当たり前、は家庭から

2006-07-28 11:19:01 | 教えない
勉強を進めて行くときに大切なことの一つに、その人には何が
「当たり前」であるか、ということがあります。

その大元は家庭教育にあるようで、兄弟を見ていると共通している
ことがよくあります。多分保護者の方も「当たり前」と思っている
ことなのでしょう。
それでご家庭では兄弟でも違いのほうに目が向くのですが、そちら
よりも、この「当たり前」の感覚が大きいのです。

これは保護者、親戚など周りが教育するのですが、「当たり前」の
ことだけにほとんど無意識にちかい感じで教えているのです。
親の背中で教える、のもそんなところでしょう。

「当たり前」の違いとはどのようなものかと言いますと
ある生徒が「宿題はしなくてはいけないもの」と思っていれば
別の「宿題は適当に」という生徒とは力の差がついてきます。
シンドイ時があっても「当たり前」だから宿題をやるのです。

「計算は合うのが当たり前」の子と「けっこう合わないもんだ」と
では集中力が違ってきます。
漢字でも、いったん習ったものを忘れて「まずい」と思うかどうか
で定着率が違ってきます。

塾や学校でも気をつけているはずですが、言葉で教えて、では心に
届き難い。ましてや、渋々しかたなく、などでは当たり前の反対。

結構タイヘンなことでも、当人にとってそれが「当たり前」であれ
ば心理的な負担が少ないので、努力できるのですね。

進学塾では「受験生ならこれくらいは当たり前」という気持になる
ようにもっていきます。集団でそうなれば強いですね。個人塾では
それがやりづらいので、受験においては、正直なところ、弱いです
ね。それを別の所でカバーできるかが、塾の力の見せ所ですが・・
ここから先はマル秘。第一志望校に通っていない子もいますから
大したマル秘でもないのですが、いずれ機会があれば書きます。

それはさておき
「教えない」も「当たり前」になればよいのです。
生徒にとっては、大人が思うほどシンドイことではありません。


近年、家庭でほとんど料理をしなくなった人が増えたように、家庭
での教育が少なくなった、という話を聞きます。
それが当っているかどうかは、私に確認できることではありません
が、家庭の教育観が多様化していることは間違いないようです。

家庭の教育力について、これも狭い範囲の見聞きだけの話ですが、
少なくとも、私の塾のような、ハナからシンドそうな塾に行こうか
という生徒やご家庭では問題はないでしょう。
「勉強だから、多少シンドイのは当たり前」と思っていらっしゃる
ハズですから、そこからスタートすれば、ご家庭の教育観にそって
進めていかれて問題は出てこないでしょう。

冗談ですが、次のキャッチコピーはどうでしょうか?
「井上に行く気になれば大丈夫」
ちょっと誇大広告になりますか?ええ?逆効果・・そうかも。

ところで
塾を始めた頃はさすがにイマヒトツというご家庭もありました、
「塾にお任せ」と、あり難いお言葉ですが、家庭では何もしない
ということだったのです。そのケースでは。
結局、数ヶ月しか続きませんでした。私も反省です。

もしかして「子供の自主性を尊重する」という言葉での責任放棄
もあったかもしれません。
大切な考えですが、正しい実行が難しいものですよね。
でも難しいといっても皆様にお願いしていることでもあります。
私が知るおよそのご家庭ではうまくいっていますので、あまり
神経質になられる必要はありません。
上記は私が以前出会った極端なケースですから。