一斉授業の負の構造

2008-09-24 15:04:11 | 塾あれこれ
以下はあくまで私の経験した範囲での話です。

一般論として成立するかどうか、不明です。
留保してお読み下さい。

進学塾で集団を相手に一斉授業をしていました。
小中、できるクラス、できないクラス、色々です。

授業ではクラス毎におよそのラインを想定し
その辺りが理解できるように授業をします。

もちろんクラスにより設定は様々です。

この想定とは別のレベルのこととして塾のスタンス
カリキュラムやシラバス、会議などによる調整などが
あります。

しかし授業でのパワーは上記のライン設定が一番の
役割を果たしましたね。


クラスで一番下を設定することはありません。
全体の成績を考えるとあまり低い所に焦点を当てる
授業は効果が薄いでしょう。

一番下を設定しないということは、最初から全員が
理解できるということを放棄した面があります。

それでも良い授業をすれば皆クリアーしてくれること
もまったくないとはいえません。
ただ現実問題としては分らない子が出るのが通常。

そういう構造を作っておきながら
実際の感覚はどうであったかというと

「ついてきてもらわないと」

あまりに申し訳ない話ですがそういう感覚を
持っていたというのが正直なところです。

以下当時の自分勝手を続けますと

この教え方で大半の生徒はできていますよ。
だれそれにできてなぜこの人が出来ない!

分らないなら質問すれば良いでしょうに。
補習にきて下さい。

だいたいやね、もっと授業を真剣に聞けば
分るはずです。
こちらが言うことを守ってやってくれれば
誰だってできるようになっているのです。

「それ、家で覚えてきなさいよ。」もありました。

或いは次のような考えを持ちました。

友人など人間関係で気持ちが盛り上がらない
のであろう、とか
これまでの学習のどこかでつまづきがあったか
などです。
原因を他に求めているのですね。


旧軍隊では何かにつけ競争をさせたそうです。

順位をつけ最下位に罰を与えます。
つまり罰を与えるのが目的で競争をさせている構造
ともいえるわけです。

一斉授業というのはどこかそれに相似の構造が
あるのではないでしょうか。

成績に上下をつけ、下のものは自己責任を
果たしていない、と。
「おまえ自身のせいで成績が悪い」

実は遅れを作ったのは授業をする側ではないか?
長いスパンで人間の成長を見守るのではなく
「細やかなシラバス」を強引に押しつけて。

補習でカバーします、ですって?
本気かなあ?

いつもいつも補習に来させられる人間の気持ちは
どうなるのでしょう。
劣等感を定着させているだけではないのかな。

一斉授業をしながら(個別も対応します)という形は
怪しいと思うユエンです。


私は塾で「個別」をしているのですが
ここでも成績の下の子は苦労して勉強しています。

学校などで劣等感を(教育)してくれますから
彼らは勉強の即効性を望むのです。

すぐに出来るようになりたい。
地獄を抜け出したい。

長いスパンでの勉強が必要なのにそういう生徒に
限ってホンネは「すぐ○をとりたい」のです。
二重の苦労を背負ってしまっています。


もしも公教育が完全に個別になれば
世の中の塾はその殆どが不要になるでしょう。

そうなる見込みは現時点では100%ありませんけれども。