメリカまで約1週間、返事が帰って来るのにもう1週間、文通も月2回程しか出来ないのどかな時代でした。しかし英語の文面を考えたり機体の写真を撮ったり、たかが1通の手紙を出すのに多くの時間を費やした事は事実です、今だってそんなに変わりませんが。投函後は大きな仕事が終わったような気分で、その開放感は「これで2週間はハンナンさんからの手紙は来ない!」というのも「スネール・メール」の利点?でした、これが今では数分後に返信が帰ってきます。そんな現在ではあまり聞かない「文通」をした頃の遺産、彼から届いた手紙と写真だけを収めた数冊のファイルを今も大切に持っています。もうそんな時代にはもう後戻り出来ないけど今とは違うのどかな良き時代でした。

実機に関する資料の問い合わせを彼にすると即座に返信が帰ってきます。しかも彼自身が持っている資料が不完全な場合には可能な限り世界中の博物館や友人に問い合わせて必ず続報が届きます。ですからこちらとしても「コレ、作ろうかな・・・資料持ってないしちょっと聞いてみよう」なんて安易な気持ちでは聞けないんです。作り始めてからどうにも資料集めに「困った時の神頼み」が彼でした。

ハンナンさんが出版した多くの本には庄内ピーナッツ会員の機体をたくさん紹介してくれました。ピーナッツ・スケールだけを楽しむクラブなんて世界的にも珍しく庄内ピーナッツのコンテストやイベントには特に興味を示してくれ、その上多くの賞品を提供してくれました。

彼の人柄、性格なんでしょうけどすべてが几帳面です、そして同じ模型の世界で出会った人には出来る限りことをする、それが当たり前のように彼は行動します。色々なことを彼から学びましたがそれらの多くは模型作りだけでは無く今も私の中で役立っています。



2002.Magalia CA


彼の自伝から少しだけ抜粋して紹介します。

ウイリアム C. ハンナン
モデラー、コラムニスト、著者、本の出版、デザイナー、グラフィックアーティスト、1937年以来のモデラー
生年月日:1931年7月3日 AMA番号:19349

北米航空フライトマスターズフライングスケールモデルクラブの会報「フライトマスターズ」の編集者
全米スケールエアロモデラー協会副代表
ウィリアムズブラザーズ社の商品研究と開発
ゴム動力のスケール機に関する多数の本の著者および出版
「モデルビルダー」誌で25年近くにわたってコラム「ハンナンズ・ランウエー」を執筆

1986年:「全米フリーフライト協会」の殿堂入り
1987年:「モデル航空」の殿堂入り
1997年:「古いキットと製作図面」の殿堂入り


趣味とは恐らくほとんどの人の生活のほんの一部を表しています、それは単に副次的な関心や余暇にする行動。しかし私の場合にはモデル構築は永続的で中心的な情熱であり、それが私のサポート手段に発展し、時にはそれがほとんど執着になりました。どうしてそうなった?

私はこれらの結果をもたらした幼い頃の状況のいくつかを選び出すことができます。模型製作は静かで孤独な努力ですらあります。対照的に、その飛行ははるかに社交的である可能性があり、それが一部の人々がそれを「スポーツ」として分類することを好む理由かもしれません。そのような見方をすれば、それは個人のスポーツであり、私が若者として断固として避けていた荒々しいチームスポーツよりも、たとえばフィギュアスケートに似ています。
また、幼い頃から、数字よりも言葉や絵の方がはるかに快適で、理論よりも実践的なデモンストレーションの方が楽で、電気機器よりも機械的なものに感銘を受けたと結論付けました。これらの認識はめったに揺らいでおらず、そのような一見小さな意見や選択は私の人生に広範囲にわたる影響を及ぼしてきました。

フランス語には「デジャヴ(既視感)」という表現があります。これは「すでに見た、経験した」、または現在では「そこにいて、それをした」という意味です。実際には一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したことのように感じる現象です。これは、模型製作者としての私の進んできた方向に多数の「偶然ではない」再発を説明しているようです。
それはどのようにして始まったのでしょうか? 1920年代、祖父のスカイラー・コルファクス・ハンナンはモンタナ州ビリングスで大型ガソリンスタンドを経営し、地元の空港に隣接する土地を所有していました。ですから彼は後に世界的な名声を得た人を含む多くの初期の飛行士に出会いました。若いチャールズ・リンドバーグは資金不足で町に来て、ビリングスの自動車修理ガレージで一時的に仕事をしました。リンドバーグは、私の父であるテッド・ハンナンと同じように、輸送のためにバイクに乗りました。それが共通しているので、彼らは何気なく知り合いになりました。
私の父であるテッド・ハンナンはあまり航空志向ではありませんが第二次世界大戦中にB-17尾部銃手を務めました。リンドバーグが「翼よ、あれがパリの灯だ」のスピリット・オブ・セントルイスで大西洋横断飛行した翌年の1928年、テッド・ハンナンはパール・リードと結婚し、1931年に私は生まれました。私が3歳になる頃には、お気に入りのおもちゃは飛行機で、祖父が良く飛行場に連れて行ってくれ、色々な飛行機を見に行ったことがありました。彼は私をフォードトライモーター乗せる手配をしてくれたこともありました。しかしその飛行で私が唯一記憶しているのは飛行中に母の籐の洋服かごと同じような音を出して籐のシートがきしむことでした。別の時、私は母の膝の上に座ってオープン・コックピットの複葉機に乗って飛行しましたが、私はその機体がどんな種類の航空機であるか興味を持つようになりました。そして1936年頃になると私は自分でいくつかのタイプを識別でき、当時有名なスタントパイロットのテックス・ランキンのライアンSTに彼の名前が反転して描かれているのを見てとても感銘を受けました。




2015. Disneyland CA





2017. Hawaii




2018. Curtiss LeMay Car Museum, Tacoma




さよならハンナンさん・・・



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