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kan-haruの日記

イベント 都営交通100周年記念特別展 東京の交通100年博~都電・バス・地下鉄の“いま・むかし”~その2

2011年09月17日 | イベント
kan-haru blog 2011 0922改版 円太郎バス(日本乗合自動車協会)  

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大正から戦争期まで
第2章の 「震災の街を走る円太郎バス~都バスの誕生~」では、関東大震災により東京全域は大きな被害を受け、市電は運転不能となり、電車も800両近くが焼失し、東京市電気局はアメリカより自動車を緊急輸入し、乗合バス(愛称:円太郎バス)の運行を開始しました。都営バスの元祖である円太郎バスのが展示されており、大正中期から戦争期までの東京の交通を見ていきます。

・東京市電運転系統
関東大震災前年の1922年(大正11年)12月に東京市電の路面電車は、12系統を運転しており、その番号は、1系統:品川―雷門・三田出張所、2系統:青山七丁目―雷門・青山出張所、3系統:新宿―雷門・新宿出張所、4系統:柳島―大手町・本所出張所(亀沢町:後に柳島:)、5系統: 大塚駅前―土橋・大塚出張所、6系統: 巣鴨―御成門・巣鴨出張所、7系統:千住大橋―人形町・三ノ輪出張所、 8系統:青山六丁目―永代橋・日比谷出張所(後に青山南町)、9系統:飯田橋―芝口・有楽橋出張所、11系統:天現寺橋―永代橋・広尾出張所、12系統:早稲田―須崎・早稲田出張所、13系統:大塚駅前―万世橋・神明町出張所です。

 八輪ボギー客車[型大正十年式1979~1988、2009~2023]

・関東大震災
関東大震災は、1923年(大正12年)9月1日に神奈川県相模湾北西沖80kmを震源として発生したマグニチュード7.9の地震災害で、住宅被害棟数37万2千戸余り、死者・行方不明者数10万5千余の被害を受け、地震の発生時刻が昼食の時間帯と重なったことから、134件の火災が発生し、地震発生時の強風に煽られ、「陸軍本所被服廠跡地惨事」で知られる火災旋風を引き起こしながら広まり、鎮火したのは2日後の9月3日10時頃とされています。

 関東大震災の災害1 (左)銀座煉瓦街のミニチュア(江戸東京博物館)1873年Wikipedia:ここをクリックすると銀座から南を望む地震災害写真(*)が見られます。(右)仲見世Wikipedia:ここをクリックすると 浅草仲見世の地震災害写真(*)が見られます。
 *クリックにより国立科学博物館地震資料室関東大震災写真のリンク先写真が見られます。

震災予防調査会の調査を基に修正を加えて作成された東京震災録の値によると、全出火点134か所のうち即時消し止め火災が57か所で、消し残った77か所延焼火災となった。延焼は、市域全面積79.4km2のうち43.6%にあたる34.7km2に及び、日本橋区、浅草区、本所区、神田区、京橋区、深川区ではほとんどの市街地が焼失している。とくに浅草区北部、神田区西部、本所区では、軟弱地盤による地震動の増幅が木造家屋の倒潰を招き、そのことが延焼火災の同時発生という最悪の事態をさらに招いて、多くの火災による犠牲者を出すという結果となった。(内閣府防災情報広報誌防災平成19年7月号 [第40号]から)

 関東大震災の災害2 (左)帝室博物館(現東京国立博物館)Wikipedia:ここをクリックすると上野帝室博物館の地震災害写真(*)が見られます。(右)現アサヒビール吾妻橋本部ビル:ここをクリックすると元札幌ビール工場の地震災害写真(*)が見られます。
 *クリックにより国立科学博物館地震資料室関東大震災写真のリンク先写真が見られます。

関東大震災発生前の東京都心の日本鉄道の電車運転は、上野駅が1883年(明治16年)7月に仮開業し、1885年(明治18年)7月にレンガ造2階建ての本駅社が竣工して、1909年(明治42年)に上野-新宿-品川-烏森の区間で電車の運行が始まりました。
               関東大震災の災害3 (左)上野駅 落成式当日の新上野駅舎(1932年4月3日)Wikipedia:ここをクリックすると公園から見た上野驛の地震災害写真(*)が見られます。 (右)大震災前の中央線万世橋駅(大正12年)頃Wikipedia:ここをクリックすると神田須田町万世橋駅の地震災害写真(*)が見られます。
 *クリックにより国立科学博物館地震資料室関東大震災写真のリンク先写真が見られます。

そして、1914年(大正3年)に東京駅が開業して、1919年(大正8年)に神田―万世橋間が完成し、今日の循環山手線は当時では「の」の字運転でした。上野―神田間の「高架工事」は、1920年(大正9年)に開始されましたが、1923年(大正12年)9月の関東大震災により、上野レンガ駅舎が崩壊しました。なお、写真の飯田町駅は現飯田橋と水道橋の中間に位置した、当時の開業駅です。

 関東大震災の災害4 (左)飯田町駅(飯田橋散歩路から):ここをクリックすると飯田町駅の地震災害写真(*)が見られます。 (右)1925年に環状運転を開始した時の山手線Wikipedia:ここをクリックすると鉄道高架線芝区の地震災害写真(*)が見られます。
 *クリックにより国立科学博物館地震資料室関東大震災写真のリンク先写真が見られます。

東京市電は関東大震災大被害を受け、本局庁舎(東京都交通局)が全焼し、市電車庫の5ヶ所が全焼、車両777両消失、軌道・軌道橋・架線も大被害を受けました。東京市電気局は、東京都交通局が運営している電気事業を行い、1911年(明治44年)8月1日に発足し、東京鉄道株式会社から引き継いだ3箇所の火力発電所(品川、深川及び渋谷)の運営を開始して、路面電車(市電)事業と電気供給事業を開始したことになります。

 震災による市電の被害 (左)銀座通り1933年:ここをクリックすると銀座通りの市内電車の残骸(*)が見られます。 (右)浅草雷門通1958年:ここをクリックすると浅草雷門通の電車の残骸(*)が見られます。
 *クリックにより国立科学博物館地震資料室関東大震災写真のリンク先写真が見られます。

・円太郎バス
関東大震災で壊滅した市電の代替輸送として、大正13年にアメリカのフォードから貨物自動車用シャシを緊急大量輸入し、これに木製車体(客室)を新製したバスが使用されました。バスは、車体前方のガソリン機関から推進軸が床下後方に延びて後軸をウォームギアで駆動し、運転席床上には運転用足踏みペダルが三本取り付けられている。これらはフォードTT型独特の方式である。1924年(大正13年)1月18日に、中渋谷-東京駅前と巣鴨-東京駅前の最初の2路線が開業し、年末までに800両が揃い計20系統で運用されました。
明治初期に、落語家の四代目橘(たちばな)家円太郎が、東京市内を走っていた乗合馬車の御者のラッパを吹いて演じたところ、“ラッパの円太郎”といわれて大いに受け、乗合馬車が「円太郎馬車」と呼ばれた。この乗合馬車とバスが形態面で類似していたことから、新聞記者が「円太郎バス」と名づけ、広く呼ばれるようになりました。
なお、円太郎バス(フォードTT型)は、日本機械学会「機械遺産」の機械遺産 第28号として、2008年に認定されています。

 円太郎バス(左)須田町交通博物館の円太郎バス:ここをクリックすると震災後に上野駅より浅草方面に走る市電と円太郎バス(*)が見られます。 (右)東京モーターショウ2002の円太郎バス:ここをクリックすると人形町を走る市電と円太郎バス(*)が見られます。
 *クリックにより国立科学博物館地震資料室関東大震災写真のリンク先写真が見られます。

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