「ピーナッツ・スケール」の生みの親、ディーブ・ストットさんが他界されました。
心よりご冥福をお祈りいたします。
Dave Stott 10/30/2010
Dave Stott was the founder of the Flying Aces Club and popularized P-nut scale model. He and Bob Thompson sent Peanut scale models to our first Shonai P.P.P.P. Contest on August 13th 1985.
庄内ピーナッツが世界的に知られるようになったきっかけは、日本で始めて本格的なピーナッツ・スケールのコンテストを開いた事かもしれません。もちろん地道な活動も行ってきましたが、当時の我々は恐いもの知らずでしたから、恐れ多くもP.P.P.P.Contest (parcel post proxy peanut)小包・郵送・代理飛行・ピーナツツ・コンテストの開催を世界に向けて発信してしまいました。「で、どーすんの色んな飛行機が送られて来ちゃったら?」「何とかなるでしょ・・・たぶん」
そして昭和60年(1985年)8月13日、この日本においては歴史的な1ページとなった第1回庄内P.P.P.Pコンテスト(現在の名古屋ナッツ)に、何とピーナッツ・スケール生みの親(2人)からそのピーナッツ発祥当時の機体2機が送られて来たのです。その一人、ディーブ・ストットさんが昨日他界されました。彼はF.A.C.(フライング・エーセス・クラブ)を作り、スケール機が競技専用機と同じように楽しむことが出来るルール作りに40年近く携わって来ました。もちろん精力的にスケール機の図面も描き、多くの機体製作方法や飛行調整方法の記事も会報「F.A.Cクラブニュース」に残されています。
その当時の状況を書いたビル・ハンナン氏の「THIRTY YEARS OF PEANUT SCALE」にあるBACKGROUND (その歴史)から少し引用します。この記事は庄内100号記念誌に掲載されたものです。
THIRTY YEARS OF PEANUT SCALE (Bill Hannan) Jiro Sugimoto 訳
Background (その歴史)
大小を問わずフライングスケールモデルの起源は1900年代の前半にさかのぼりますが、それらが人気の頂点に立ったのはおそらく1927年のチャールズ・リンドバーグによる壮大な大西洋横断飛行と、第二次世界大戦の間だと思われます。この時代に模型雑誌の売れ行きと、模型クラブ会員の増加は大変なものでした。大きなスポンサーのついたコンテストが各地で多く開かれ、また模型飛行機のキットメーカーは盛況を極めていました。
とりわけアメリカ国内ではコメット、メゴウといったブランドの5~25セントで買う事のできる低価格なスティック アンド ティシュウ(バルサ骨組み紙張り)のキットに人気が集まりました。これらのキットは縮尺よりもむしろ主翼幅でグループ化されて売られているのが普通でした。そしていろいろな種類の機体が入手可能でした。
キットの内容は今日のものと比較しても実に豪華で、カラフルな紙箱の中身は印刷されたバルサシート、バルサの角材、機械加工によって整形されたバルサのプロペラ、紙張り用の色のついた紙(十分ではないけれど)、小さなチューブに入ったセルローズの接着剤(十分ではないけれど)、形作られたピアノ線のプロペラ・シャフト、真鍮製のスラスト・ワッシャー、ウインド・シールドとかキャビンに使うセルロイド、動力用ゴム、木製のスラスト・ボタン、堅い木のホイールなどでした。その時代の物価を調べてみると、ハリウッド映画の入場料は10セント、そしてフライング・エイセスの雑誌は15セントでした。
これらの価格の時代は去ってしまいましたが、この黄金時代に作られたキットの甘い記憶は残っていました。1967年頃、コネチカット州に住む二人のモデラーがこれらのシンプルなフライングスケールモデルをよみがえらせようと決意したのです。ディーブ・ストットとロバート・サンズ・トンプソン、そして彼等の仲間達は、ザ・フライング・エイセスという名の厳しい規律を作らず楽しむことを主としたクラブを作りました。彼等はまた同名の会報を発行し、コンテスト結果、図面、実機の三面図、模型製作のヒントやちょっと変わった編集記事を載せていました。
ストットとトンプソンは古いキットの図面をベースにした翼長1フィート(30センチ)のバルサ骨組み、紙張りのスケール機コンテストを思いついたのです。そして「ピーナッツ・スケール・イベント」と命名しました。この小さなスケール機の記念すべき最初の競技会では、12インチ・スパンのHoward Pete レーサーを飛ばした有名なモデラー、ヘンリー・ストラックが優勝しました。その後、古いキットの図面は翼長1フィートを越えるものが見つかり、1インチ(2.54センチ)の余裕を持たせて13インチ(33センチ)の翼長をピーナッツの規格と定めました。愛好者達は大きな模型図面を縮小したり、実機の3面図を拡大して13インチ・ピーナッツを作り始めたのです。やがてこの翼長規定に一番有利なアスペクト比が低く、翼面積の大きな実機を探すようになりました。その結果大きな翼面積を持つだけではなく上半角をつけなくても良く飛ぶファイク、レーシーといったホームビルト機が出現しました。 しかしそれらの機体がいつも勝つというわけではありませんでした。
最初、ピーナッツ愛好家は少数派でした。そしてこの小さな模型飛行機は、大型機や高価な飛行機を作る人たちからは認知されていなかったのです。 この態度は彼等が展示されたかわいい機体、そしてその飛行の実力を目にした時変化したのです。 そして一般の見物人までも魅了しました。
ピーナッツのニュースはしばらくして敏感なフライト・マスターズ゛のクラブメンバーが住む西海岸にも届きました、そしてネバダ州へ、カナダへ、ゴム動力機をこよなく愛するイギリスへ。フランス、ポーランド、チェコスロバキアにおいてもベルギーやドイツと同様、喜んで受け入れられました。
多くの場合、ピーナッツは一人か二人の愛好家、もしくは一つのクラブによって世界中に広がっていきました。オーストラリアではブルース・ケネウエルによって1970年の中頃、エアーボーン・マガジン誌に最初にこのピーナッツに関する記事を寄稿 したことによって始まり、ニュージーランドでも愛好者が増えていきました。日本では山田一郎氏によって初めて紹介され、その後内田昭一氏と庄内ピーナッツの仲間によって 国際的にもその工作技術が認知され ピーナッツ・スケールの躍進に貢献しました。
Jiro Sugimoto built this Peanut "Waco YKS-6" from Dave Stott's plan in 2002.